最終話
それは月の赤い晩だった。
ニアはついに飛行機を完成させた。軽い試走もしてみたが、なんの問題もない。
「やっとだ。やっと......解放されるんだ」
ニアは涙を流した。
それは嬉し涙でもなく、悲しみの涙でもない。長年の積もり積もった感情が自然と発露したような、そんな衝動めいた涙だった。これでようやくあの両親の呪縛から逃れることができる。
出発は夜明けにしよう。新しい朝日で僕の門出を祝福
するんだ。向かう先は.....どこに行けばいいのだろう。考えていない。
ニアはふと、シェリーのことを思い出した。
この閉ざされた世界でひたむきに夢を描く少女。
あの子、この村をでたら世界を見て回りたいなんて言ってたっけ。やりたいことがあることは素直に羨ましい。でも、可哀想だが僕には彼女を村から出してやる気力はない。
できることはひとつだけ。
それはせめて、彼女に気付かれないように消えることだけだ。良い子だった。はぐれ者の僕にも分け隔てなく接してくれた唯一の人だった。
だからこそ、僕は彼女を忘れる。彼女を突き放す。
終わりのない孤独から卒業するために。
忘れれば、思い出さずに済むんだ。
ニアは深夜の尾根で夜空を見上げた。煌々と雪原を照らす星たちが、いつもより眩く思えた。
☆
その日の夜明けは猛烈な暴風雨だった。
朝日は完全に雲隠れしてしまっている。
出発の日に限ってこんな天気になるなんて。神はどうやら僕をこの村から出したくないようだ。ニアは拳を握った。
でも、出発は中止にしない。
もう決めたのだ。
この呪われた運命に抗うことを。
ニアは隠れ家の洞窟に向かい、飛行機に乗り込んだ。
ハッチを開け、少しの食料とナイフやランプをつめた鞄を押し込んだ。これで旅立ちの準備は整った。
操縦席に座り、手に持っていたリモコンのボタンを押す。
すると、暗い洞窟の天井が開き、灰色の空が一面に広がった。
ニアは空を見上げ、深呼吸した。
もうすぐ、もうすぐだ。
胸を高鳴らせ、エンジンを起動させる。
鼓膜が震えるような轟音を洞窟にこだまさせながら、小さな飛行機は見事に空へと舞い上がった。
ぐんぐんと高度を上げ、地面を遠ざけてゆく。
高度15メートルまであがると、もう村を見渡すことができた。何故だろう。嫌な記憶しかないのに、溢れるように涙が出てくる。
ダメだ。こんなんじゃ運命を断ち切れない。ニアは涙を拭い、気持ちを尖らせた
ずっと前から用意していたものがある。
僕はこの日、この瞬間にそれを使うことを待ちわびていた。僕の運命を断ち切るための剣。
ニアは機内の片隅にある、青いボタンを押した。
すると膝横の壁が開き、中から黒い塊が出てきた。
爆弾だった。
ニアは爆弾に触れ、過去に想いを馳せた。
十年前、なんらかの理由で世を儚んだ両親は、爆弾で村と外の世界の架け橋を破壊した。その時、彼らはなぜこの村ごと吹き飛ばさなかったのか。どうせテロを起こすなら、もっと被害の大きい村の中心でやればよかったのに。
村ごと消えていれば、僕がこんなに苦しむこともなかった。
僕は爆弾でこの忌まわしい故郷を空から吹っ飛ばす。その時初めて、ぼくはこの呪縛から解き放たれる気がする。
ニアは村の中心部上空へ向かった。そこから爆撃すれば、村全体が吹き飛ぶ算段だ。
見下ろす村は人通りが少ない。
雨風が強いから、当たり前といえば当たり前か。村人たちの断末魔を聞きたかったニアは、少し残念な気持ちになった。
まあいい。
全て消し飛ぶことに変わりはない。
ニアが上空でハッチを開け、震える手で爆弾を投げようとしたその時だった。
「シェリー......」
遥か地面で、大きく両手を振っているシェリーの姿がみえた。ニアは舌打ちをした。どうしてあいつは僕の邪魔ばかりするんだ。ニアは爆弾を置き、シェリーを見下ろした。
何か様子がおかしい。
泣いている?
