水玉と月光
4000字ていどです。
記憶の中の彼女はいつだって水玉模様の服を着ている。
夏場はワンピース、冬場は厚手のセーター、均一に配置された均一な水玉。ポルカドット。
彼女にはそれが良く似合った。あるいは、僕が彼女を見かける度にたまたま身に着けていただけかもしれないが、それでも確かに水玉模様は彼女の特権だった。水玉模様が彼女の存在証明だった。
「何を読んでいるの?」
僕が本を読んでいると彼女は決まってそう訊ねた。
「村上春樹」
「また? 面白いの?」
「相変わらず。少なくとも君が読む必要はない」
「じゃあ、どうして読んでいるの?」
「僕の方が彼より糞ったれだから」
彼女は困ったように、けれどもおかしくてたまらないというように口元を押さえて、少し前かがみになって笑った。彼女の歯は、後から歯茎の上に並べられたみたいに整っていて、さらに歯磨き粉のCMにでているモデルみたいに真っ白で、僕はそれが好きだった。だから、それを隠そうとする彼女の笑い方を僕は好きではなかった。逆に言えば、僕が彼女について好きでないところはそれくらいだった。
彼女と出会ったのは大学近くのカフェテリアだった。
僕は酸味の強いコーヒーを飲みながらラブクラフト全集の三巻を読んでいた。コーヒーと一緒に頼んでおいたサンドウィッチは気が付かないうちに倒れて、卵が皿に放り出されていた。
その日は大学でオープンキャンパスがあったのでカフェテリアは混雑していた。普段は客が僕一人のことも多いというのに。
雑然とした雰囲気に押しやられて隅に座り、騒音から逃げるためにイヤホンを着けてロックを聞いていた。以前誰かに勧められて、そのまま端末の中に残っていた曲だ。特にその曲に思い入れがあったわけでもない。簡便にアクセスできるツールの中で、外界と僕とを遮断するのにその曲がもっとも適していただけだ。
横目でカフェテリアの中を見渡すと、若木の匂いがした。彼らの多くは親か、あるいは友人たちと会話を楽しみながら、冷たい飲み物を飲んでいた。
熱い夏の日だった。
やはりその日も、彼女は水玉のワンピースを着ていた。彼女が現れたことで、店内の温度が一度か二度下がったような気がした。
彼女は人に溢れる店内を見渡し、そして僕が二人掛けの席を一人で使用していることに気が付いた。目が合うと、彼女は(口元を隠しながら)微笑み、僕と同じ席に座った。
我々は会釈をしあった。彼女はアイスコーヒーを注文した。僕はイヤホンを外した。喧騒の間を縫って「テイク・ファイブ」が聞こえてきた。ふと顔をあげると、彼女は僕のことを見ていた。
「なにか?」
「素敵な耳をしてるね」
「はあ?」
僕は思わずそんな声を上げた。初対面の人間から耳を褒められるのは初めての経験だった。
「君のワンピースも、素敵だと思うよ」
一応の礼儀として、僕は彼女の服を褒めた。本当は彼女の容姿を褒めるべきだったのかもしれない。しかし、ぱっと見ただけでは彼女のどこを褒めればいいのかがわからなかった。
醜い容姿をしているわけではなかった。むしろ整っていた。美しいや可愛いというよりは、可愛らしいと形容すべき顔だ。僕は一目で彼女のことを気に入った。
しかし、取り立てて一か所を褒めようとすると、どれもそうするのには適当ではないような気がした。
彼女は僕の言葉に嬉しそうに笑った。そのとき彼女は口元を隠さなかった。そこで初めて、僕は彼女の歯がとても美しいことに気が付いた。でもその時には、僕は彼女の歯を褒めるタイミングを失っていた。
「水玉模様が好きなの」と彼女は言った。「持っている服はほとんど水玉模様が入っている」
「よく似合ってる。初対面でこんなことを言うのは、何だかおかしいかもしれないけど。でも、君の雰囲気に合っている気がする」
「ありがとう」彼女は口元を隠した。
僕たちはすぐに仲良くなった。
彼女は社会学部の2年生だった。つまり学年的には僕の一つ下だったが、彼女は一年浪人をしていたので年齢は同じだった。
「私、人の耳を見るのが好きなの」
彼女は言った。すこしだけ、頬を赤らめながら。
僕は何だか、いけないものを見たような気がして目を逸らした。
「どうして?」
「耳ってね、人によって本当に違うのよ。面白いくらいに。きゅっと縮まっている人もいれば、大きく広がっている人もいる。可愛い耳もあればかっこいい耳もある。逆もまたしかり」
「きっかけは?」
「きっかけ?」
「そう。君が耳を好きになったきっかけ」
彼女は顎に手をあてて、考え始めた。グラスの中の氷が音を立てた。
「今は話せないかな」
「今は?」
「そう、なんでだろう。悪く思わないでね。あなただから駄目っていうわけじゃないの。なんていうか、……ううん、上手く言えない。ごめんなさい」
僕は気にしなくていいと言った。そしてコーヒーを一口飲んだ。氷はとっくに融けて、コーヒーはぬるくなっていた。日が暮れ始めていた。
「ねえ、また会わない?」
「もちろん」
僕たちは連絡先を交換し、別れた。彼女のSNSのアイコンは彼氏と二人で取った写真だった。
彼女が再び耳について話をしてくれたのは、出会ってから3か月ほど経った頃だった。
