124. イリスの決断
マイラが目を覚ました時、そこにいたのはイリスだった。病室らしいその部屋の窓の外は明るく、どうやらだいぶ時間が経過したらしいことだけはわかった。
「マイラ!!」
ひどく掠れたその声は、彼の苦しい胸の内をそのまま表しているかのようだった。彼の手がマイラの小さな手をふわっと包み込む。
「イリス・・・」
「よかった・・・本当によかった・・・」
安堵の表情に疲労感が重なって見える。
「みんなは、無事?」
「こんな時まで君は・・・大丈夫。全員怪我一つしていないから。」
「そっか。それならよかった。」
マイラはイリスに握られた手を握り返す力もなく、ただぼんやりと天井を見上げた。イリスはその横顔をしばらく見つめた後、手を握り直してから低い声でマイラの名を呼んだ。
「マイラ」
「なあに、イリス。」
マイラが顔を少しだけイリスの方に向ける。
「契約魔法を、解除しよう。」
「・・・え?」
突然の話に頭が追いついていかないマイラは、ただじっとイリスの悲しげなその顔を見ることしかできなかった。彼は僅かに口角を上げるとマイラの手を離し、今度はその柔らかな頬に手を置いた。
「ずっとわかっていたんだ。マイラが本当はエリクス様のことを忘れていないことも、俺を決して愛してはくれないことも。」
「・・・イリス、でも!」
「わかってる。それでもマイラは俺のことを好きになろうとしてくれた。俺を守ろうとしてくれた。俺の幸せをいつだって考えてくれた。だから、今度は俺が、本当にマイラの幸せを願う番なんだ。」
体を起こそうとして左手に力を入れると、肩に激痛が走りマイラは呻いた。左肩を見ると、そこには包帯がぐるぐると巻かれている。どうやらここにあのメリーアンの最後の魔法が突き刺さったらしい。
「まだ動いちゃ駄目だ。傷が開いたらまずい。」
「私は・・・イリスのこと、好きだよ?」
「うん、嬉しいよ。でも思い出してごらん、さっき君はあの死を覚悟した場面で、誰の名を呼んだ?」
思い出すまでもない。あの瞬間、マイラは確かにエリクスの名を呼び、彼に想いを告げなかったことを後悔していた。
「・・・でも」
「それがマイラの本心なんだ。そしてこれまで俺は、必死でそれを忘れさせようとしていた。俺自身のために。」
「そんなことない!私だって!」
イリスは両手でマイラの頬をキュッと挟んだ。
「でもマイラが命をかけて俺を守ってくれたあの時、俺はやっと気付いたんだ。マイラにこの人生で、これ以上後悔させたくないって。俺は、愛する人に心から幸せになって欲しいんだって。」
顔を動かせず彼と見つめ合うしかないマイラは、仕方なく目をゆっくりと閉じた。
「でも、そしたらイリスは一人になっちゃうじゃない。」
「ははは!大丈夫、俺にもちゃんと居場所はあるから。今回の件が片付いたらもう一度研究所に戻ろうと思ってる。まあ、あの偏屈な父はマイラとの婚約話がなくなったと知ったらうるさく言うかもしれないけどね。」
「え?どうして?」
イリスが頬から手を離して微笑む。
「マイラはもう知っているかもしれないけど、君のお父様とお母様は元特別討伐隊の兵士だったんだ。しかもかなりの実力者だった。君とどうしても結婚したくて、父にはその関係者だからとぼやかして伝えて結婚を許可してもらってたんだ。商売上そうした特殊な繋がりがあると有利なことも多いからね。だからきっとマイラの家族と親戚になれなくて残念がるだろう。」
「イリスはいつからそれを知ってたの!?あっ、痛っ!」
驚いて手を動かしてしまい、マイラは再び小さく呻く。イリスが苦笑しながらマイラの手をそっと布団の中にしまった。
「幼い頃に見た彼らの魔法と、研究所での情報からそうなんじゃないかなって推測してたんだけど、確信を持ったのは最近かな。ほら、一緒にマイラの実家に行った時だよ。・・・さあ、それよりマイラ。」
イリスがこの日一番の笑顔を見せて言った。
「俺達の契約を、解除しよう。」
イリスがどれほどの思いでそう言ってくれたのか、マイラには想像もつかなかった。それでも、エリクスとの幸せな未来を手に入れられないとしても、マイラもまた曖昧な気持ちのままイリスと一緒に生きていくことはできないと、今は強く感じていた。
そして小さく、小さく頷く。
イリスはマイラの髪を優しく撫でると、柔らかくゆっくりと、そして深く、最後の口づけを交わした。
マイラがぼんやりとしているうちに、イリスは静かにベッドの横を離れる。
「愛してる、マイラ。君とエリクス様との関係がこの先うまくいくかはわからない。でもこれから先は少しでも、マイラの思う通りの人生を生きていってほしい。」
「うん。うん。イリス、ありがとう。でもごめんね。本当に本当にごめんね。」
イリスは目を瞑り手を大きく上に伸ばすと、金色の光が二人の間に降り注ぎ、それが小さな火花を散らす線香花火のように辺りに広がった後、フッと消えていった。
それは、二人の間にあった契約が完全に消えていった瞬間だった。
「さよなら、マイラ。」
