1-1 異世界に舞い降りた高校球児
「起きてください」
誰かの声が聞こえた。まどろみの中、星の意識は覚醒していない。
「起きてくださーい、聞こえてますかー」
女性の声だった。聞き覚えはない。ゆさゆさと体を揺すられる。起こそうとしているのだろうが揺れ具合妙に心地よい。はっきりとしない意識の中、星は二度寝しようとした。
星悠馬は寝起きが悪かった。
「……」
起こそうとした主は黙りこくった。代わりに何か柔らかいものが星の頬に押し付けられた。
「これなんだと思いますか?」
何だか柔らかくて……暖かい? さわさわ動いてる?
「ゴキブリです」
「Θ§ΦШ※@€!!!!!」
声にならない叫びを上げて、なんかそういう類の玩具みたいに星は跳ね起きた。自分の顔をなでまわした後、傷物にでもされたようにベッドの隅に縮こまった。辺り一面を見回す。部屋の中は薄暗くてよくわからず、窓際だけが外からの青い光にぼんやり光っている。そんな暗闇の中でも星は一人の存在を認識した。
「面倒な手間をかけさせないでください、先が思いやられます」
さっきの声の主の「少女」だった。淡い月明かりに照らされた姿はこの世のものとは思えなかった。要するに美しいのだ。光の色なのか元の色なのか銀色の長い髪が肩の上で揺れている。西洋人のような顔立ちから放たれる瞳はまっすぐにこちらを見据えている。話している言葉が日本語だから何だか違和感がすごい。
星は声を絞り出した。
「お……お前は……」
絞り出した声を右手で制された。少女は左手で口を覆いあくびをかみ殺した。
「いろいろ聞きたいのはわかります。ここがどこかもいつなのかも明日教えますから……今日はもうおやすみの時間……」
そのまま隣にある別のベッドに倒れこんだ。すぐに寝息が聞こえてくる。星はしばらく呆けていたが、目が暗闇に慣れたころようやくベッドから降りた。部屋は広かった。星の部屋の倍はある。そこに置いてあるものはベッドが二つと小さな机、既に熟睡している少女……
星は胸に去来した雑念を一切絶ち払い、窓の外をのぞいてみた。
「なんだよこれ……」
レンガ造りの建物が都市計画を無視した軌道で広がっている。街灯もないのに風景がよくわかるのは青い満月が3つも浮かんでいるからだ。眼前にあるのはゲームかファンタジーの世界にでも出てきそうな西洋の街並みだった。
「随分とひどい顔ですね、朝寝坊したくせに」
翌朝、1階の食堂で星は少女と向き合っていた。鏡を見ていないのだが、ひどい顔というのはなんとなくわかっていた。ほとんど眠っていないのだ。窓の外に広がっていた風景を見た後はベッドに潜り込んだのだが、頭の中がぐるぐるするのと、この少女が横で無防備に寝息を立てているのと、とにかくその他諸々で全然眠れなかった。
星はいつの間にか半袖のワイシャツにズボンの夏制服を着ていた。この服装は、昨日見た風景とはひどく場違いだ。少女が着ているのはどこの民族衣装なのかよくわからないが、外国の街をうろついても特に違和感はなさそうだった。食堂には長机がいくつも置いてあるのだが、星と少女のほかに人はいなかった。
「誰もいないんだな」
「あなたが起きるのが遅いんですよ」
……なんかこの人、口悪いな。
昨夜、月光に照らされて幻想的だった姿は、日当たりが悪く薄暗い食堂でも変わらずきれいだった。ただしは表情はひどく無機質で感情は読み取れない。ただぶっきらぼうな口調でなんとなく不機嫌そうだった。
「まったく、こんな時間に朝ご飯なんて」
「朝ご飯って」
机の上に並んでいたのは黒色のパンと白く濁ったスープ、それに木のコップに入った水だった。パンをかじってみたらひどく硬い。噛めないことはないが硬い。そして塩がふってあるのか辛い。ようするにまずいのだ。スープは冷めている。こっちは味が何もしない。具材の葉っぱは苦い。ようするにまずいのだ。水は冷めているというよりぬるい。あと何か変な味がする。ようするにまずいのだ。
「しけた顔で食べないでください。さらにまずい食べ物がまずくなります」
「お前もまずいのかよ!!」
