108. クロヴィスの暗躍
静かな部屋の中、暗い緑色の炎が暖炉の中で揺れている。落ち着いた色合いのベージュの天井、花と植物を組み合わせた単調な柄が広がるモスグリーンの壁紙。そして格子窓の外には、チラホラと雪が舞っているのが見える。
ディーンは見慣れた暖炉の炎に視線を戻すと、ほとんど音も無く開いたドアに気付いて顔を上げた。
「クロヴィス様!」
ドアを開けて中に入ってきたのは、ディーンよりもだいぶ年上に見える髪の長い男性だった。長くまっすぐな黒っぽい髪を一つにまとめて背中に流し、切長の目がディーンの姿をしっかりと捉えた。
「ディーン、来ていたのか。」
「はい。・・・説得は、失敗してしまいました。申し訳ありません。」
クロヴィスと呼ばれたその男は大きな手をディーンの肩に置き、「気にしなくていい」と言ってから手を離し、窓の方へと歩みを進めた。
「しかし、クロヴィス様にどうしても会っていただきたかったんです。きっと彼女もあなた様の助けを必要としているはずです!」
ディーンは熱意と僅かな悔しさを込めてそう言い切ったが、クロヴィスは窓の外をじっと見つめたままその言葉に返事をすることはなかった。
そして彼はおもむろに手を振り上げ炎の方に指を向けると、それまで穏やかに燃えていた魔法の炎が、勢いよく燃え盛り始めた。部屋の温度が上がっていく。
「今日は冷える。もう家に帰りなさい。」
「・・・はい。」
ディーンは不甲斐ない自分を責めるように拳を近くにあった椅子の背もたれに打ち付けると、静かにその部屋を出ていった。
クロヴィスはディーンの気配が遠のいていくのを確かめると、暖炉の横にある紐を引き、ある人物を呼び寄せた。
「クロヴィス様、お呼びでしょうか。」
暖かくなってきたその部屋に現れたのは、細身で背の高い青年だった。
「ザオル、ディーンは説得に失敗した。排除で頼む。」
「かしこまりました。」
「それとそろそろ本格的に例の陣を動かしてみたいと主人が我儘を言い出した。完全ではなくともまあ数人ならあれでも十分に動かせるだろう。本物を手に入れるまでの繋ぎだが、この機会に試してみてくれ。」
ザオルと呼ばれた男は動揺一つ見せずにその言葉を受け入れた。
「地下に軟禁している若者達が適当かと存じます。そろそろ暴れたいでしょうから。すぐにでも決行いたしますか?」
暖炉の炎を少し弱めたクロヴィスは、手を軽く振って離れた場所のカーテンを閉めた。
「明日も雪が降るようだよ。私は雪が嫌いでねえ。ぜひ君の采配で、この忌々しい雪を解かしてくれると嬉しいんだが。」
その言葉で全てを察したザオルは、軽く会釈をして素早く部屋を出ていった。
― ― ― ― ―
マイラはホークの屋敷の前で馬車を降り、送ってくれたミコルと笑顔で別れを告げた。門の前で彼女を見送ると、肩を白くしていた雪を軽く払う。
だが門を開けて中に入ろうとしたその時、肩に何かが触れた感触に驚いて慌てて振り返った。
「マイラ、今帰ってきたのかい?」
「ホーク叔父さん!びっくりした・・・はい!叔父さん今日は早いんですね!」
「ああ。ちょっと町で嫌な話を聞いてね。マイラが心配で帰ってきたんだよ。」
ホークの表情は笑顔だが少し暗い。マイラは彼に背中を押されながらゆっくりと屋敷の中へと入っていく。
「何かあったんですか?」
「どうもね、私の知り合いの息子さんとその友達が、最近家に帰ってこなくなってしまったらしいんだよ。」
「え?」
マイラは玄関のドアの前でもう一度雪を払う。ホークは自分に魔法をかけて水気を全て取りさってからドアを開けた。
「とても真面目な良い子でね。私も何度か会ったことがあるんだが、まさか家出してしまうとは・・・まあ若い子だから親とぶつかり合うことはよくあることだし、一日帰ってこないくらいならあり得るかもしれないが、もう一週間も経つんだよ。」
「それは心配ですね。」
ドアが閉まると、マイラはコートを脱いでメイドに手渡し、玄関ホールの真ん中でホークと向き合った。
「そうなんだよ。でね、僕も色々知っている人に声をかけたりしてみたんだが、何も手掛かりが見つからないんだ。」
「あ、それってもしかして・・・」
「どうしたマイラ?」
怪訝な顔でマイラを見つめるホークに慌てて笑顔を繕う。確証のないことを言って彼を困らせるわけにはいかない。