ニアは飛行機の高度を下げ、耳を澄ました。
「ニア! ニアー! 遠くに雪崩がーー」
「雪崩?」
ニアは目を凝らし、辺りを見渡した。
すると、ちょうどニアの背後の方向から地響きのような音が聞こえた。まだ目視はできないが、この距離でも確かに聞こえる。その時点で尋常ではない激しさの雪崩であることはわかった。
ニアは動揺した。
このままでは自分が爆撃する前に、村が雪崩に飲み込まれてしまう。それじゃだめなんだ。僕の手で壊さなければ、僕が勝ったことにならない。
ニアは再び爆弾を手に取り、腕を振り上げた。
「お願い!助けて!」
涙まじりにシェリーが叫んだ。
その瞬間、ニアは無意識のうちに爆弾をポケットにしまい、飛行機を急降下させていた、
怒りと困惑と安堵。
三つの相反する感情が頭の中でこんがらがり、ニアの心をがんじ搦めにした。
飛行機が着地するや否や、シェリーが慌てて駆け寄ってきた。
「ニア、降りてきてくれてありがとう! お願い、私もーー」
「来るな! それ以上僕に近づくんじゃない!」
ニアは叫んだ。
自分で空から降りてきたくせに、口をついて出た言葉は彼女を突き放すような言葉だった。
泣きべそを書いたシェリーはそのあまりの形相に怯み、立ち止まった。
ニアは血が滲むほど唇を噛み、冷めた瞳を閉じた。
そして、痛みを堪えるように言葉の穂を継いだ。
「お前のせいで......お前のせいで僕は一人になりきれなかった。お前とさえ出会わなければ、僕は、今更こんな気持ちに......」
優しさはときに人を傷つける。
ニアは、シェリーの優しさのせいで煩悶していた。シェリーさえ現れなければ、今頃一人で燃え盛る村を見下ろして笑っていただろう。
そのほうが幸せだった。
結局人は、人なんかと関わるから傷つくことになるのだ。生まれてから死ぬまで孤独でいられたなら、人の心は傷つくことはないだろう。
ニアは本気でそう思った。
シェリーの白い頬に、一縷の涙が流れた。
涙の粒は大きくなり、やがて彼女の顔は悲しみの色に染まった。
そして、シェリーは涙交じりの声で呟いた。
「お兄ちゃん......いい加減目を覚ましてよ」
その言葉を耳にした刹那、ニアは脳の奥底に鋭い亀裂が入った気がした。
「お兄......ちゃん?」
「思い出してよ。私はニアの妹のシェリーだよ......」
「ははは......何を言ってるんだ。僕に家族なんかいるわけないだろ。まして妹なんて......」
「これをみて」
シェリーはコートの内ポケットから、皺になったひとひらの写真を取り出した。その写真には、仲睦まじそうな四人の家族の姿が映されていた。そこにいたのは顔も忘れていた両親と、紛れもなく幼い頃のニアの姿だった。
ニアは幼い小さな女の子と手を繋いでいた。
ニアはシェリーから写真をひったくると、穴が空くほど眺めた。
「これは......本当に僕なのか?」
「本当だよ。思い出した?」
「そ、そんな。だから君は僕に......? でも、どうして僕はそんな大事なことを覚えてないんだ」
「それは......ニアがおかしくなってたから。爆発に巻き込まれたショックで、錯乱したのよ。私、ぜんぶ死んだおじいちゃんに聞いたの」
爆発に巻き込まれた?