特に好き嫌いのない星だったが、純粋なエネルギー補給で食事をしたのは初めてだった。激安プロテインですらもう少し味がついている。この苦行は10分ばかり時間がかかった。
ひとしきり食事を終えると星は切り出した。
「なあ、聞いていいか」
「だめです」
「……」
沈黙が降りた。星には聞きたいことが山ほどあった。ここがどこなのか、少女が誰なのか、星の記憶では頭部に硬球が直撃した後は何も覚えていないのだが、試合はどうなったのか。
「あなたが色々聞きたいのはわかっています、でもあなたが自分勝手に質問しても支離滅裂な話なのでうまく伝わらないのです。こちらで順序立てて話しますからその上でわからないことがあれば質問してください」
少女は静かに語りだしたので星はおとなしく聞くことにした。
「まずあなたが最後に出た試合ですが、あなたはデッドボールを受けた後、気を失ってそのまま目が覚めませんでした。代走に代わりの選手が出た後、相手のピッチャーは投げれる状態じゃなくなったので、中学の時に投手経験のある別の選手が登板しましたが、あなたの次の打者がサヨナラを打って勝ちました」
「勝った? 本当に? じゃあ甲子園に行けるのか?」
「あなたの学校はそうですね、あなたはともかく」
「……えっと、それはどういう」
「あなたの元の世界の肉体は気を失った状態で絶賛入院中です。命に別状はありませんが、何故か意識が戻らないので医者も匙を投げています。まあ戻らない理由はこっちの世界でこうやってまずい飯を喰らって私の話を聞いているからなんですけど」
「じゃ、じゃあ早く元の世界に……」
ぼかっ
殴られた。少女は武術の達人みたいに杖をくるくる回すと机の下にしまった。杖自体は軽いのだが脳天をそこそこの速度で叩かれたものだから、星は頭を抱えて机に突っ伏した。
「な、なんで……」
「こちらで順序立てて説明すると言ったんだから黙って聞きなさい。そもそも今このタイミングで目覚めたところでリハビリと再検査で試合には多分間に合いませんよ」
「そうじゃなくて、相手の学校のピッチャーが可哀想だろ!」
「はあ?」
「自分がデッドボール当てた相手が植物状態なんだぞ、もう二度と野球できないくらいのダメージかもしれないだろ。さっさと元の世界に戻してくれ」
それは星が真っ先に考えたことだった。それを聞いた少女はひどく意外そうな顔で目を見開いた。少女が初めて見せた表情らしい顔だった。
「まあ、元の世界に戻る方法はあります」
「本当か? だったら早く元の世界に……」
ぼかっ
二回目だった。再び星は頭を抱えた。
「次に許可なく発言したらこんなんじゃすみませんよ。方法は至極単純です。この世界で野球の試合に勝ちなさい」
「は? 野球……?」
「やきゅうのしあいにかちなさい」
「いや、聞こえなかったんじゃなくて」
野球という言葉がこの世界観に似合わないのだ。この世界に野球があるのか? こんな世界に飛ばされたのだから魔王でも倒す冒険に旅立ったりするんじゃないの?
少女は立ち上がった。
「ひとまずここまでです。後は歩きながらお話ししましょう」
「待ってくれ、その……」
三発目が飛んでくる前に星は防御姿勢をとった。杖は空を切ったが少女は続けて攻撃してくる。表情が変わらないのが怖い。
「まだわからないようですね、二度と口が聞けないよう躾けてあげましょう。100回ばかり殴れば元の世界に戻れるかもしれませんよ、よかったですね」
「違う! お前の名前だ! なんて呼んだらいいんだ!」
「……面倒ですね。そんなのどうでもいいでしょう」
「呼んだりするときに困るだろ」
「名前、名前、そうですね……ウィンダにしましょうか」
「……それって偽名じゃね?」
「初対面でいきなり本名晒すほど情報リテラシーは低くないんですよ」
「高校生相手に何の気遣いだよ!」
「もういいでしょう、星悠馬、あなたは使命を果たさなければいけません。この世界で野球をして勝つのです。早く元の世界に戻りたいのでしょう。あなたを病院送りにしたピッチャーのために」
「言い方……」
ウィンダはそう言って身を翻し出口へ向かった。星は余計なことはしゃべるまいと不本意ではあったが黙って従った。