128. 暗闇の向こうへ
そこからのことを、マイラはよく覚えていない。
父ケントはマイラの横でただ微笑み、そして人差し指を軽く振った。
その瞬間、柔らかな光と大量の魔法水が弾けて辺りを潤していき、水で取り囲まれた若者達は瞬きするほどの短い時間でガチガチに凍りついた。
メリーアンは、自分を守っていた『彼ら』という壁を失い表情が強張る。それでも詠唱を続け手を振ろうとしたその時、今度はメリーアンの周囲に強烈な紫色の炎が迸った。
「ひいっ!?」
微かな悲鳴が聞こえ、マイラも目を瞠る。そして振り向いたその場所には、微笑む父の横に母アンジュが立っていた。彼女は父に寄り添うようにして立ち、厳しい表情を見せながら言った。
「マイラ、ここは私達に任せて、アトリエに行きなさい。」
「え?」
「私達ね、エリクスさんからこの二年半、ずっと手紙を貰っていたのよ。それでね、一番最近の手紙に書いてあったの。あの絵が完成したって。マイラ、もしまだ見ていないなら全速力で帰って見てきなさい。彼を救えるのはあなたしかいないんでしょう?もう、後悔したくないんでしょう?」
ハッとしたマイラの腕を誰かが強く掴む。振り向くとそこには、全てを把握して頷くイリスがいた。
「行こう!馬車を出す!!」
そして知らないうちに隣にいたディーンも、大きな声で励ますように叫んだ。
「大丈夫、俺がこいつを死なせない!すぐそこの病院に連れていって俺が声をかけ続けるから!絶対に死なせないから!!」
「・・・はい!」
マイラとイリスは、イリスが用意していた馬車に乗り込むと、猛烈なスピードでエリクスの屋敷に向かった。マイラは手をぎゅうぎゅうと強く握りしめながら、ただじっと大切な兄のの無事を祈り続けていた。
― ― ― ― ―
「いやあ、久々だな、君とこうして現場に出るのは。」
「ふふ、そうねえ。あら、あの子ったらまだ余裕がありそうな顔ね。」
アンジュが振り上げた指に合わせて紫色の炎が再び踊りだす。メリーアンは防御魔法を発動して必死にそれを防ごうとするが、ケントが手を軽く振ると、卵の殻が割れるようにあっさりとその壁にヒビが入り、消えていく。
「何!?何なのよあんた達!!」
余裕のない声と怒りがピークに達したその表情から、すでに彼女の魔力が尽きかけていることが見てとれる。それでも二人は一切容赦することはなかった。
ケントは解凍した若者達に強烈な『消滅の光』を浴びせかけ、アンジュは炎を強めると金属魔法と組み合わせながら、メリーアンの周囲を檻のようなものを作りしっかりと囲っていく。
「あら、ご自慢の美しい顔が台無しですよ?お嬢さん?」
アンジュの冷たい声に、なぜかケントが隣で震えている。
「女の戦いは怖いな。」
「あなた。」
「・・・すみません。」
メリーアンはその間にもあらゆる魔法を試していくが、アンジュが全てそれを弾き返し、檻はさらに目の細かい網のような状態に変化してメリーアンの自由を奪っていった。
「何なのよ!あんた達消えてよ!!どうしてこうもうまくいかないの!?この私に盾突く人間なんてみんな大嫌い!!消えろ消えろ消えろ消えろ!!」
アンジュが軽く首を傾げた。
「あら、そろそろ悪魔に変わるかしら?それならそれで手っ取り早いわね。」
「おいおい、止めてあげようよ。マイラとそう年も変わらないまだ若い子じゃないか!」
ケントが苦笑しながらアンジュの肩に優しく手を置く。アンジュはその手に自分の手を重ねると、メリーアンに向けていた視線をその手に移す。
「・・・あなたのその優しいところに、私は惚れちゃったのよねえ。」
ケントは照れくさそうに頷いて言った。
「俺は、結局最後は必ず俺の言葉を受けとめてくれる君が、ずっと好きだよ。」
アンジュは微笑みながらため息をつき、大きく手を振った。すると青白い光の渦がその手のひらから爆発的に広がっていき、メリーアンの周囲を覆い尽くした。
数分後、光は徐々に弱まり、同時に紫色の炎も消えていく。
そして残された金属の檻とその中に眠るように倒れ込むメリーアンだけが、広いその通りの中で大きな存在感を放ちながら、静かな時を刻み続けていた。
― ― ― ― ―
屋敷に到着したマイラは、キーツの驚く顔を振り切りエレンのどうされたんですかという声を無視して、一気に階段を駆け上がった。