場所は僕の部屋だった。僕たちは二人で一つのベッドに入っていた。少しだけ開かれた彼女の口の中に一筋の月光が差し込み、歯を照らしていた。それはまるで月だった。均等に並んだ、それぞれ微妙に形の違う月だ。レコードプレーヤーからは「ライク・サムワン・イン・ラブ」が流れていた。
僕らはその日まで、よく一緒に過ごした。ダーツをしたり、ジャズを聞きに行ったり。
セックスをしたのはその日が初めてだった。
「初めて彼氏ができたのは中学生のときだった」と彼女は言った。それまでの話の流れはすこし理不尽に切られ、僕の中では出るはずだった言葉が手持ち無沙汰に浮いていた。
僕はすぐに、彼女が耳の話をしていることに気が付いた。
「私はサッカー部のマネージャーをしていて、私はそのサッカー部のキャプテンの男の子が好きだった。素敵な男の子だった。明るくて、元気で、運動神経抜群。あのくらいの歳の女の子が、みんなクラクラきちゃうような男の子」
わかる? と彼女は僕に訊ねた。僕はそれを想像した。
中学生の彼女はグラウンドを見ている。グラウンドでは少年たちがサッカーをしている。一人の少年がゴールを決める。彼の汗がきらきらと光りながら宙を舞う。
「同じクラスの女の子……ううん、それだけじゃない。みんなが彼のことを好きだった。学校中の女の子が彼に恋をしていた」
「他の男子が可哀想だね」
「そうね。でもそれは仕方のないことだった。彼はあまりに魅力的だった。生まれた時代が悪かったのね」
彼女はくすくすと笑った。
「みんな、色々な形で彼のことを褒めたわ。まるで、自分しか知らない彼の側面を知っていることを誇るように。それで何かが変わるわけじゃない。でも、それを話しているときだけは彼の一番になれた。他の人の知らない彼の側面を知っている優越感に浸ることができた」
「そして君は彼の耳が好きだった」
彼女は微笑んだ。「その通り」
「彼はほんとに素敵な耳をしていた。どちらかと言えば小ぶりな耳。でも少し開いているの。耳たぶは小さい。本当にきれいな形。私はすっかり彼の耳に夢中になった。でもそこからが問題だった」
彼女はそこで一度黙った。なぜだろう、と思うと、レコードが止まっていた。僕は立ち上がり、B面へと裏返した。
「ありがとう」と彼女は微笑んだ。
「私は、気が付いたら、彼ではなく彼の耳が好きになっていたの。不思議よね?」
「耳だけを?」
「そう。彼の耳ばかりを目で追っていたの。彼のことを考えると、彼の耳ばかりが目に入るようになった。他の部分はまったくぼやけてしまって、うまく認識できなくなった。目とか鼻とか口とか、もちろんそこにあることはわかるの。でも、具体的にどんな形をしているかわからない。最初は彼だけがそうだった。でも、どんどんと範囲は広がっていた。いつの間にか、男の人のことは耳の形でしか認識することができなくなった」
「お父さんも?」
「お父さんも」
彼女は肯いた。
「そんな風になったらね、もう耳しか見ることができないの。だから私は彼よりも耳の形が良い人と付き合うことになった。年下の、ぽっちゃりした子。友達には色々言われたわ。彼はかなり不細工だったらしい。でも私には彼の耳しか見えなかった。そして彼の耳はとてもチャーミングだった」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「生活上の不都合は一つもないのよ。だって、この世に同じ形の耳をした人なんて一人もいないから。他の人が髪や顔や体型でするように、私は耳で人を区別することができるの」
「女の人はどうなの? 耳だけしか見えない?」
「それが試したかったの。正直、自分でもよくわからない。耳を見ていることには見ている。でも耳だけしか見ていないかと言われるとそんなことはない。少なくとも、その子の顔が整っているかどうかくらいは分かるわ。だから、一度とっても素敵な耳をしている女の子と付き合ってみたいと思ったの」
「だから僕を誘った?」
「そう、あなたは私が今まで見た中で一番美しい耳をしてるわ。お世辞じゃなく、本当に。それに、とっても可愛いし」
彼女はそう言いながら、僕の耳を揉んだ。彼女の固い乳首が僕の肩に当たっていた。
僕は何も言えなかった。自分の顔を可愛いと思ったことは一度もないし、それが耳となればなおさらだ。たぶん来世になっても自分の耳を素敵だと思うことはないだろう。
彼女は春の日差しのように微笑んだ。やっぱり、彼女の歯はとても美しかった。
僕と彼女は半年ほど生活を共にした。
その後、彼女は突然消えた。聞くところによると大学を辞め、地元に帰ったそうだった。しかし、彼女の地元を知っている人間は一人もいなかった。
彼女は封筒に入った半年分の家賃と、一枚の水玉模様のワンピースを残していった。
僕はそのワンピースを壁にかけておき、眺めた。とりわけ強い月光が差し込むような夜に。そして彼女のことを思い出した。光る歯、大きさの違う月。水玉と月光。
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