101. 動き出した悪意
マイラはエリクスの突然の提案に混乱していた。
「あの、でもどうして?」
「最近マイラが一生懸命魔法の練習をしていることは知っている。ここのところまた危ない目に遭っていることもイリスから全部聞いたんだ。これから俺はもっと忙しくなって、マイラを守りきれないこともあるかもしれない。だから少しでもマイラが安全に過ごせるように、俺のできることをできる時にしておきたいんだ。だから『消滅の光』が使えるようになるまではここに来て欲しい。」
エリクスの真剣な表情が、その強い思いが、マイラの胸を打つ。
「・・・わかりました。実は以前に一度だけ『消滅の光』らしきものを発動させたことがあるんです。エリクスさんが見せてくれたあのイメージが記憶の中にあって、それで偶然発動できたんだと思います。だから・・・」
「教える。できるまでしっかり教えるよ。これからしばらくの間、夕食後の時間帯は必ず家にいるようにする。その時間にこの部屋に来ることはできるかい?」
マイラは不安そうに小さなその部屋をぐるっと見渡した。
「ここでいいんですか?」
「ああ、大丈夫。あの光は『灰色の悪魔』以外には何の影響もないからね。それじゃあ平日の夜は毎晩ここで練習しよう。約束だ。」
「・・・はい。」
その約束はつまり、毎晩ここで彼と二人っきりの時間を作ることに他ならない。そこでふと冷静になったマイラは、彼の言葉を勢いで了承してしまったことをすぐに後悔した。
「あの、やっぱり私・・・」
「マイラ、約束したばかりだよ?覆すのは無しだ。」
エリクスの指がマイラの顎を優しくなぞっていく。ゾクゾクと体中に何か電気のようなものが走り、マイラは目を丸くしてエリクスを見つめた。
彼の細めた目に、僅かに上がる口角に、マイラの目は釘付けになる。その美しさと魔力に裏付けされた抗えない魅力が、耐性のあるマイラの心をもあっさりと奪っていく。
(どうしよう、まだこんなに好きだなんて・・・)
そして、マイラの耳元に顔を近付けるとエリクスは言った。
「我儘なのはわかっている。それでも俺は、マイラの側にいたい。」
その言葉は小さな呪いのようにマイラの心に刻まれていき、再び重ねられた彼の唇が、その呪いをもう剥がすことも削り取ることもできないほどに強く焼き付けていく。
(ああ、ずっと彼の側にいたい・・・)
離れていたはずのエリクスの腕の中に再び落ちていった時、マイラはもうイリスとの未来を考えていた自分のことなどすっかり忘れて、愛しい人の温もりの中にいる幸せに浸っていた。
その日からマイラは、毎晩エリクスのアトリエに向かった。
彼は最初に小さな光を手の上に出現させてからこう言った。
「『消滅の光』はこの色だけだ。この微かに青白い光。本人の魔法の色は関係ない。全員がこの色を目指して練習していく。本来はかなり複雑な工程と詠唱を必要とするんだが、マイラはイメージを掴むことを優先させるといい。」
「は、はい。あの、それはわかりましたけど、どうしてこの体勢なんですか!?」
後ろからマイラを抱きしめるような状態でレクチャーを始めたエリクスに、マイラは早速不満をぶつける。だが彼は素知らぬ顔で「近い方が光をイメージしやすいだろう?」と言ってマイラから離れようとはしなかった。
さすがにそれはおかしいと毎日抗議を続けたが、結局いつまで経ってもそれは改善されず、毎晩のようにマイラはエリクスの腕の中で『消滅の光』を出す訓練を続けていった。
しかし好きな人の腕の中にいる緊張感のせいか、なかなか思うような光を出すことができない。
訓練のはずなのにただエリクスに会いにきているだけのような気がして、自分が何か悪いことをしているような気がして、毎日心苦しさが募っていった。
そしてある日、ついにマイラはその思いをエリクスにぶつけた。
「お兄様!!」
「うわっ!?何だ、どうしたんだマイラ?」
いつものように抱きつこうとする兄の胸をグッと両手で押し返して、マイラは大きな声で宣言する。
「もう私にむやみに触らないでください!!やっぱりこんなの駄目です!!メリーアン様にも悪いし、私もその・・・集中できないし・・・」
頬を赤らめて声が小さくなってしまう自分が恨めしい。俯いてしまったマイラを抱きしめようとしていたエリクスは、一つ小さなため息をつくとそれを諦めてそっと離れた。
「わかった。マイラを困らせたかったわけじゃないんだ。ただ近くにいたかった。君に触れていたかったんだ。でもマイラの気持ちを優先する。まずはきちんと『消滅の光』を習得できるように一緒に頑張ろう。」
「は、はい!」
エリクスに理解してもらえたことを心から喜びながらも、もう彼と触れ合うことができなくなってしまったことを寂しいと思ってしまう。
それでもお互いのためにきちんと距離を置いて接していきたいと願っていたマイラは、ようやくここから本格的な訓練ができることに安堵していた。何よりも今後、イリスに堂々とエリクスとの訓練の話ができる。
もちろん彼はもうマイラが毎晩アトリエに通っていることは知っている。だが後ろめたい表情から何かを察しているのか、今はまだ何も言わないでいてくれる。
(だからってこんな状態は良くない。堂々とイリスに何でも話せる自分でいたい!)
