116. 帰宅
マイラは翌日全ての荷物をまとめ、イリスを伴ってエリクスの屋敷に戻った。
エレンは涙を浮かべてマイラの帰宅を喜び、いつも冷静さを欠くことのないキーツですら、マイラの顔を見ると喜びを隠しきれない様子で珍しくその顔には笑みが浮かべていた。
「マイラ様、おかえりなさいませ!さあ、お疲れでしょう?荷物の片付けはこのエレンにお任せください。すぐにお着替えになってソファーでお寛ぎくださいね。マイラ様のために三つほどクッションを買い足しておきましたから!」
エレンは嬉しそうにマイラの荷物を抱えると、イリスには目もくれずマイラを促して部屋へと歩き始めた。
「エレン、お兄様は最近、屋敷に帰ってきている?」
マイラの問いかけに、エレンは悲しそうに首を振った。
「いえ、ほとんどお戻りにはなられません。商会の方にもエリクス様のお部屋はあるようですから、ほとんどそちらに滞在されておられるのではないでしょうか。」
「そう。エレン、荷物をありがとう。」
「とんでもございません。さあさ、ソファーがお待ちですよ!」
エレンが自慢げに見せてくれたソファーの上には、特大のクッションが三つ、確かにそこにあった。マイラはそこに埋もれるようにしてソファーに寝そべってみる。
「うん・・・最高!」
「まあ!ようございました!」
イリスは苦笑しながらそんなマイラを見守っていたが、荷物を片付けるためエレンが部屋を出ていくと、マイラの側に近付き跪いた。
「マイラ様、ラウリ様のお屋敷を出る直前、ミコル・ケリー様からお手紙をいただきました。先日皆さんで大事な話し合いをなさったのですね。」
マイラの部屋に久しぶりに戻ったイリスは、以前のように丁寧にマイラに話しかけた。
「うん。メリーアン様の思惑は私にはよくわからない。でも私達に嫌がらせをしたりしたのは間違いないと思う。それに、私がここに戻ってきたことでもっと酷いことをしようとするかもしれない。妹として適切な距離でいてくれるならいいと言っていたけど、あれは嘘だと思う。」
「・・・マイラ。」
「だからね、あえて私はお兄様のところに戻ってきたの。お兄様が心から幸せになってくれるなら二人の仲を応援する。でも彼女が何らかの理由でお兄様を利用しようと近付いてきたのなら・・・」
マイラは顎を少し上げ、背筋を伸ばして言った。
「絶対に最後までお兄様を守り切る。」
無意識に強く握りしめたクッションがマイラの覚悟を受けとめてぎゅうっと小さくなっていく。イリスはそのクッションをゆっくりと助け出すと、マイラの固く握られた手を上から優しく包み込んだ。
「俺はあなたの味方です。何があっても。」
「うん。」
二人は静かなその部屋の中で、それぞれの思いの中へと沈んでいった。
その夜、帰ってこないはずのエリクスが夕食時にふらっと姿を見せてマイラは驚いた。どうやらキーツがエリクスに、マイラの帰宅を知らせたらしい。
「マイラ!よかった、帰ってきてくれたのか。」
エリクスは短いその言葉に、これまで抱えてきたのであろう全ての想いを含ませていた。マイラは、その声に、表情に滲んでいる彼の想いを感じ取り、思わず彼の顔から目を逸らした。
「は、はい。なかなか戻れず、申し訳ありませんでした。」
「いや、いいんだ。・・・訓練では毎日会っていたし、帰ってくると約束してくれていたからな。でも、よかった。」
安堵した表情を見せてはいたが、彼は笑みを浮かべながら軽く俯いた。
「・・・あと、一年ですね。」
エリクスはマイラのその言葉に弾かれたように顔を上げた。
「そう、だな。」
「メリーアン様がいらっしゃいますから、今後私の役目はもうあまり無いと思いますが、最後までお兄様の妹として頑張ります。」
「あ、ああ。」
「それと・・・」
マイラが口ごもると、エリクスはマイラに近寄った。マイラは食事の手を止めてグラスに入った水を一口飲んだ。
「絵は、仕上がりそうですか?」
「・・・ああ。もう少しだよ。」
それは、二人にとって本当の終わりを意味する。
「そうですか。よかったです。完成するまでは決してあのアトリエには行きません。だから完成したら必ず教えてください。」
「マイラ、俺は」
マイラは手を前に出し、彼の言葉を遮った。
「もう何も言わないでください。訓練ももう大丈夫です。」
エリクスの表情が強張る。そして突然手を振り上げると、マイラの目と鼻の先に鋭く尖った氷の剣を生み出した。
「きゃっ!?」
それはマイラの目の前を音もなく素早く移動し、空中に小さな煌めきを残してすぐに消え去った。
全く予期していなかった魔法に驚き、マイラは仰け反って目を瞑ることしかできなかった。そして目を開けた時、マイラの顔のすぐ前に、エリクスの切なさを湛えた顔が迫っていた。
「お、お兄様!?」
