そいつはホロンと名乗った!
久方ぶりに実家に帰ってごろ寝をしていると父に誘われた。
父と私と弟で散歩にいこうということだった。父がこう言う提案をするのは珍しい。むしろ初めてではないか? とすら思う。よく思い出せば小学校低学年の時キャッチボール以来ではなかろうか。
気まずいキャッチボールだった。小さい頃の私は無愛想でワガママだったし、父は口下手だった。何より私も父も野球に全く興味がなかった。共通の話題のないまま始まる キャッチボールは、明らかに義務感で行われていた。子どもとのコミュニケーションはキャッチボールから! そんなステロタイプな先入観からだろう。
弟ともそう仲良くはない。ワガママだった私は弟によく無茶をした。悪い悪いと思いつつ今さら詫びて許されるでもない。
父と弟はどうだろう。少なくとも共通の趣味や話題は思い付かない。
我々親子と兄弟は母が間に入ってやっと会話が始まるのだった。
このままだらだらしていたかったが、なかなかない機会なので、私は行くことにした。目的のないネットサーフィンで潰すよりは有為に思えた。弟も同様らしかった。
見慣れた道を暫く歩く。慣れてはいるが、久しぶりなのと、この三人では初めてということで新鮮だった。大した会話はない。あんな店できたの、とか潰れたの、と他愛ないことばかりだ。
「兄ちゃんも帰って来とったら良かったのに」
一番上の兄とはもう何年も会っていない。距離で言えば私よりも近くに勤めていたが、研究が忙しくてちょっと外すということもできないらしい。
「姉ちゃんが帰ってくるんも久しぶりやんか」
「しょうがないやろ」
ふと知らない道を見つける。
「こんな道あった?」
「廃墟街だよ」
「廃墟の街なの? 近所にそんなんあったの」
廃墟を探索するゲームを好んでプレイする私は強く興味を惹かれた。地元を離れていない父と弟は微妙な顔をしたが、そんな私に気を使ってか、
「行ってみる?」
どちらともなく提案してくれた。
入ってみるとなるほど廃墟の街だった。ドラッグストアも和菓子屋もコンビニも商店街も、みんなどこか壊れていて、営業している店は一つもない。人気は全くなく、煤けていた。
空は快晴で、日の光は充分届いているのに薄暗い。
本当に日本で、近所かと疑いたくなるような風景だった。何処か遠い国の略奪や暴動の後をテレビで眺めているような気分だった。
コンビニやスーパーの閉店は見たことがあったが、看板や外装を取っ払うか、キレイに更地になるかの二択だ。清潔な話だ。このように"悪意を以て"破壊された店というのは見たことがなかった。
「治安よくないからさ、ぱっとみたら帰ろや」
と弟が言った。たしかに不良や半グレが悪さをするにはお誂え向きだった。
入ってすぐは興奮していたが、廃墟の雰囲気に気圧され、私は気が滅入っていた。
「うん。もう帰ろう」
行くかどうか聞いた時の二人の表情を思いだし、引き返すことにした。
何があってこんな街が出現したかわからない。気になるが二人に聞こうとは思わなかった。後でじっくり調べてみれば良い。
「だあれのあだをうとうかな。だあれのあだをうとうかな」
低い、男性の声が聞こえてきた。野太く、呪詛に満ちた声だ。
こういう場所だから病気の人も居るだろう。
父の顔色が心持ち良くなかった。
「弱ったなぁ。帰り道や」
引き返すには声の主とぶつかるらしい。
「迂回出来んの?」
「無理や。廃墟やけん、建物崩れとったりして通れる道が限られとるけん」
「だあれのあだをうとうかな。うとうかな」
そうこうしている内も声は止まない。近づいて来ている気もする。
「すれ違えばいいだけやろ」
弟がしびれを切らした。
「そうかもしれん」
隠れてやり過ごすのも、このまま家路から遠ざかって逃げるのも、どれも博打だった。
だったら素知らぬ顔で帰る方が良い。
私たちは声のする方へ向かった。
次の角を曲がると鉢合わせになるというとき。
「だあれのあだをうとうかな! うとうかな!!!」
声は近いから、というだけでなく、力が籠るようになっていた。私は震えた。