そのためにマイラは、メリーアンとの婚約がほぼ決まっているエリクスと今度こそしっかり距離を置こうと心に決めていた。
こうして何とか常識的な距離感で訓練を再開することになったマイラは三日ほどでコツを掴むと、弱い光なら手のひらの上に数秒発動できるようになっていった。
だが日々の様々な魔法訓練に慣れてきたある日、学校帰りのマイラはその成果を試されるような事件に出くわすこととなった。
その日はケイトに誘われて、本屋に寄ってから帰ろうという話になっていた。帰り際に俺も行きたいと言うカイルとも合流し、珍しい三人で町の中を歩いていく。
「今年からは個人対抗試合になるんだよな。みんなで協力し合ってやるのとはまた違った緊張感があるよなあ。」
最近かなり背も伸びて逞しくなってきたカイルが、マイラの横で楽しそうにそう話す。ケイトはうんうんと何度も頷きながら腕を組んでマイラの前を歩いている。
「ここで結果を残しておかないと討伐隊に入れないって噂もあるからねえ。気合いを入れて練習しないと!」
「そうなのか!?まずいな、俺も頑張ろう。なあマイラ、今年も一緒に練習しないか?」
カイルが突然マイラに話を振ってくる。驚いて横を見上げ、マイラは曖昧に微笑んだ。
「あー、うーん、どうだろう?今は自宅で練習しているから・・・」
「ふうん、それってさ」
カイルが含みのある表情で何かを言いかけた、その時。
「うわああっ、何をするんだ!?」
三人が歩いている細い通りの向かい側の歩道で、何か揉め事が起きているようだ。男性の叫び声が辺りに響き、マイラ達は驚いて立ち止まった。
どうやら若い男女がそこで言い争っているようで、男性は必死に彼女を落ち着かせようとしていた。だが女性の方は男性に掴みかかり何かを怒鳴っている。
「許せない!あんたみたいな最低な男、痛い目に遭わないとわからないんでしょ!?いい加減にしてよ!!もううんざり!!」
「いいから落ち着けってフーナ!」
「絶対に許さない!!あんたなんかこうしてやる!!」
マイラ達が遠巻きにそれを見守っていると、突然その女性が男性の体中に魔法植物を張り巡らせ始めた。それほど勢いは無いものの、グルグルと身体中を締め付ける強さは相当なものだったようで、男性は次第に苦しみだす。
呆然と見守っていたマイラ達もその状況はさすがにまずいだろうと、急いで二人に近寄って女性を宥めはじめた。
「あの、それ以上はやめた方が」
「そうですよ!苦しんでるじゃないですか!!」
「せめてもう少し緩めてあげてください!」
三人が必死で説得するも、女性は全く耳を貸そうとしない。むしろこちらをギロリと睨みつけると、男性に絡まっていた魔法植物をこちらにまで伸ばし、威嚇するように目の前で素早く動かし始めた。
「やめてください!どうするマイラ!?」
ケイトの焦る声で逆に冷静になったマイラは、女性の胸に何か光るものがあることに気付いてハッとした。
「制圧しよう!」
「え?」
「わかった!」
驚いているカイルの横でケイトは瞬時に詠唱を始める。マイラはその間にイメージを固めると、まだ暴れている女性の足元に水を生み出して凍らせ、滑って転んだところをケイトの魔法植物が受けとめて彼女の動きを止めた。
その間にカイルが気を利かせて男性を縛り上げている植物を手で引きちぎり、マイラは彼女がそれ以上詠唱できないよう、ユギから教わっていたとっておきの『眠りの魔法』を発動して彼女の意識を奪っていった。
「はあ、怖かったー!」
ケイトが額に汗をかきながらマイラに笑みを見せる。カイルはゲホゲホと苦しそうに咳込んでいる男性に寄り添っていた。
