131. 消えたマイラ
エリクスがしっかりと意識を取り戻したのは、マイラが病室を去った次の日のことだった。だが彼がそれを知ったのは、目を覚ましてからさらに数時間が経過してからのことだった。
「え!?昨日マイラがここに来ていたんですか?」
ヨセフィーナと病室で会話をしている時に告げられた事実に、エリクスは動揺する。
意識を取り戻した今、父、母、リアや数名の親戚達がお見舞いに来てくれていたのに、マイラが一度も顔を見せないことは確かに変だと感じていた。
「ええ。目を覚ましたとはいえ、あなたはまだ調子が悪そうだったし、あなたのお母様からもそのことはまだ言わないようにと口止めされていたの。」
「母が、口止めを?」
エリクスはそれを聞いて眉間に皺を寄せる。
「ええ。それとね、あなたが回復したのは、マイラさんのおかげだと思うわ。」
「それは・・・もしかして彼女は『治癒の魔法』を使ったんですか?」
ヨセフィーナは少しだけ目を丸くして微笑んだ。
「ええ、おそらく。私は目撃していないけれど。ああ、でもディーン・ジェックスは見ていたかもしれないわね。」
彼女は小さな背もたれのない椅子に座って足を組み、じっとエリクスを見つめる。
「彼に会って話を聞きたいかしら?」
「いいのですか?」
「構わないわよ。兵士は付き添わせるけれど。」
「ぜひお願いします!」
エリクスの焦りがヨセフィーナにも伝わってくる。彼女はにっこりと微笑んで椅子から立ち上がった。
「少し待っていて。」
その後三十分ほどしてから、ヨセフィーナが再び病室に現れた。さらにその後ろから、ディーンが顔を俯かせながらやってくる。
「ディーン。」
エリクスの声に、彼はパッと顔を上げた。
「エリクス、良かった!・・・本当に。」
「ああ。」
「マイラさんのことを、聞きたいのか?」
ディーンは言いにくそうにそれだけ言うと、きゅっと口を閉じた。エリクスはその表情を見ながら、過去のことは一旦忘れようと心に決める。
「お前とマイラの間にあったことは今は気にしなくていい。とにかく昨日何があって、今彼女がどこにいるかを知りたいんだ。」
ヨセフィーナは後ろにいた部下の肩にそっと触れると、静かに部屋を出ていく。それを横目で確認すたディーンはゆっくりと口を開いた。
「すまない。先に伝えておくが、彼女が今どこにいるかは知らない。昨日俺が見たのは、病室から漏れ出る光が眩しく感じるほど強烈な光と、それが収まってから部屋に入った時に明らかに生気を取り戻していたお前の姿だけだ。」
ディーンの言葉に嘘は無いと感じたエリクスは黙ってその言葉を受け入れ、小さく頷いた。そしてディーンは消え入るような声で一言だけ付け加えた。
「彼女、どうして目を覚ましてくれないのか、って辛そうに呟いてたな。」
「そう、か・・・」
エリクスの顔が苦しそうに歪む。ディーンはじっとその顔を見ていたが、フッと顔を背けるとそのままエリクスに背を向けた。
「早く彼女に元気な姿を見せてやれよ。俺は、お前が助かったならそれでいい。それと・・・色々、迷惑かけたな。」
「・・・ああ。」
その短いやり取りの後、ディーンは振り向くことのないまま、軽く手を挙げてから兵士と共に静かに廊下へと出ていった。
静かになった病室の中で、エリクスは無意識に自分の胸を触っていた。
あの日、確かにここにあの魔法の刃が突き刺さったはずだった。その瞬間、痛みよりも熱さよりも、感じたことのない強烈な衝撃に耐えきれず息が止まった。
そして、意識が途切れた。
マイラはきっと自分が倒れたのを見て急いで絵を見にアトリエに行き、エリクスを助けるために急いでここに来てくれたのだろう。
(だったら、マイラはどうして今ここにいないんだ?)
