2.血統の力
「ところでおまえ、足は速いのか?」
「いえ、史上最低の競走馬と言われていました」
僕がそう答えると、オーウェン卿は納得がいかないような顔をした。
「エクリプスに似てるんだから、速いと思うんだがなあ」
「でも、三十回レースをして、一度も勝ったことがないんです」
「どうも信じられないな。試してみよう」
オーウェン卿は指笛を吹いた。
すると、離れたところでむしゃむしゃと牧草を食べていた牝馬がやってきた。
「どうしたの、オーウェン卿。あら、その立派な体格の殿方はどなたかしら?」
この時代の馬は、現代よりも小さいようだ。僕程度でも、立派な体格らしい。
「彼の名はシャドーファクス。ミホというところから来たらしい」
オーウェン卿は、僕を紹介してくれた。「シャドーファクス君、彼女はウチの牧場で最も速い馬だ。三歳牝馬で、名をエレインという」
紹介を受けたエレインは、優雅に一礼した。さすがに男爵の持ち馬だ。育ちのよさがにじみ出ている。
目がクリっとしていて、鼻筋が通っている。かなりの美少女だ。
「エレイン、シャドーファクス君と競走をしてみたまえ。彼に勝てば、レースに出してやろう」
オーウェン卿がそう言うと、エレインの目の色が変わった。
後で聞いたのだが、この時代の競馬は、五歳を過ぎて十分成熟してからでないと、レースには出さないのが普通だそうだ。エクリプスのデビューも、五歳になってからだ。
二歳でデビューする現代競馬とは、隔世の感がある。
「いいでしょう。この私が、どこの馬の骨だかわからない馬に、負けるわけがありませんわ」
どうやら、断れない雰囲気のようだ。
まあいいや、どうせ僕は勝てないだろうから、適当に走ってやろう。
「それでは、ここから向こうにあるリンゴの木まで、先に着いた方が勝ちとしよう。では二頭とも、そこに並んで」
リンゴの木は……あれか。見た感じここから三千メートルはありそうだな。かなりの長距離だぞ。
でも、僕はどちらかというと、長距離のレースが得意だ。まあ、それでも勝ったことはないんだけど。
「それでは、位置について……用意……スタート!」
オーウェン卿の合図で、僕は走り出した。
騎手を乗せないで走るのは変な感じだ。まあ、鞭で叩かれないのはありがたい。
そのまま快調に走っていたが、なんだか変だ。エレインがついてきていない。
僕は他の馬の前を走ったことがほとんどないので、どうも落ち着かない。
振り返ると、遥か後ろをエレインが懸命に走っていた。
あれ、どういうことだ? 彼女は本気で走ってるのかな。なんであんなに遅いんだろう。
そこで僕は気付いた。
彼女が遅いんじゃない、僕が速いんだ。
考えてみれば、当然のことだ。サラブレッドというのは、長い年月をかけて、速い馬どうしを交配させることにより、より速い馬を作り出してきたのだ。
二百五十年後のサラブレッドである僕が、この時代の馬に負けるわけがないのだ。
僕はリンゴの木のゴール地点にたどり着いた。
そして、エレインが来るのを、悠然と待つ。
僕よりはるかに遅れてゴールしたエレインは、信じられないという顔をしている。
「ハア……ハア……、あなた、速すぎますわ」
エレインは、息を切らしながら言った。「私の完敗ですわね」
僕は馬生初めての勝利に、興奮していた。
オーウェン卿も、この結果に驚いていた。
「すごい、すごいぞ、シャドーファクス君」
「あ、はい、今日は調子が良かったみたいです」
「なあ君、レースに出てみないか」
レースか。正直、日本で走っていた頃は、嫌でたまらなかった。他の馬が怖くて、馬群に入っていけないのだ。それでいつも、びりっけつでゴールして調教師に怒られていた。
だが今、僕はエレインに勝ち、勝利というものの味を知ってしまった。
この味を、もっと味わいたい。
「はい、レースに出てみたいです」
「よし、わかった。私の持ち馬として、レースに出てもらおう」
どんなレースだろうな、と思っていると、オーウェン卿は驚くべきことを言った。
「エクリプスとマッチレースをしてもらう。君なら、あの怪物に勝てるかもしれない」
こうして、僕はあの伝説の名馬エクリプスと、マッチレースを行うことになってしまった。
マッチレースとは、現在行われるような、多数の馬が同時に走るレースではなく、二頭の馬だけが走るレースである。
つまり、僕とエクリプスの一騎打ちだ。
馬群が苦手な僕にとっては、悪くない条件ではある。
エクリプスはあまりにも強すぎて、対戦相手が現れなかったのだが、僕という挑戦者が現れたことで、急遽マッチレースが組まれることになった。
だが競馬関係者の間では、これは無謀な挑戦だと思われているようだ。エクリプスに勝てる馬などいるはずがないと。
ある人は「オーウェン卿は頭がおかしくなったのではないか」などと、ひどいことを言っているらしい。
「言いたい奴らには言わせておけ。俺はおまえが勝つと信じている」
オーウェン卿は自信満々にそう言った。エレインも、
「私はエクリプスを見たことはないのだけれど、あなたより速い馬がいるなんて想像できないわ」
と言って、励ましてくれた。
騎手はどうするのかと思っていたが、なんとオーウェン卿が自ら手綱を握るらしい。
大丈夫かな、と思ったが、試しにオーウェン卿を乗せて走ってみると、とても走りやすかった。なぜなら、この人は跨っているだけで、何もしないのである。どうやら、僕の好きなように走らせてくれるようだ。
僕はマッチレースまでの間、オーウェン卿に調教をつけてもらった。
エレイン以外の馬とも走ってみたが、どの馬も僕についてくることはできなかった。
僕はこの時代では、史上最低どころか、史上最高の競走馬だった。
これなら、エクリプスが相手でも勝てるのではないか、と自信を深めていたのだが、オーウェン卿からマッチレースの走行距離を教えてもらうと、ショックのあまり、馬糞をもらしてしまった。
なんと四マイル(六千四百メートル)も走るらしい。どう考えても長すぎる。
日本で最も長い平地競走のレースは、三千六百メートルである。
「それはあまりにも過酷です。虐待ではないでしょうか」
僕は文句を言った。だが、オーウェン卿は取り合わなかった。
「どこがだ? 普通だろ」
どうやら、この時代では普通の距離らしい。
僕はこの時代のイギリス競馬を甘く見ていたようだ。