マイラは女性の胸元を覗き込んでそこに見覚えのある赤い石の付いたペンダントがあることを確認すると、イリスから貰っていた特殊な布の袋をポケットから取り出し、素手で触れないよう注意しながら彼女の首からそれを取り外し、袋の中に包みこんで口を閉じた。
「マイラ、これはいったいどういうことなんだ?」
カイルの声が少し震えている。マイラとケイトは顔を見合わせて黙りこんだ。
とにかく二人を何とかしないといけないからとその場は誤魔化し、騒ぎを聞きつけてやってきた兵士達が二人を連れていくのを見送った。その後カイルが怖い顔で二人に詰め寄ってきたため、三人で話し合おうとマイラの家へ向かうことになった。
だが屋敷に入り部屋に向かう途中、廊下でばったりとある人物に出くわした。
「まあ、マイラ様。今お帰りですか?」
「えっ、メリーアン様!?は、はい、今戻りました。メリーアン様は今日こちらにいらっしゃっていたんですね。お兄様も一緒ですか?」
メリーアンは柔らかな笑みを浮かべると不思議そうな顔でマイラの後ろに立つケイトとカイルをチラッと見てから言った。
「いいえ。この後食事を一緒にどうかとお誘いいただたのですが、お仕事がまだ終わらないようですわ。でもせっかくの機会ですしマイラ様ともお話してみたくて、少し早めにこちらにお伺いしたんです。」
マイラは目を丸くする。
「私と話、ですか?あの、それでは友人達を一旦部屋に連れて行きますので、少しお待ちいただけますか?」
「ええ、突然ごめんなさいね。」
メリーアンは後ろに控えていたキーツに連れられて応接室に入っていく。マイラは嫌な予感を感じながら、ケイト達に部屋で待っていて欲しいと伝えると応接室に向かった。
「お待たせいたしました。」
マイラが部屋に入ると、メリーアンは壁に掛かった絵画を優雅に眺めて待っていた。振り返った顔には先ほどと変わらない優しい笑顔が見える。
「いえ。こちらこそ突然ごめんなさいね。」
そう言いながらマイラの方へとゆっくり歩いてくる彼女からは、甘ったるい花のような香りが漂う。その香りがどんどん濃くなり強い視線を感じるようになると、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていく。そしてメリーアンは微笑みながら囁いた。
「私、あなたがエリクス様の妹でないことはもう知っているわ。二人が惹かれあっていることもね。いい?彼にこれ以上近付かないで。もし彼とこれ以上関係を進展させるなら、こちらも容赦はしないから。」
「・・・!」
マイラは血の気が一気に引いていくのを感じてさらに体が硬直した。どうしてそのことを彼女が知っているのか?容赦しないとはいったいどうするつもりなのか?
「ふふふ。怖がらなくてもいいのよ。何もしなければいいの。可愛らしい妹として適切な距離でここにいればそれでいいわ。でもこれ以上彼の気持ちを求めるようなら、あなたの大切な人も大切なものもみーんな壊してあげる。」
まるで世間話でもするかのように軽い感じでそう言い切ったメリーアンと、マイラは目を合わせることすらできなかった。
「ではそういうことで。ああ、もちろんこの話もエリクス様に言っては駄目よ。よろしくお願いしますね、マイラ様?」
マイラが何も言えずにじっと立っている横を通り、メリーアンはきつい香水の香りを残して笑顔で応接室を出ていった。
「行かなくちゃ。」
マイラはゆっくりと顔を上げると、震える手をもう片方の手でしっかりと押さえつけながら、静かにその部屋を後にした。