建物の陰から伺ってみると、人の姿はなかった。
巨大な白猫の頭部が転がっていた。
「だあれのあだをうとうかな!!」
声はその頭部から聞こえていた。
黄色い目をした白猫の頭部は、おきあがりこぼしのように、完全に立つことも倒れることもなく、ごろりごろりと転がっている。
「デカいな」
「みきゃんの着ぐるみよりデカいことない?」
「だあれのあだをうとうかな」
声の大きさや節は変わるが内容は全く変わらない。
三人ともいくらか安堵していた。意図は不明で不気味だが、少なくとも人間ではない。
大方テープかなにか、再生装置で同じ内容をずっと喋っているのだろう。
隠れるのをやめ、道を進む。
近づいてみると猫の目はいやに生気に満ちており、時折瞬きさえしていた。毛の一本一本もデフォルメされていなかった。本物そっくりの猫をそのまま巨大化させたよう。
首のあるべき場所は灰色の毛に覆われている。ちょんぎれた感じはしない。最初からこの頭一個で完結しているように見えた。
間近に迫った時にはもう作り物とは思えなくなっていた。
「どうする? 走る?」
不安そうに弟が言った。
「やっぱり引きかえそうか」
父が言った。二人とも"それ"がもう単なるぬいぐるみなどの無害なオブジェクトとは思えなあいようだった。
逃げたほうが良いような気もしたが、下手に刺激するよりは、何事もなかったようにすれ違う方がいいのではないか。
初めてのことで正解が解らない。
今にも走り出したい気分だったが、早足を保つ。
「刺激するの、よくないかも知れない。知らん顔しとって。目ぇ合わせんとこ」
私は声を潜めて言った。
言ったものの、猫頭の進行方向は不規則だった。
どこか溝にでも挟まってくれれば。遠ざかってくれれば。
そう祈ってみるものの、むしろ猫頭は我々に段々近付いていた。
「だぁれのあだをうとうかな!? うとうかな!? うとうかな!?」
しっかり猫の口が動いているのが見えてしまった。野太い声は、明らかに、しっかり、猫の口から発せられている。
我々に気付いている。明らかに早口になっている。
転がる度微かに聞こえるどちゃり、どちゃりという湿った音は無機質なメカニズムではなく、体液が通い、有機的な臓物が中に詰まっていることを教えていた。
なるべく、そいつから遠ざかるライン取りを心掛けて歩いていたが、 進行方向に居座られてしまった。
回り込んで進もうとするが、ちらりとみると、目があってしまった。
もうごろごろ転がっていなかった。首があるべき位置でどっかと立っている。
「うううううううむむむむむむむむむむむむ」
先ほどまで口にしていたフレーズが止まって、巨大な呻き声を発し始める。
私の心臓が早鐘をうつ。父と弟はどんな顔をしているだろう。
「わ、わた、わたしはホロン」
呻きに続いて出てきたのは名前。
三人が三人とも、これは、善くないものだ、と直観した。
妖怪だろうか。邪悪な生体実験の産物だろうか。突然変異の怪物だろうか。
その疑問を直接相手にぶつける勇気はなかった。
とにかく化け物だ。善くない化け物なのだ。
「行こ。行こや」
もう刺激もへったくれもない。
無視することが善くない結果を招くかも知れない。それは解らない。解らないが、直視することすらおぞましいものをマトモに相手して良いはずがない。気が触れてしまっては元も子もないではないか。
傍らを通り抜けようとする。
「おぅおうおうおとおさあああぁあん」
父が"ホロン"に釘付けになる。
「行こ、相手したらいかん。行こ」
父のことを呼び止めた訳ではない。
条件による反応か、教えこまれたことを再生しているだけだ。そう思おうとした。
「おかああああさん!」
駆け出したいが、出来ない。
努めてお前のことなど気にも留めてない。そういう態度で立ち去るべきだ。
「おにーーーーちゃーーーーーんおねーーーーーちゃーーーーーん」
恐怖で涙が出るなどいつぶりだろうか。
大丈夫だ。私の家族なや姉など居ない。こいつの言うお兄ちゃんとは私のことではない。
必死にそう言い聞かせる。
