125. アトリエで見る夢
エリクスの実家での事件から十日ほどが経過した。
マイラはようやく傷が塞がり、その日最後の診察を終えて退院することになっていた。
「マイラ様、お荷物はまとめました。さあ、帰りましょう!」
「うん。エレン、ありがとう。」
にっこりと微笑む彼女は、いつも通りの明るく元気なエレンだ。だがその近くに、いつもいたはずのイリスはいない。優しく微笑みかけてくれていつも身を案じてくれて、誰よりも甘やかしてくれた彼は、もういない。
その事実が、マイラの心に少しだけ暗い影を落としていた。
(イリスが近くにいてくれる生活を私は本当に当たり前だと思ってたんだな。ずっと甘えてばかりいて、結局最後まで彼に何も返すことができなかった・・・)
荷物を持って少し前を歩くエレンを追って、マイラは病院の廊下を歩いていく。そして入り口のドアが開き、久しぶりに外の空気に全身で触れた。
暑い日差しが降り注ぎ、眩しさに思わず目を瞑る。明るさに慣れてから再び目を開けたが、やはりそこにはエレンの姿しか見えなかった。
マイラはエレンに気付かれないように小さくため息をつくと、ちょうど病院の目の前にやってきた馬車に乗りこみ、エリクスの屋敷へと戻っていった。
自室に戻り、ソファーに腰を下ろす。久々に座ったそこにはいつものようにクッションがたくさん積まれている。しかしその積み方はエレンのもので、イリスの積み方ではない。几帳面に彼なりの美学で積まれていたあの光景を目にすることはもう二度とない。
(こんなにイリスが私の心の中にいたんだ。大切な、家族のような人だったんだなあ・・・)
それでも彼に、彼の望むような気持ちを返すことはできなかった。わがままで最低だと自分をどれだけ責めても、その想いを捧げたいと思える人は彼ではなかった。
「頑張らなくちゃ、一人でも。」
マイラはソファーから勢いよく立ち上がると、手に持ってきた小さなカバンを開け、中から少し皺になってしまった封筒を取り出した。
それは十日ほど前、目を覚ました時になぜか握っていたものだった。そしてもう中身は何度も読んで確認できている。
(今夜、必ず行ってみよう!)
その封筒の中の手紙には、こう書かれていた。
『マイラへ。
長い間辛い思いをさせてすまなかった。これからは俺が全力でマイラを守るから。
それと退院の日、夜二人のアトリエに来て欲しい。例の絵が完成しそうなんだ。たぶん帰ってくる時にはもう完成していると思う。
その日は何があっても自宅に帰るようにするから、そこで待っていてくれ。
エリーより。』
エリーという名前を目にした瞬間、まるでマイラにだけその名で話しかけてくれているような感覚があり、なぜか猛烈に照れくさくなってしまった。そしてそれと同時に、エリクスへの隠しきれない想いが心の中から溢れ出していくのも感じていた。
マイラはもう一度その手紙を読み終えるとそれを机の上に置き、食事のために部屋を出て下の階へと降りていった。
そして待ちに待ったその日の夜。
夕食を終えたマイラは、緊張しながらエリクスのアトリエに向かった。
ドアを開け、中を覗きこむ。
誰もいない。
中に入り後ろ手にドアを閉め、目の前にある絵と向き合った。だがその絵には布のようなものが掛けられており、絵自体は見えなかった。
「めくるのは駄目だよね。待っていよう。」
久しぶりに入るその部屋は、以前に見た時よりもだいぶすっきりと片付いていた。以前はあちこちに置いてあったキャンバスも今はほとんどここには置いていないようだった。
ぐるっと部屋を見渡してから、一つだけポツンと置かれている椅子に座る。
少しずつドキドキし始めた心臓の音を感じながら、マイラはただゆっくりと、彼が来るのをそこで待った。
しばらく待っていると外にパラパラという音が聞こえ始め、それが雨の音だと気付いた。マイラは椅子から腰を上げると窓に近付き、外の様子を確認する。
(まだ帰ってこないのかな・・・入院中一度も会えなかったから、できれば今夜は会いたいな・・・)
素直に会いたいと思っている自分に気付き少し気恥ずかしくはなったが、その気持ちを上回って彼に会いたい気持ちが膨らみ続けていく。
「まだかなあ。」
「そんなに待ったのか?」
「うわあっ!?」
マイラが大きな声をあげると、それを塞ぐようにエリクスが手で口元を優しく押さえた。その手が大きくて温かくて、マイラはドキドキしながら振り返る。
「マイラ、おかえり。」
エリクスの金色の髪がふわっと揺れる。優しい笑顔とあの美しい青い瞳が、今はマイラだけを見つめている。
