110. それぞれの思惑
メリーアンはその日朝から上機嫌だった。とっておきの深緑色のドレスに着替え、いつもより少し高価な香水を纏わせる。
「お嬢様、今日はいつもよりご機嫌がよろしいご様子ですね。」
メリーアン専属のメイドの一人がにこやかに話しかけてくる。いつもなら適当にあしらうだけだが、この日は珍しく笑みを浮かべて返事をしてみる。
「まあね。計画したことがうまく運べば、人は誰だって嬉しいものじゃない?」
メイドは曖昧な笑みで頷き、メリーアンの髪を結い始めた。
「それはようございました。それとお嬢様、先ほど奥様から朝食の後に部屋に来るようにと伝言がございました。」
メリーアンはそれを聞いて軽く眉を上げた。
「そう。わかったわ。お母様ったら何のお話かしら。朝から面倒な話じゃないといいけれど。」
さすがにその言葉に同意するわけにはいかなかったのか、メイドは穏やかに微笑むと自分の仕事に集中し始めた。
(あの人は失敗した。でも私はあの人とは違うわ。これまでのウェイリー家の女達のようなヘマはしない!お母様がこれ以上何も口出しできなくなるような結果を、私は出してみせるわ!)
メリーアンは手に持っていた煌びやかなデザインの香水瓶を目の前のテーブルに置くと、手際よく仕上がっていく自分の美しい髪を満足そうに眺め始めた。
― ― ― ― ―
「ザオル、失敗したと聞いたが?」
クロヴィスがテーブルの上に置いたグラスの中には、強い香りを放つ酒らしきものが揺れている。ザオルは心の中の動揺を見透かされまいと努めて冷静に、静かな声でそれに答えた。
「申し訳ございません。私の身代わりの男をベンチに控えさせていたのでモレ様との接点は彼らには掴めないかと思いますが、どうも彼が魔法陣を消す直前にルーイ家の長男に気絶させられてしまったようで・・・」
グラスを手にしたクロヴィスは、スッと立ち上がるとその酒をザオルの顔に勢いよく浴びせかけた。
しん、と静まり返った室内に、ポタン、ポタンという水音だけが小さく聞こえる。ザオルは顔色も変えずただ俯いてその行為を受けとめていた。
「モレと呼ぶなと言っただろう?君の失態はディーンに取り戻させる。しばらくここを離れてヤクムの屋敷で待機していなさい。」
「はい。申し訳ございませんでした。」
「ああ、それと、君の役割はディーンに引き継いでおくように。」
「・・・しょ、承知いたしました。」
悔しそうな表情のザオルが部屋を離れると、クロヴィスは奥の部屋のドアを開けた。
「ザオルはプライドの高い男だ。ディーンの下につくなど腸が煮えくりかえることだろう。元々十分に『悪魔』としての素質がある。後は頼んだよ、ヤクム。」
「お任せください。ディーンはまだ使えそうですか?」
茶色くカールした髪を後ろに流し、引き締まった筋肉を柔らかな服の下に隠しているそのヤクムと呼ばれた男は、穏やかにクロヴィスに問いかけた。
「あれは素直ないい子だよ。そう簡単に捨て駒にするつもりはない。それにあのマイラとかいう娘との接点の一つなんだ。彼女を排除できないというなら、こちらに引き込むしかない。」
クロヴィスが差し出したグラスにヤクムが黙って酒を注ぐ。彼はそれを嬉しそうに見つめると、一気にあおった。
「承知いたしました。ではそちらもどうにかしておきましょう。」
「最初から君は頼りになると思っていた。新しい魔法陣は君に任せることにしよう。」
ヤクムは恭しく頭を下げると、ふんわりとカールした短い髪を揺らして素早くその部屋を出ていった。
― ― ― ― ―
ヨセフィーナはその日、これまでの経緯とやるべきことを一つずつ整理していた。手には美しい飾りの入った黒いペンが握られ、机の上には上質な紙が数枚、乱雑に置かれている。
ヨアキムは秘密裏に彼の持つ人脈と信頼を最大限に活用し、メリーアンの母が財界、政界に持つ影響力を弱めつつある。
セシーリアは長い時間をかけてバルターク家の内部に部下をスパイとして潜り込ませ、魔法武器が悪用されていないかを監視してくれている。もちろん彼らと業務上でも深い関わりを持ち、最終的にはエリクスとの婚約話まで自然な形で持ち出すことに成功し、今に至る。
ヨセフィーナ自身もクロヴィス・モレとメリーアンの周辺の調査を何ヶ月も前から徹底的に進めてきた。そして彼らの悪事の証拠を掴むため、あらゆる手段を講じてきた。そして今後彼らが何らかの大きな事件を引き起こす前に、きちんとこの件を解決しなければならない。
だが・・・