「ううん、何でもないです!もしかして、それで心配になって早く帰ってきてくれたんですか?」
ホークがマイラの頭を優しく撫でる。
「そうだよ。大事な姪に何かあったら困るからね。さあ、中で暖まろう。今日も素敵なお土産があるんだ。」
「楽しみ!」
マイラはニコニコと笑顔を見せながらも、久しぶりに何か嫌な予感が身体中を駆け巡っていくような嫌な感覚を思い出し、もやもやとした気持ちになっていた。
そして短い休みが終わり、再び学校が始まった。
この年初めての雪の日から三日間も雪は降り続き、今朝ようやく雪が止んだ。空は晴れていたものの、大気も地面からの冷え込みもかなり厳しく、マイラはあまりの寒さに持っているマフラーの中で一番分厚いものを首にぐるぐると巻いて家を出た。
兵士達が魔法を使って除雪作業を行なっているようだが、今回はかなりの量が降ったため、道にはまだまだ降り積もった雪が残っている。
そのせいで馬車での登校は厳しいと判断したイリスはマイラをいつもより早く起こし、徒歩で登下校に付き添ってくれることとなった。
「お兄様の家より少し遠いのに、一緒に歩かせちゃってごめんね。」
マイラが申し訳なさそうにそう話すと、イリスはマイラのマフラーを直してから微笑んだ。
「マイラとこうして一緒に過ごせるんだから俺にとっては幸せな時間でしかないよ。ほら、前を向いて歩いて。」
「おっと、滑りそう!ありがとう、イリス!」
「礼なんて・・・ん、あれは?」
イリスの表情が一瞬で変わる。マイラは彼の細めた目が見ている方向に顔を向けた。すると少し前方に、三人の男性がゆらゆらと揺れながら立っているのが見える。
(何だろう、酔っているのかな?)
異様な三人の様子にマイラも警戒し始めたが、先に動いたのはイリスの方だった。
「マイラ、少しあの三人から離れて行こうか。嫌な予感がする。」
彼は素早くマイラの手首を掴み、「近くの公園を通り抜けて別の道に入ろう」と耳元で囁いた。マイラも小さく頷く。
だが怪しい三人を避けて入った公園内で、マイラはふとある感覚に気付いた。
「待ってイリス!この公園、何か変!」
「変?もしかして・・・」
「うん、魔法陣が仕掛けられてるかも。」
イリスはすぐに立ち止まり、マイラも集中力を高めていく。
実は例の庭園での訓練の際、マイラはスヴェンやウィルに協力を仰ぎながら『隠された魔法陣の発見方法』を見つけていた。
魔法陣は魔力を一定量流さないと、いくら正確に記述してあっても発動はしない。
微弱な魔力しか持たないマイラは魔法陣を発動させることは絶対にできないが、その微弱な魔力で発動前の僅かな揺らぎを引き起こせるのではないか、とスヴェンが気付いてくれたのだ。
マイラはミコルが描いてくれた危険性の少ない魔法陣を使って実際にその方法を試し、小さな変化を感知する訓練を重ねてだいぶ敏感に察知できるようになっていた。
(だからわかる、ここには何かある!)
マイラはチリチリとしたその感覚をもう何度も経験済みだ。だがそれがどんな魔法陣なのかまではわからない。とにかく早く公園から出て別の方向へ移動しようと決めた、その時―――
「マイラ、危ない!!」
イリスの声が辺りに響き、マイラはイリスに抱きかかえられるようにして横へ吹き飛ばされた。
「きゃああっっ!?」
思わず叫んでしまったが、痛みも衝撃もほとんど感じなかった。だがそれは、イリスが守ってくれたからだということにマイラはすぐに気付き青ざめる。
「うっ・・・」
イリスの額から血が流れている。マイラはハッとして衝撃が来た方向に目を向けた。するとそこには先ほどゆらゆらと揺れて立っていたあの三人の男達が、何かをぶつぶつと口ずさみながらこちらに向かってきている姿があった。
マイラはスッと冷えた頭をフル回転して、イリスと自分を囲うように氷と土の防御壁を素早く発動した。急いでイリスを助け起こすとどうやらそこまでダメージはなかったようで、彼はすぐに立ち上がり何かを詠唱し始めた。
だがその声は、予想を遥かに超える熱量の三色の炎の勢いにかき消される。
ゴオオオオッ、という音と熱風が、僅かな防御壁の隙間を通ってマイラの頬に届く。
(炎の威力が高い!氷だけではだめね、空気を絶って彼らの動きを止めないと!)