「マイラ、こんな状態ではまだ合格点はあげられないな。それに・・・」
エリクスは当たり前のようにマイラに触れるだけのキスを落とした。
「!?」
「ほら、こんなに隙だらけじゃないか。・・・同じ時間に、明日もいつもの場所だ。来ないならまたキスするから。」
「え、ちょ、なに言って・・・」
口をパクパクさせながら頬を赤らめていくマイラを、美しすぎる微笑みを浮かべてエリクスは楽しそうに見つめている。
(どんなに自分を誤魔化そうとしても、エリクスさんが私を想う気持ちが嘘じゃないのはわかる。それでも彼はきっと私を将来の伴侶として選ぶことはないし、セシーリア様だって決して許してはくださらない・・・)
ドキドキする胸を必死で落ち着かせると、マイラはエリクスの胸を押して立ち上がった。
「い、行きますから、もうこういうのはやめてください!」
「やめたくないって言ったら?」
「お兄様!?」
エリクスの手が再びマイラに伸びる。だがその手は急に開いたドアからの声でピタッと動きを止めた。
「何をしているのです?」
「イリス?」
普段ならノックもせずに食事中にこの部屋にやってくることなどないイリスが、ピリピリと肌で感じるほどの怒りを全身に漲らせながらマイラの前に立ちはだかった。
「何だと思う?」
「お戯れもほどほどに。彼女は私と将来を約束した女性ですよ。」
「・・・」
「マイラ様、食事を終えたなら部屋へ戻りましょう。エリクス様、失礼いたします。」
凍りつきそうなほど冷たい一瞥をエリクスに投げると、イリスはマイラの手を取り食堂を後にした。
イリスはその夜ずっと、不機嫌な態度を崩すことはなかった。マイラはどう声をかけたらいいのかわからず、黙ってその様子を見守って過ごした。
(ごめんね、イリスに嫌な思いばかりさせて。でも・・・ううん、もう忘れなきゃ!)
「イ、イリス!」
「え?あ、はい。」
片付けながらもぼんやりとしていたのか、マイラが声をかけると珍しく動揺していた。マイラはソファーのクッションをイリスに手渡し、不思議そうな顔をしている間にクッションごとその胸に飛び込んだ。
「マイラ様!?」
「今はマイラって呼んで?」
「・・・マイラ」
クッションの柔らかな弾力が二人のそれ以上の接近を阻む。
「聞いて欲しいことがあるの。」
「うん。」
「ミコルからの手紙にどこまで書いてあったかわからないけど、私、これからもっと大変なこと巻き込まれていくと思う。」
イリスは僅かに口を開き、何か言いかけたが再び口を閉ざした。そしてマイラの言葉の続きを静かに待っている。
「だから・・・イリスに、また迷惑かけてもいいかな?」
「マイラ!」
彼は二人に間にあるクッションを無理やり引き剥がしてソファーの上にポンと載せると、マイラを強く抱きしめた。
「当たり前だよ。でもよかった。また突き放されるのかと思った。大丈夫。好きなだけ俺に迷惑をかけて欲しい。頼られれば頼られるだけ俺は嬉しいから。」
「うん、ありがとう。それでね、できればこのお休みの間にもケイトとカイルに指導をお願いしたいんだ。」
イリスはマイラから離れ、ソファーへと導いた。二人でそこに座り、手を握り合う。
「わかった。ここに来てもらって練習しよう。マイラも。」
「うん。」
そこでようやく笑顔を取り戻したイリスを見て、マイラはほっとして笑顔を返した。
(これでいいんだよね。私、もっとしっかりエリクスさんのこと拒絶しなきゃ。ううん、嫌われるくらいで丁度いい。訓練の間はもっと冷たい態度を取ろう)
密かな決意を固めたマイラはクッションの山の中で、イリスと何気ない会話ができるこの時間をもっともっと大切にしていこうと、何度も自分に言い聞かせていた。
― ― ― ― ―
イリスは自室に戻るとベッドに腰を下ろし、前屈みの状態で深い深いため息をついた。
(マイラはまだエリクス様を想っている。いや、きっといつまでも彼の影を追い続けるんだろう・・・)
それでも彼女と離れることはできない。どんなに心を手に入れられなくても、彼女の側にいる幸せをもう手放すことはできない。
マイラはメリーアンからの妨害にもめげず、エリクスや友人達をを守ろうと奮闘している。今はただそんな彼女を一番近くで支えてあげたい。
(でもその後は?)
無理やり契約で縛りつけた関係に何の意味がある?
マイラは確かに「好き」と言ってくれた。でもそれは決して「愛してる」ではない。
その意味がわからないほど鈍感でいられたらどんなによかったことだろう。
硬いベッドに横たわり、天井を見つめる。
(それでも俺は、マイラと一緒に生きていきたい・・・)
マイラの幸せを願う気持ちと自分がマイラと生きたいと願う気持ちに心が引き裂かれそうになりながら、イリスはその腕で目を覆い、見慣れてしまった白い天井から苦しく暗い自分の闇の中へと、意識を滑り込ませていった。