ぐるぐると巡る疑問と不安が、エリクスの胸を押し潰さんばかりに膨らんでいく。
ふと思い立って怪我をしたはずの場所を見てみると、そこには怪我の痕跡すら残っていなかった。とすれば、間違いなくマイラは『治癒の魔法』を成功させたはずだ。
そして今度は同じ疑問が口をついて出てしまう。
「じゃあ、どうしてマイラはここにいないんだ?」
「・・・もしかしたら彼女、誤解したのかもしれないわ。」
「ヨセフィーナさん!?どういうことですか?」
音もなく再び病室に戻ってきたヨセフィーナは、珍しく気まずそうな表情でエリクスを見ていた。
「あなたが昨日マイラさんに何らかの魔法をかけられた後、彼女が医師を呼びに病室を出ていったの。でも戻ってきた時、あなたはまだ意識は無かったんだけれど、マイラさんと間違えたのか、無意識のまま私のことを引っ張ったのよ。・・・後ろから見たら、何らかの誤解を生むような近さまでね。」
「・・・!」
エリクスはその事実に真っ青になり絶句してしまった。間違いなくマイラは誤解したのだろう。ヨセフィーナとは婚約者候補だったという過去がある。誤解されても仕方のない関係性、しかも明らかに怪しい行動・・・
(マイラはきっとショックを受けたに違いない!)
「ごめんなさい、私もすぐに彼女を引き留めておけばよかったんだけれど、まさかここに戻ってこないとは思わなくて。」
首をゆっくりと横に振りながらエリクスは言った。
「いえ、あなたのせいではありません。それより急いで彼女を探さないと。」
ヨセフィーナはその言葉で少し安堵したのか、「いつでも協力します」と告げ、ディーン達と一緒に病院を去っていった。
エリクスは彼女を見送るとベッドから起き上がり、床に揃えて置いてあった靴を履いて病室内をゆっくりと歩いてみる。だがふいに立ちくらみに襲われ、壁に手をついた。
(ああ、痛みは無いが貧血が酷いな。怪我は治っても削られた体力はそう簡単には戻らないらしい・・・)
一旦ベッドに戻り、そこに腰掛けた状態で自分の体の動きを何度か確かめると、もう一度立ってみる。今度はだいぶいいようだ。
「よし、行くか。」
だがエリクスが病室を出ようとしてドアに手を掛けたその時、廊下側からドアが開かれ、エリクスは驚いて一歩後ろにさがった。
その時ドアの向こうから現れたのは、母セシーリアだった。エリクスはハッと息を呑み、ふうっとそれを吐き出した。
「母上、今日は二度目ですよ?」
「エリクス、あなたどこへ行くつもり?」
二人はそこで黙りこみ、じっとお互いの顔を見つめあった。少しの沈黙の後セシーリアはドアを閉め、そのドアに寄りかかった。
「あの子を追うつもり?」
エリクスは、母の強い視線に晒されながらも目を背けることはなかった。
「ええ。マイラを探しに行きます。」
「あなたはルーイ家の跡取りなのよ?そんなことが許されるとでも?」
「ですが母上は、手に入れたいものを手に入れるために結果を出せと仰った。俺は・・・結果を出したはずです。」
セシーリアはドアから動こうとはしない。
「そうね、確かにそう言ったわ。結果も出したのは認める。でも、あの子をルーイ家に嫁がせることを認めるとは言っていないわ。」
エリクスの体から魔力が滲み出る。セシーリアの頬が一瞬ピクッと動いた。
「・・・では、俺はルーイ家を出ます。」
溢れ始めた魔力が部屋中に満ちていき、あらゆる物がカタカタと音を立て始めた。だがセシーリアはその強いエリクスの力に気付きつつも、決してドアから離れようとはしなかった。
「自分が何を言っているかわかっているの?」
セシーリアは腕を組んで顎を少し上げる。エリクスはゆっくりと、そして深く頷いた。
「はい。」
「・・・」
セシーリアは手を軽く上に振り上げ、何かを小さく呟いた。すると部屋全体に金色の光が降り注ぎ、二人の手元で弾けるような光が散った。
「私達が結んだ契約は無事終了したわ。後は好きにしなさい。その代わりルーイ家の後継としての仕事は一旦取り上げるわ。」
エリクスはただじっと母を見つめる。セシーリアはドアから少し離れた場所へ移動すると悪戯っぽく微笑んで言った。
「そんなに大事な人なら全部を捨てる覚悟で探しに行きなさい。それとも、その覚悟もなくあんな可愛らしいお嬢さんをうちみたいな大変な家に嫁がせる気だったの?」
「母上・・・」
セシーリアが反対していた意味を何となく理解したエリクスは、はっとなって目を大きく開いた。
「もしこの家に戻れなくても、俺はマイラを探しに行きます。絶対に、連れて戻ってきます!」
そして、柔らかく微笑む母の手が、エリクスの背を強く押した。
「早く行きなさい。」
「はい!」
そうしてエリクスはドアを大きく開き、明るい光が窓から降り注ぐ廊下へと、新たな一歩を踏み出していった。