イリスが新たな防御壁を展開している間に、マイラは土の壁だけを消し去り、氷の向こうに見える三人を確認しながら足元の雪を解かして氷に変え、さらに風魔法を発動して彼らの体勢を崩させた。
三人のうち二人は転倒し、イリスが瞬時に植物魔法と彼が得意とする金属を操る魔法を発動して拘束する。
だがあと一人、最も強い炎を放つ男性だけは、マイラの作った氷を解かし風をも器用に避けて、驚くほどの速さで二人がいる場所へ突進し始めた。
「マイラに近寄るな!!」
イリスの短い詠唱がその男の前方に、鋭い槍を何十本も突き刺したような柵となって進行を阻む。だがその行為が、さらに恐ろしい状況を生み出してしまった。
「うおおおおおおおっっっ!!」
前に進めなくなったことで怒りが頂点に達したのか、その若い男性は突如狂ったように叫びだし、体を大きく後ろにのけ反らせた。
すると彼の叫びは唐突に止まり、マイラが恐れていたことが起こってしまった。
「まずい!!」
「まさか・・・灰色の悪魔!?」
一瞬で、男の目から耳からそして鼻や口から吹き出した大量の灰色の粒子が、まるで蜂の大群のようにイリスに遅いかかる。
マイラがアーチ型に壁を作りイリスを守ろうと奮闘するが、粒子は霧散してから空中で再び集まり、もう一度イリスを襲おうと動き始めた。
だがその間にどうにか詠唱を終えたイリスが出来うる限りの力で消滅の光を発動し、イリスに向かってきていた灰色の何かのほとんどが光の中で蒸発していく。
「消えた?」
「いや、マイラまずい、逃げろ!!」
「え?」
残っていた僅かな灰色の粒子が、イリスの拘束によって動けなくなっていた二人の男達の体にまとわりつき、今度はその二人から新たな粒子が生み出され始めた。
悪夢のようなその光景にマイラは一瞬怯む。だが必死で気力を振り絞って言った。
「今度は私がやってみる。」
「駄目だ、逃げるんだ!」
「いや!イリスを置いて逃げたりなんか絶対にしない!一生一緒にいるって約束したじゃない!!」
「マイラ、言うことを聞くんだ!」
「私の体がどうなっても、イリスのことは絶対に守るから。」
「マイラ!?」
そしてマイラはイリスを庇うように立つと、二方向から襲いくる灰色の粒子達の前に両手を掲げた。
(消滅の光、お願い、少しでもイリスを守って!!)
手のひらから溢れだす光・・・それは青白く、柔らかく・・・
だがイメージが固まらない状態で繰り出されたその弱い光は、襲いくる灰色の粒子をほんの僅かに減らしただけだった。
大量の灰色の絶望は、もう目前まで迫っていた。
マイラは目を瞑る。
(結局イリスを守ることができなかった・・・ジェイク、お父さん、お母さん、みんな、それから・・・)
「エリクスさん・・・」
そしてそれは、終わりを覚悟した瞬間だった。
目を瞑っていてもわかるほどの強烈な光が、一瞬で当たりを青白く染め上げる。
「マイラ」
聞き慣れた低く優しい声が、絶望の中にあったマイラの心に希望の光を灯す。
今度はゆっくりと目を開けた。
目の前で、眩しく輝く金色の髪が揺れる。
そしてその人は手を前に伸ばしたまま、マイラの方に顔を向けた。
「お兄様・・・」
先ほどよりも弱まった青白い光の中で余裕の笑みを浮かべて立っていたのは、待ち望んでいたその人、エリクスだった。