光が消えると同時にイリスはその言葉だけを残し、病室を笑顔で去っていった。
マイラは静かに閉まったドアをじっと見つめた後、再び天井に目を向けて心の中で祈った。
(どうかイリスがこれから先ずっと幸せでありますように。彼がお互いに大切に思える素晴らしい人を見つけられますように・・・)
そして、マイラは一人ぼっちになってしまったその小さな病室で体を思うように動かせないもどかしさを感じながら、苦しく切ない時間をただただやり過ごしていった。
― ― ― ― ―
「それが君の決めたことなのか?」
「エリクス様・・・聞いていたんですか。」
イリスが病室を出ると、ドアの少し先にエリクスが腕を組んで立っていた。イリスは中にいるマイラに聞こえないようにエリクスに近付き、小さな声で言った。
「ええ。これが俺が決断したことです。でももしあなたがこれ以上マイラを放っておくなら、いつでも奪い返しに戻ってきますよ。」
「マイラを手放したことなど一度も無いし、これからもそんなことはしない。」
「そう・・・ですか。」
エリクスは組んでいた腕を解くと、イリスの前に立った。
「だがメリーアンはまだ何かをするつもりだ。マイラの命も狙ってくる可能性が高い。頼む、この件が片付くまではもう少しだけ手を貸してほしい。」
「・・・最初からそのつもりです。彼女の一番近くに居られなくても、マイラを守るためなら何でもします。」
二人は一瞬目が合い、そして同時に目を逸らした。
「マイラをこれまで守ってくれたこと、感謝している。」
「あなたに感謝されることなど何もありませんよ。俺自身とマイラのためにしたことです。・・・では。」
イリスはそれだけ言うと、廊下の奥にある階段を降りて病院を出ていった。
イリスの姿が完全に見えなくなると、エリクスは少し時間を置いてから目の前の病室のドアを静かに開いた。
中に入ると、マイラが上を向いたまま穏やかな寝息を立てて眠っている様子が見えた。エリクスはゆっくりとベッドに近付き、その髪に優しく触れる。
「う・・ん・・・」
苦しそうな表情に胸が痛む。肩に巻かれた包帯が服の隙間から見えるが、それも痛々しい。
「マイラ・・・痛かったよな。すまない。もう少し俺が早く駆けつけていれば・・・」
その時、マイラの長いまつ毛が微かに揺れた。
「マイラ?」
「・・・エリ・・さ・・あい・・てる・・・」
エリクスは途切れ途切れの言葉の中からマイラの想いを掬い上げるかのように、小さな声で言った。
「俺のことを?愛してる?マイラ、本当に?もしそうなら嬉しい。今すぐここで叫んでしまいたいほど嬉しいよ。でもまだ全てが終わったわけじゃない。必ずすぐに君を迎えに来るから、だからまずはきちんと体を治すんだ。いいね?」
マイラの柔らかな髪の感触を感じながら頭を撫でる。よく見るとその目元には、涙の跡らしきものが残されていた。
「俺がもっと早くこの件を解決していたら、君にこんな思いをさせずに済んだはずなのに・・・」
頭を撫でていたその手でマイラの頬をなぞると、その額と頬に一つずつキスを落とした。だがマイラは目を覚まさない。どうやらかなり深く眠っているようだ。
エリクスはポケットの中から一通の封筒を取り出すと、彼女の手にそれを握らせて一旦ベッドから離れた。
だがその瞬間、マイラが小さな呻き声を上げた。エリクスはマイラに引き留められたような気がして立ち止まり、再びマイラに近寄って唇を重ねた。
触れ合うだけの、長い、長いキス。
そして、そっとマイラから離れた。
「俺も愛してる、マイラ。もう少しだから、あと少しだけ待っていてくれ・・・」
名残惜しい気持ちを振り払うようにマイラから顔を背けると、エリクスは音を立てないよう気をつけながら、病室を出ていった。
― ― ― ― ―
病院を離れたイリスは人通りの少ない細い道を一人歩きながら、これまでのマイラとの思い出を振り返っていた。
幼い頃マイラにいつも優しくしてもらっていたこと、たくさん外で遊び、明るい彼女に何度も元気をもらったこと。
成長した彼女に出会ってからは、何でも一生懸命頑張り、いつでも他の人のことばかり考えている彼女にどんどん心惹かれていった。
そして手を繋ぎ歩いた道も、抱きしめ合い語り合った時間も、初めて唇を重ねた時の喜びと感動も・・・もう二度と手に入ることはないと知る。
それでも自分はこれから先も誰よりもマイラを想い、陰ながら守っていくと心に決めていた。
(マイラ、エリクス様と本当に幸せになるその時まで、必ず俺が君を守るから。一番近くにはいられないけれど、ずっと見守っているから・・・)
ポケットの中でチャリ、と小さな音がする。マイラの耳からそっと外しておいたイヤリングは、哀しい音を立ててイリスの涙線をゆるめた。
イリスはその涙が落ちる前に、袖で目元をグッと押さえて上を向く。
「さあ、俺はマイラの元を離れることをラウリ様に報告に行かないとな。」
こみ上げてくる切なく苦しい思いをぐっと飲みこむと、イリスはホーク・ラウリの屋敷へと歩き始めた。