「お兄様・・・ただいま。」
「うん。会いたかった。」
エリクスはその言葉を言い終わらないうちにマイラを腕の中にしっかりと包み込んでいた。マイラもまた、そこから逃れようとはしなかった。
「わ、私も、です。」
パッと離れたエリクスの驚いた表情に、マイラもまた驚く。そして彼は嬉しそうに顔を綻ばせると、ゆっくりと顔を近付けた。
(えっ、この流れって・・・)
徐々に近付いていく二人の距離に戸惑いながらも、今は全てを受け入れたいと願っている。エリクスともっと近付きたいと願ってしまう。
だが唇があと少しで触れ合いそう、とマイラの緊張が最高潮に達したその時、誰かがものすごい勢いで階段を駆け上がってくる音が聞こえ、二人の動きが同時に止まった。
ふと冷静になったマイラは一気に今の状況が恥ずかしくなり、エリクスの胸をグッと押して距離を取った。エリクスは苦笑いを浮かべてマイラから離れると、今度は激しいノックの音を響かせ始めたアトリエのドアを素早く開けた。
「キーツか、どうした?」
「エリクス様、大変です!本店の辺りで暴動が起きております!」
「暴動!?まさか・・・」
「百人以上の若い男女が町の中心部で暴れているようです。本店もですが周辺の店もかなり被害があるようで・・・」
「すぐ向かう。馬車を!!」
「お兄様、私も行きます!」
エリクスもキーツも驚いた表情で振り返る。マイラはエリクスの目をまっすぐに見つめて言った。
「駄目と言われても絶対に行きます。危険な魔法陣を使われても私なら対処できます!私だって・・・お兄様を守りたい。」
「マイラ・・・わかった。その代わり絶対に俺の側を離れないこと!」
「はい!」
頭を抱えたキーツを珍しいなと思いながら、マイラは自分を信じてくれたエリクスと共に、暴動が起きているという中心部へと急いで向かった。
普段ならばまだ明るさの残る町の中心部は、その日、ほとんどの建物の明かりが消えていた。魔法道具はかなり繊細なものなので、近くで異常な魔力が発生すると消えてしまったり動かなくなってしまうことがあるとマイラは聞いたことがあった。
「暗い、こんなの初めて見た・・・」
馬車の中で呟いた言葉はエリクスの耳にも届いたらしい。前の席に座っていた彼はすぐにマイラの横に移動し、力強く肩を抱いた。
「怖いか?大丈夫。俺が必ずマイラを守るから。もうすぐ着く。外に出たら手を握って絶対に離さないこと。それと、これ。」
エリクスがおずおずとポケットから取り出したのは、あの薄く綺麗なカットの入ったバングルだった。よく見るとエリクスの左手首には、それとお揃いのバングルがすでに嵌められている。
「これ・・・どうして?」
「エレンに頼んで出しておいてもらったんだ。何かあった時にどうしてもマイラに身につけておいて欲しくて。」
「・・・エリクスさん。」
マイラが顔を上げた。エリクスの頬がほんのり赤みを帯びている。
「これ、着けてくれますか?」
「え!?あ、ああ、うん!もちろん!!」
珍しく動揺している彼を見るのが嬉しくて、マイラは微笑んだ。エリクスもそれに応えるように微笑みを返す。
そして彼はマイラの左手首にそのバングルをしっかりと嵌めると、そのままその手首を力強く自分に引き寄せ、マイラを腕の中にすっぽりと包みこんだ。
「マイラ、不安は無いか?」
「エリクスさんが側にいれば。」
「絶対にいる。いつだってすぐ隣にいる。何があっても、一番近くにいるから。」
「嬉しい、です。」
いつになく素直な言葉を告げるマイラにエリクスは愛おしさの波に飲み込まれていくのを感じながら、ひたすら優しく抱きしめた。
しかし、ようやく触れ合えた二人の時間と距離を引き離すような状況が、この時にはもう目前まで迫ってきていた。
数分後馬車は急停止し、エリクスはマイラから離れ、窓の外を確認し始めた。人が大勢エリクス達の馬車の方へと走って逃げてくる様子が見える。そしてその向こう側には何色もの魔法の炎が上がっていた。
雨は、もう上がっていた。
「酷い状況だな。マイラ、行こう。」
伸ばされた手をしっかりと握りしめ、マイラはエリクスと共に馬車を降りる。
「エリクスさん、魔法火があんなに!」
「ああ、まずいな。兵士達もだいぶ出ているようだが、消火が追いついていないのかもしれない。マイラ、大量の水を出せるか?」
(守られるばかりじゃない。今度は頼ってもらえている!)
マイラはそれがただ嬉しくて、深く頷いた。
「はい!」
「よし、急ごう!」
そして二人は暗闇の中で何色もの光を放つ恐ろしい魔法の炎の中へ、しっかりと手を繋いで飛び込んでいった。