130. 治癒の魔法
馬車を降りたマイラはただひたすら、必死に走った。病院の前の通りは先ほどの騒動で大勢の人と馬車で大混雑し、建物の目の前まで馬車で行けるような状況ではなかった。
仕方なくイリスを残して一人馬車を降りると、マイラは人混みの合間を縫うようにして、混沌の中にある大きな通りを走り抜けた。
そして、病院に到着する。
中に入ると多くの怪我人が待合室を埋め尽くしており、マイラは先ほどまでのあの地獄のような光景を思い出さずにはいられなかった。
(酷い・・・兵士だけじゃない、一般の人達までこんなに巻き込まれちゃったんだ)
普段であれば余裕で通り抜けられるはずの広い廊下は、今は多くの人で占領されていて床が見えないほどだ。それでもどうにか場所を見つけながら前へと進み、階段を見つけ、そして病室の並ぶ二階へと駆け上がった。
二階には兵士達が多く立っていたが、その廊下には問題なく歩けるだけのスペースがあった。マイラは再び足を速めてエリクスのいるはずの病室を探していく。
焦りを感じながらも一つずつ部屋を確かめ、とうとう一番奥の小さな部屋へと辿り着いた。
「あっ!?」
その病室の前には、ディーンと二人の兵士が立っていた。間違いなくその目の前の部屋がエリクスのいる病室だ。
「マイラさん!」
マイラに気付いたディーンが大きな声をあげた。慌てて横にいた兵士達も振り向く。
マイラはそこに走り寄り、状況を確認した。
「お兄様は!?」
「大丈夫・・・とは言えない。でも、君が来るまであいつは持ち堪えた。後は、頼む。」
マイラは黙って頷くと、意を決してドアを開けた。
「エリクスさん・・・」
そこで目にしたのは、見たこともないほど青ざめた顔をしたエリクスがベッドで横たわる姿だった。
その時、ふと自分の奥深くに眠る記憶が呼び起こされる。
真っ白い壁、ベッドの周りを囲う白いカーテン、薬品の匂い、そしてひたひたと自分に忍び寄る死の気配・・・
無意識のうちに震え始めていた体に気付き、マイラは自分の頬を強く叩いた。
「しっかりしないと!今を生きないと!」
震えは止まらなかったがマイラは一歩前に進み、エリクスのベッドの真横に立った。
左手をゆっくりと彼の手の上に重ねる。
そして目を瞑り、あの絵を思い出していく。
(どうか、どうか、エリクスさんが助かりますように)
そしていつもなら振り上げるはずの右手も、そっと左手の横に添えた。
『どうか、エリクス・メイ・ルーイの怪我が全て癒やされますように・・・』
それは、通常の魔法では絶対に口にしない、見えない大きな力への『祈り』の言葉だった。
マイラがエリクスの描いてくれた絵を見た瞬間思い浮かべたのは魔法ではなく、『大いなる存在への祈り』だった。
自分の力など到底及ぶことのできない、奇跡の力。それは前の人生では決して得られなかった、神と呼ばれる存在にしか振るえない特別な力だ。
(きっとエリクスさんを助けられるのは私の力じゃない。私をこの世界に生かしてくれた何か大きな存在の力を貸してもらうしかない!)