アトリエのドアをあけ、絵に掛かっていた布を外す。
「これ・・・これがエリクスさんの絵・・・」
その絵を目にした途端、マイラの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
目の前の絵には、倒れている一人の男性の横で跪き、祈るように手を組んで体中から光を放つ女性の姿が描かれていた。
(この女性、私に似てる・・・)
そしてさらに、マイラによく似たその女性が光を放っている横で、倒れている男性が女性の頬に手を伸ばそうとしている様子も描かれていた。
絶望と僅かな希望が描かれたその絵をゆっくり噛み締めるように眺めていると、マイラの心の中に、これまでの二つの人生のあらゆる出来事が走馬灯のように流れていくのを感じ始めた。
何気ない生活が突如として終わりを告げた前の人生、全てを諦めてしまったあの短い人生、それでも自分を愛してくれていた人達が、最後まで望みを捨てずに寄り添ってくれていたことを思い出す。
そして今のマイラとしての人生もまた、多くの人に愛されてきた素晴らしい人生だった。大切な人を亡くし、後悔することのないように自分を追い込んできたこともあったけれど、それでも自分のことを思ってくれる人達のために、できることをしたかった。
誰よりも、エリクス・メイ・ルーイのために。
「この絵のように、あなたを助けたい・・・」
口をついて出てきたその言葉が、胸の奥の方から何か計り知れない力のようなものを引っ張り上げる。今にも爆発しそうなその何かを口元に手を置いて必死に塞ぎながら、マイラはエリクスのアトリエを飛び出した。
(今喋ったら駄目な気がする!このまま行かなきゃ!急ごう!!)
この時マイラの心の中を占領していたのは、エリクスの優しい微笑み、ただそれだけだった。
― ― ― ― ―
ディーンは魔法を使えない自分をずっと恨んできた。教師になるという夢を失い、新たな人生でも再び挫折を味わった。
(ずっと逃げてきたんだ、俺は)
楽な方へ、優しい言葉をかけてくれる人の方へと。
だがそれは、ただ自分の人生を投げやりに過ごしているに過ぎなかった。与えられた人生を嘆くばかりで何もしないのと一緒だった。
(でも彼女は違った。彼女は、ずっと自分の人生を諦めなかった。俺とは、覚悟が違った・・・)
エリクスを魔法で病院に移動させながら考える。現実から目を背けて生きてきた自分の人生を振り返る。
(せめて彼女の、そして最後まで友人でいてくれようとしたエリクスの役に立ちたい。捕まってしまうとしても!)
ディーンは全力で走る。だがその目の前に、数名の兵士達が現れ道を塞いだ。
「頼む!!俺を捕まえていいから、こいつだけは病院に連れていってくれないか!?大切な友人なんだ!大切な・・・」
「ディーン・ジェックス、後は私達に任せなさい。エリクスさんを病院へ大至急!」
「はい!」
大柄な男達の後ろから、細身の美しい女性が現れる。彼女は黒く長い髪を一つにまとめ、凛とした佇まいでディーンを見つめていた。エリクスは数名の兵士達が連れ添って通りの向こうへと消えていく。
「大丈夫。私達は軍の調査隊の人間です。エリクスさんとは個人的にも知り合いだから心配はいらないわ。それより、あなたは私達に同行してもらわなければならないわ。」
「・・・はい。」
自分が関わってきたことを思えば思うほど致し方なかった。それでも・・・
「あの、もし可能ならあいつの近くに居させてくれませんか?監視しても拘束しても構いません!でも、大切な友人に約束したんです。俺が励まし続けるからって。声をかけ続けるからって!」
「・・・」
黒髪の女性は暫し考え込んだ後、何かを呟いて手を振った。するとディーンの手首に、金属のような質感の鎖が巻き付いた。
「これ・・・」
「一緒に行きましょう。あなたのためじゃないわ。私も大切な友人のために許可したの。エリクスさんと、マイラさんのために。」
「あ、ありがとうございます!!」
気がつくとディーンは涙を流していた。
その顔に一筋の光が当たる。暗闇の世界は終わり、すぐそこに新しい一日が、新しい始まりが来ていることを、その朝の光は二人に優しく告げているかのようだった。