大きな問題が二つある。
一つは、クロヴィスがどうもかなりの人数の若者達を囲い込んでいるということだ。下手に動けば彼らの命が危うくなる。ことは慎重に運ばなければならない。
もう一つ、むしろこちらの方が大きな問題だが、敵は特殊で危険な魔法陣の使い手だということだ。無理をして攻め込んでもし彼らが危険な魔法陣を発動してしまったら、それを止める術はない。つまり、それは部下達を危険に晒すことに他ならない。
(発動が始まった魔法陣からどう身を守るか、そこを打開しない限りこの計画は頓挫してしまう・・・)
最初からわかっていたことではあったが、ここまで何も対処法が見つからないとは予想もしていなかった。ヨセフィーナは自分の見込みの甘さに唇を噛むしかなかった。
・・・これまでは。
(でも、まだ一つだけ可能性が残されている)
それはあのマイラという子の力だ。
セシーリアの話によると、彼女は通常の魔法とは全く異なる種類の力を使っているらしい。だからと言ってそれが魔法陣に対処できる力なのかどうかはわからないが、ヨセフィーナはなぜかそこに希望の光があるような気がしてならなかった。
(私はあの子に戦う道を選ばせてしまった。でもきっと、この状況を変えられるのは彼女しかいない。そろそろあの子をこちら側に引き入れる時ね・・・)
やるべきことを書き上げたメモに目を向けると、ヨセフィーナはそれらをいつものように全て頭に叩きこんだ。
びっしりと書き込まれたその紙を暖炉の火に焚べる。パチパチと音を立てて燃える本物の炎を見つめるヨセフィーナの目には、彼女の決意の強さを表すかのように強く、赤々とした光が宿っていた。
― ― ― ― ―
学校に遅刻したマイラは、どんよりとした気分で一日を過ごした。
増え続けていく自分や自分の周囲への攻撃、イリスを守れなかった不甲斐なさ、そして・・・
(エリクスさんと一瞬再会しただけで、こんなにも気持ちが揺れ動いちゃうなんて。イリスと約束したのに、不安にさせて・・・契約まで持ち出させてしまった!)
弱い自分に向き合うのは久しぶりだ。いじめられていた時も、魔法がうまく使えなかった時も、ジェイクを失った時も、自分がいかに弱く何もできない存在なのかを思い知らされた。
それでもそこから必死で力をつけて、冷静に、いつだって前向きに、力と自信を付けてきたはずだった。
(でも結局エリクスさんやイリスに助けてもらっただけだった。戦うなんて大口叩いたのに、私何もできていないじゃない!)
授業の内容はこの日に限っては何も頭に入らず、気がついた時には放課後を迎えていた。
「マイラ。」
ぼんやりとカバンを持って座っていたマイラの前に、カイルが立った。マイラはゆっくりとその顔を見上げる。
「カイル?」
彼はマイラと目が合うと、前の席にどかっと腰を下ろした。
「今日はどうした?らしくないな。全然授業に身が入ってなかったぞ?」
「ああ、うん。今朝、ちょっと色々あって・・・」
「そっか。」
カイルがふわっと優しくマイラの頭に手を置いた。マイラは驚いて少し後ろに仰け反る。
「そんなに驚かなくても!大丈夫、これ以上何もしないよ。・・・なあマイラ。」
「うん?」
手を引っ込め、想いのこもった目で見つめてくるカイルに、マイラは少し戸惑う。
「落ち込んでるのか?それとも何かを後悔してる?」
「え?」
「図星?」
「・・・」
カバンの上に載せられたマイラの手を、カイルがそっと掴んだ。
「マイラはいつだって自分じゃない誰かのことを考えてる。もうそろそろ、自分のことも大切にしていいんじゃないか?」
それは、どこかで聞いたことのあるような言葉だった。そういえばイリスにも以前似たようなことを言われた気がする。
「俺はマイラのことが大切だから、君にも自分自身を大切に思って欲しいんだ。失敗したことを忘れろとか、決めてしまったことを覆せって言ってるわけじゃない。でも、本当にそれがマイラを幸せにしてくれるのか、もう一度考えてみてもいいんじゃないかな。」
「カイル・・・」
カイルはふざけたようにマイラの手をブンブンと振ると、パッと離して笑った。
「ほら、そろそろ帰るぞ!今日は寒いから暖かいお茶でも飲んでから帰るか。一緒に行く?」
マイラはゆっくりと首を振った。
「ううん、イリスが待ってるし今日は帰るよ。でも誘ってくれてありがとう。」
「おう!じゃあ校門まで一緒に行こう!」
マイラは元気よく立ち上がると、カイルとくだらない話をしながら賑やかに廊下を歩いていった。