だがその言葉を発してすぐは、何も起こらなかった。それでもマイラは目を閉じたままあの絵の光景を脳内に浮かべ続ける。
光が溢れ、それがエリクスの体内を駆け巡り、深い傷を少しずつ確実に癒していくイメージ。そして彼が・・・マイラの手をしっかりと握り返してくれることを祈る。
「エリクスさん、お願い、目を覚まして!もう逃げないから。あなたを愛しているから!お願い・・・どうかこの人を助けてください!!」
マイラの頬に涙が次々と流れていった、
その時。
エリクスの手の甲を握りしめたマイラの手のひらから、突如として眩い光が溢れ出した。
それは次第に勢いを増し、マイラは驚いて目を開ける。だが今度は眩しさのあまりそこから目を背けた。
「まぶ、しい」
ぎゅうっと目を瞑り、エリクスの手をさらに強く握りしめる。その手から徐々に温かさを感じられるようになってくるにつれ、光も弱まっていく。
ガタガタ、と音がしてドアが開き、ディーンが入ってきた気配を感じて再び目を開いた。
「マイラさん、エリクスの手が!?」
ディーンの言葉にハッとして、握りしめていたエリクスの手を見つめた。すると彼の手には少しだけ赤みが戻っており、微かに動いた感触も伝わってきた。
「エリクスさん!!」
エリクスの顔も、心なしか先ほどより和らいだ表情に見える。顔色も明らかに良くなっている。ディーンもその様子を見てほっとしたのか、ふいに声をあげて泣き始めた。
だが、彼は目を開かない。
「・・・どうして目を覚ましてくれないの?」
マイラが泣きそうな声でそう呟いた時、再び病室のドアが音を立てて開いた。
「ディーン・ジェックス、あなたはもう行きなさい。」
そこに現れたのは、ヨセフィーナだった。彼女はいつも通り凛とした美しい姿勢でそこに立ち、テキパキと部下達に指示を出していく。そしてディーンは兵士達に連れられて廊下へと出ていった。
ヨセフィーナは優しい笑みを浮かべると、マイラに静かに声をかけた。
「マイラさん、どうやらあなたが彼のために何かしたようだけれど、まだ意識は戻っていないわ。でも顔色はだいぶよくなっているみたい。だから一度先生を呼んで診てもらいましょう。ね?」
不安が、心を蝕んでいく。
「・・・私、呼んできます。」
「ええ、お願い。」
うまくいったのか、それとも力不足だったのか。
何も解決していない状況の中エリクスの元を離れるのは心苦しかったが、僅かな希望を抱えて医師を探しに廊下へと出る。
少ししてからマイラの怪我も診てもらったあの医師を運良く見つけることができ、一緒にエリクスの元へと戻った。
医師と話しながら廊下を早足で進み、ドアを開けてベッドに目を向けた。
だがそこで見たものは、マイラの心を打ち砕く、衝撃の光景だった。
「え・・・」
ヨセフィーナの手がエリクスに引き寄せられ、その顔が彼の顔の目の前にあった。マイラの視点から見るとそれはまるで、二人が今まさに唇を重ね合わせているかのようだった。
(そっか・・・そうだよね、忘れていたけれど、エリクスさんはルーイ家の大切な跡取りで、私はセシーリア様に受け入れられることはないんだった・・・)
そのことをはっきりと認識したマイラは、血の気が引き、クラっとする感覚を感じながら病室を飛び出した。
エリクスの状態を見る限り『治癒の魔法』はうまくいったのだろう。だが目覚めた彼が選んだのはきっとマイラではなくヨセフィーナだったのだ。
走りながらただそれだけを繰り返し繰り返し考えて、そして気がつくとマイラはどこなのかわからない場所に迷い込んでしまっていた。
「エリクスさんの怪我が少しでも良くなってくれていたらそれでいい・・・それでいいよね。」
疲れ果ててしゃがみ込み、膝を抱えるようにして顔を伏せた。膝にぽつ、ぽつと、大粒の涙が染みこんでいく。
心が通いあったような気がしていた。マイラへのまっすぐな想いも感じていたはずだった。それでも死に直面した彼が最後に選んだのは、マイラではなかった。
その時ふと、手首に硬いものが当たる感触に気付いて顔を上げた。それは昨夜エリクスが着けてくれた、薄いピンク色に光るあのお揃いのバングルだった。
「これだけは、貰っていきます。・・・さよなら。」
マイラはそう呟くと、スッと立ち上がり、決意を込めた表情を見せながら、再び歩きはじめた。