そんなはずはない。自分はあの日、家にいたんだ。どこかへ出かけた両親を、あの子と二人で待っていて。
あの子? 誰のことだ、それは。
ニアは逡巡し、頭を抱えた。
ふんわりと、柔らかな髪の感触を手の平に覚えている。
「お兄ちゃん」
「ああああああ!」
ニアの頭の中に様々な光景が錯綜した。轟音、悲鳴、泣き声、沈黙。
その光景の破片の中に、妹を寝かしつける自分がいた。そうか。僕はあの日、妹を寝かしつけて、そのあと両親に探しに山を見に行ったんだ。
そして、あの忌まわしい事件が起きた。
僕は目前で起きた出来事を受け止めることができなくて、自分を記憶の殻の中に閉じ込めた。そうして全てを忘れることで、現実から逃げだしたんだ。
ニアは目の前で震えている少女を見つめた。
幼いうちから知らない人の家の子になり、自分を忘れた兄が除け者にされるのを眺めるのは辛かっただろう。
どれだけの時間、深い孤独と戦っていたことか。
それでも、いつも元気な笑顔で接してくれた。
本当に孤独だったのは他の誰でもない。
シェリー。
自分の妹だったのに。
ニアはシェリーを強く抱きしめた。
「私のこと、思いだした?」
「......ああ」
真っ白な世界の中心で抱き合う兄妹。
迫り来る雪崩の足音が、遠くに聞こえた。
再会の時は長くは続いてくれないようだ。
ニアはシェリーを強引に抱き上げると、飛行機のハッチに押し込んだ。雪山で痛めた肘から血が噴き出した。
「ちょ、ちょっと。何してるの」
ニアは忙しなく腕を動かした。
古ぼけたコートの内ポケットから一枚の厚紙を取り出し、シェリーのコートのポケットに突っ込んだ。
「母さんの形見だ。君にあげる」
「ど、どういうこと? 私、一人で行くなんて嫌だよ」
「君は僕を孤独から救ってくれた。大切なものを思い出させてくれた。君には夢が、僕にはなかった生きる希望がある。僕の作った翼で、君は外の世界を自由に生きるんだ」
ニアは微笑んだ。
この飛行機は一人乗りだ。二人で乗ることはできない。無理やり妹にシートベルトを括り付けた。
「やめて! お兄ちゃんが残るなら私も残る!」
シェリーはもがき、叫んだ。
「大丈夫。僕は死なない。必ずまた会えるから」
じゃあね。
ニアは自動操縦ボタンを押し、ハッチを無理やり閉めた。
希望をのせた飛行機は小さな点になっていく。
ニアは遠ざかる銀の鳥を見送り、迫り来る雪崩を前にひとり微笑んだ。
どんなに傷つきたくなくても、人は一人になりたくない。どんな境遇で生まれても、辛い想いをしても、人としての心の鎖から逃げ出すことは叶わない。
それがこの世の摂理なんだ。
ニアはポケットから爆弾を取り出した。
今、あの日の全てを思いだした。
両親がなぜあんなことをしたのか。
この爆弾をうまく爆破させれば、地面に大きな穴が空く。そうすれば、雪崩を地底に流し込むことができ、村は救われる。それを実験しようとして、間違ってしまったんだ。
そうだろ? 父さん。母さん。
ニアは大きく振りかぶり、全身の力を振り絞って、迫り来る雪崩に爆弾をぶつけた。
爆炎と閃光が辺り一帯を包みこみ、大地に風穴を開けた。空気は震え、木々に留まっていた鳥たちは一斉に飛び立った。
眼下で起きる信じがたい光景を、シェリーは茫然自失の表情で見つめていた。
「そんな......」
狭い飛行機の中。
シェリーは力なくうな垂れた。
やっと思い出してくれたのに。私を抱きしめてくれる人を見つけたのに。
また、置いていかれた。
シェリーは泣いた。声をあげ、赤子のように泣き喚いた。
いつも諦めていた。だから笑っていた。
人は同じところに留まることができないから、だからみんな自分を置いていくのだと。
それは当たり前のことだから、全然寂しくないんだ。
東から太陽が昇り、西へと沈みゆくのと同じことだ。
そうやっていつも笑いとばすことで、シェリーは自分や周囲を騙していた。でも、それは全部強がりだった。
「寒い」
私も死んでしまおう。
今からなら、ニアに追いつけるかもしれない。ハッチを開け、飛び降りようとした瞬間だった。雲の隙間から太陽が覗き、一筋の光がシェリーを照らした。
見上げれば、空は青かった。
灰色の空は過去のものとなり、遠くには藍色の海が広がってみえた。閉ざされた村のすぐそばに、こんな景色があったなんて。
シェリーは涙を拭い、遥かな海に釘付けになった。
この海はどこまで広がっているのだろう。地平線の果てには何があるのだろう。
悲しみに覆われていた心に、ふつふつと好奇心が芽生え始めていた。
ーー僕の作った翼で、君は世界を自由に生きるんだ。
兄の最後の言葉。
わたし、強く生きなきゃ。
その時ふと、ポケットの中で何かがかさばるのを感じた。
震える手でゆっくりと取り出してみる。
それはひとひらの、忘れな草の押し花だった。
藍色はほんの少し色褪せ、時の流れを感じさせる。
ニアはお母さんの形見だなんていっていた。
シェリーはその押し花を眺めていると、裏に何か言葉が書いてあるのを見つけた。ところどころ丸く、決して上手いとは言えない筆跡で、こう書いてあった。
『私を忘れないで』
シェリーは押花を胸に抱き、いつも以上に明るい、太陽のような笑顔を浮かべた。
そして、こう呟いた。
「忘れないよ」
ありがとうございました。