1.史上最低の競走馬シャドーファクス
「シャドーファクス、おまえを食肉業者に売ることにしたよ」
調教師からそう告げられた僕は、一瞬何を言われたのか分からなかった。だが、次第にその言葉の意味を理解すると、恐怖で体が震えた。
「どうしてですか、センセイ。僕が何か悪いことをしましたか?」
「いや、どうしてもなにも、おまえ、もう五歳になるのに、一度も勝ったことないだろ」
僕の名前はシャドーファクス。JRA(日本中央競馬会)に所属する競走馬だ。
母の父に、あのディープインパクトを持つ良血馬で、デビュー前は期待されていたのだが、元来の気の弱さが原因で、馬群に入っていくことができず、スタートからゴールまで最後方を走ることが常だった。
戦績は三十戦三十敗。むしろ、よく今まで我慢して使ってくれたものである。
競馬関係者の間では、「史上最低の競走馬」と呼ばれているらしい。
僕は何も言い返せなかった。
「これはオーナーの意向でもある。さあ、覚悟を決めろ」
そう言って調教師は僕の手綱を引いて、馬運車に乗せようとした。
この車に乗れば、僕は殺されるんだ……。
「いやだ、死にたくない!」
僕は調教師の手をふりほどき、逃げ出した。
「あっ、こら、待て!」
僕は全速力で走った。こんなに速く走ったのは初めてかもしれない。
あまりにも速く走り過ぎて、バターになるのではないかと心配したが、そんなことはなかった。
だが、ふと気づくと、周囲の景色がおかしかった。トレーニングセンターにいたはずだが、いつの間にか草原を走っている。
あり得ない景色を目にして、わけがわからず立ち止まった。
すると、近くから人間の声が聞こえた。
「おまえ、どこから来たんだ?」
三十メートルほど離れたところに、見たことのない男がいた。
顔立ちは日本人ではない。黒い髪を後ろになでつけ、口ひげをはやしている。
年齢は三十歳ぐらいか。ベストの上に派手な刺繍のロングコートをはおり、だぼだぼのズボンをはいている。
特にハンサムとはいえないが、品のよさは感じる。
外国人騎手かな。
「えーと、美浦トレーニングセンターにいたはずなんですが」
「ミホ? どこだそこは?」
周囲を見渡してみる。
見渡す限りの草原かと思ったが、はるか遠くに柵のようなものが見える。どうやらここは牧場のようだ。
ずいぶん広い牧場だな。
僕以外にも馬が何頭かいるのが見える。見たことのない場所である。
「あの……ここはどこでしょうか?」
「ニューマーケットだが」
ニューマーケット? そんな牧場があったかな?
「おまえ、それにしても大きな馬体だなあ」
「そうでしょうか」
大きな馬体? 何を言ってるんだろう。僕は体重が四百五十キロに満たない小柄な体なんだが。
「かなり大きいぞ。あのエクリプスと比べても引けを取らんな」
「エクリプス!?」
「ああ、先日、彼の走りを見たばかりだ。とても美しく、そして軽快な走りをする馬なんだ」
エクリプスだって!? すごい名前が出てきたな。
彼の名前を知らない競走馬はいないだろう。十八世紀のイギリスに生まれた歴史的名馬で、あまりにも強すぎるため、挑もうとする馬がいなかったと言われている。
競争能力もすごいが、特筆すべきは、その種牡馬としての活躍ぶりだ。
エクリプスの産駒は、当時創設されたばかりの「ダービー」などの大レースを勝ちまくり、その子孫はさらに繁栄した。
―――
話は変わるが、サラブレッドの三大始祖をご存じだろうか。
サラブレッドの血統を父系の先祖をたどって遡っていくと、三頭の種牡馬にたどり着く。
バイアリーターク、ダーレーアラビアン、ゴドルフィンアラビアンの三頭である。
そして、この三頭の子孫から、それぞれの系統を発展させた大種牡馬が現れる。
バイアリータークの系統からヘロド。
ダーレーアラビアンの系統からエクリプス。
ゴドルフィンアラビアンの系統からマッチェム。
彼らはヘロド系、エクリプス系、マッチェム系という系統を確立した。
現在のサラブレッドは、この三つの系統のどれかに分類されるわけであるが、圧倒的に繁栄しているのはエクリプス系である。
エクリプス系の占有率は実に九十五パーセントを超える。
つまり、競馬界はエクリプス系に支配されているのだ。
まさにサラブレッドの父と言っても過言ではない。
―――
そしてもちろん、僕もエクリプス系である。
そんな伝説的な名馬の名前をつけるなんて、大胆な馬主がいたもんだなあ。
「ところでおまえ、名前はあるのか?」
「あ、はい。シャドーファクスといいます」
「シャドーファクスか、いい名前だ。俺はヘンリー・オーウェン。爵位は男爵だ」
えっ、男爵? 貴族様だったの?
僕はひざまずき、頭を地面につけて挨拶した。
「ははーっ、そのような偉い方であるとは存じ上げず、御無礼をいたしました」
オーウェン卿は手を振って、立つように促した。
「いいよいいよ、おまえ、馬なのにずいぶん礼儀正しいな」
「はっ、お褒めいただき、光栄であります」
「まったく、オケリー大佐にもその礼儀を見習ってほしいもんだ」
「オケリー大佐とは、どなたでしょうか?」
「さっき言ってた、エクリプスの馬主だよ」
オケリー大佐といえば、エクリプスの馬主が、確かそんな名前だったような……。
まさか……。
「あの、つかぬことをお聞きしますが、今は西暦何年でしょうか?」
「ん? 千七百七十年だろ。それがどうかしたか?」
なんということだろうか。
僕は、千七百七十年のイギリスにタイムスリップしてしまったようだ。