「お父さんもお母さんもお兄ちゃんもお婆ちゃんのことなんてどうでもいいんでしょう!」
野太い声が、子どもが駄々でも捏ねるように言った。なんだ。こいつは。なんなのだ、一体。
うるさい、と怒鳴りつけてやろうと"ホロン"を睨み付ける。
「だぁれのあだをうとうかなああああ! だぁれのあだをうとうかなぁあああ!」
地面が赤い液体で濡れていた。"ホロン"の首のあるべき位置から血のようなものが染みだしていた。
「だぁれのあだをうとうかな!!!!!!」
そこで目が覚めた。
ひどい動悸と息切れだったが、それ以外は何事もない。
当然だ。猫の生首のような生き物"ホロン"も廃墟街も存在しない。実在してはいけない。あんな気色の悪いもの。
外は良い天気だ。仕事は休みだ。久しぶりに地元に帰っている。気晴らしにぶらぶら散歩をするのも良いだろう。
「お母さん、ちょっと出掛けてくるわ」
「廃墟街には近付いたらいかんよ」
「解った、行ってきます」
少しばかり動揺する。廃墟街は実在してしまった。まぁ良い。あれは夢だったのだ。
祖母の居る施設を訪ねようと思った。
良い機会だと思った。
道を進んでいると、ご自由にお持ちくださいの立て札と、並べられた古書を見掛けた。
どの本もぼろぼろだが、私はつい見いってしまう。
児童書に目が止まる。水にふやけ、かぴかぴの表紙の児童書。祖母は幼少期の私にこう言った本を読み聞かせるのが好きだった。
祖母は認知症が大分進んでおり、私を成人女性と認識できない。祖母の中で私は幼少期まで時間が戻り、そこで止まっているのだ。
本を手に取る。童心にかえって祖母に読み聞かせをしてもらうのも良いだろう。
残りの道中は赤ずきんちゃんのような気分だった。差し入れは喜ばれた。読み聞かせの思いつきはうまくいった。万事好調で満たされた気分で家に帰った。
家に帰ると、長兄が帰っていた。仕事が忙しくて、何年も帰っていない兄。多忙のあまり髪も髭もぼさぼさと手入れしていない兄。
その兄が何か、深刻そうな顔をしている。
その視線の先、廊下の端に"ホロン"が居た。
私は危うくくずおれるところだった。
"ホロン"は最後に見たときと変わらず血を流し、床を濡らし、浸し、溢れさせていた。
兄が帰って来ている。巨大な猫の生首が家の廊下に鎮座している。あれは夢ではなかった。只事ではなかった。一斉に血の気が引いた。
「"ホロン"、頼みがある」
兄が言った。
「な、なななにか」
「仇討ちの意味することは解らないが、それで満足するなら条件次第で協力する用意はある」
「うむ、うむむ」
「だが、人殺しや、犯罪にあたる行為はやめて欲しい。あなたがするのも、我々にさせるのも」
兄が汗を流す。私は拳をぎゅっと握る。
「や、やや約束できない。私にゆるされているのはあだうち、それのみ」
"ホロン"が答えた。
果たして"ホロン"の言う仇討ちとはなんなのだろうか。何故あの時ーーー私が気を失う間際、私の家族の機能不全を指摘するようなことを言えたのか。サトリの妖怪のように、人の心が読めるのだろうか。
そこでふと思い付く、人の心を覗けるのなら、人の心を弄ることも出来はしないか。
私は何故急に祖母を訪ねようと思ったのか。直前の出来事、"ホロン"の叫びに影響されてか。それなら良い。それなら良いが。
そうでなくても、"ホロン"の言う仇討ちが私を祖母に会いに行かせるようなものなら良い。
かわいいものだ。祖母も私も幸せになる。それで済む。
だが"ホロン"が、我々家族の機能不全を突いて、誰かの誰かへの憎しみを、妬みを見付ける術を持つなら。それを倍加させる術を持つなら……。
何がいけなかったのか。家族ともっと良い関係を築けておくべきだったのか。"ホロン"の童歌に気づいた時、廃墟を掻き分け接触せぬよう無理矢理にでも道なき道を帰るべきだったのか。父の誘いに乗って散歩になど行かなければ良かったのか。
散歩の途中知らない道になど気付かなければ?
そうだ。廃墟街などに立ち入らなければ良かった。廃墟街などに立ち入るべきではなかった!
廃墟街などに。廃墟街などに!