二話
飛行機づくりを手伝いたい。
その言葉の通り、シェリーは翌日から本当にニアのところへ通ってくるようになった。周りの視線が気にならないのだろうか。そのことが気になり、彼女の事を気味悪くも思ったが、ちょうど一人で実行するのはリスクの高い作業もあったので、ニアは打算的にシェリーを受け入れた。
二人は夜の雪山にいた。
この山の中腹に飛行機のエネルギー源になる油を育む植物がある。冬でも咲くその花は、「忘れな草」と呼ばれている幻の花だ。寒さに滅法強く、奥深い山の雪原に、美しい藍色の花を咲かせる。
二人はその忘れな草を摘むために、冬の山を登っていた。雪の降る急斜面では目を開けるのも一苦労だ。
「ニアー! 寒いよー。本当に花なんてあるの?」
「本当だよ。もう少し。あと少しで青い花が見えるはず」
そこは知る人ぞ知る秘境だった。
寒い冬に咲く花なんて嘘みたいだ。でも、それは紛れもなく真実だった。
ニアはコートの内側に手を入れた。そこには藍色の花の押し花が縫い込まれていた。
人は皆嘘つきだが、真実が嘘をつくことはない。
何時間か気合いを入れて登り続けると、凍える風に乗ってかすかに花の香りがした
「もうすぐだ!」
ニアは思わず声をあげた。
しかし、その反動でニアは足を滑らせて体の右側から転んでしまった。幸い、木の棒を杖代わりに持っていたおかげで、斜面から滑落することはなかった。しかし安心したのも束の間、ニアは苦しげに呻いた。
着地した時についた右腕が痛い。
骨が割れたかもしれない。ニアは腕を抑えながら、うずくまった。
「大丈夫!?」
シェリーは手に持っていた杖を放り投げ、ニアに駆け寄った。その刹那だった。
「え? うそ」
シェリーは斜面の上でバランスを失い、背中から倒れこみそうになった。落ちれば何十メートルも下まで急転直下。ただではすまない。
シェリーはバランスを取り戻そうと鳥のように必死にはばたいたが、無情にも転倒してしまった。
ニアは息を呑んだ。
このままいけば、シェリーは落ちてゆく。
その時、悪魔がニアに囁いた。
ここでシェリーを見殺しにすれば、飛行機の存在は再び自分だけの秘密になる。彼女に付きまとわれることもなくなり、一人に戻れる。何も波風が立つ恐れがない。
どうせ彼女もいつか僕を裏切るに違いない。
それならいっそ、ここで......。
「助けて! ニア!」
シェリーが叫んだ。
ニアはその叫びを聞くと咄嗟に杖を持ち直し、滑り台のようにして斜面を滑った。そして、雪を切り裂く音と共にシェリーを追い抜き、杖を地面につきさした。
ちょうどニアがハンモックになるような形で、滑りゆくシェリーを受け止めていた。
頭より先に体が動いていた。
「あ、ありがとう。死ぬかと思ったよ......」
なんで助けた?
せっかく自分の手を汚さずに彼女を消すチャンスだったのに。ニアは自問自答した。腕の中のシェリーは、すっかり安心したような顔をしている。
目をそらし、ズキズキと痛む肘を抑える。自分でもよくわからない感情が、頭の中を搔きまわしている。
それはまるで、僕の知らない僕が暴れているようだった。
......まあいい。とにかく早く花を摘みに行こう。
二人は斜面を超えると、ついに忘れな草の群生地にたどりついた。月明かりに照らされ、青い花々は後光がさしたように光り輝いている。
「すごい......冬に咲く花なんて、初めてみた」
シェリーはまるで神でも見たかのように感激している。ニアは次から次へと機械的に花を摘み取り、皮の鞄に入れていった。この花を絞ると、飛行機の動力源に使える油が取れるのだ。
「ニア。みてみて!」
シェリーは手に小さな花の輪を持っていた。
笑いながら、それをティアラのように頭に飾ると、シェリーは嬉しそうに笑った。
その姿が、わずかに記憶に残された母親の姿に重なった。
忘れな草はもともと、母親が好きな花だった。
ニアの頭の中に、朧げな母親の声がよみがえる。
あれは、確か10回目の誕生日だ。
母は僕に忘れな草の押し花をプレゼントしてくれた。
ーーニア。花言葉って知ってる?
ーーはなことば? 知らないなあ。
ーー想いを花になぞらえて言葉にしたもののことよ。
ーーふーん。変なの。そんなの直接言えばいいのに。
ーー世の中にはね、言葉では伝えられない想いがあるのよ。
ーーよくわかんないよ。じゃあ、この青い花にも花言葉があるの?
ーーもちろん。忘れな草にはね、特に素敵な花言葉があるのよ。
ーー本当に? 教えて教えて!
ーーふふん。いいよ。忘れな草の花言葉はねーー。
そう言うと、母は押し花の裏に花言葉を書いてくれた。
僕をこの世界で唯一愛してくれた母親。
僕に犯罪者の息子の汚名を着せ、突如消えた母親。
その顔を思い出すたび、憎しみと喪失感が渦を巻く。
忘れたい。記憶から消し去りたい。
衝動的に、ニアは花々を蹴散らしていた。
月夜の下、宙を舞う花びらは青い雪の結晶のようだ。散らしても散らしても、舞う花びらが尽きることはなかった。それは振り払おうとすればますます強くなってゆく寂しさを嘲笑うかのようで、ニアをいっそう激昂させた。
「やめて!」
シェリーはニアにしがみついた。
その時、ニアはようやく正気を取り戻した。
「花が可哀想だよ」
「ごめん」
ニアは申し訳なさそうに俯いた。
シェリーは労わるような表情をしている。
顔を見れずにいると、ニアは頭にささやかな感触を感じた。ためらいながらも触れてみると、それは忘れな草の小さな花飾りだった。
「あげる」
シェリーは無邪気に笑った。
ニアは花飾りを手に取ってみた。
彼女が器用というのは嘘じゃなかったみたいだ。
「これ、いっぱい作って村の人たちに売ったら儲かりそうじゃない?」
「......いいかもね」
ニアはふきだした。
その時、思わずはっとした。
まだ僕も、こんなに自然に笑えたんだ。
☆
村に戻ると、夜明けが近づいていた。
夜の登山で疲れ果てたシェリーは途中で眠くなってしまい、ニアがおぶって帰った。その途中でも痛めた腕は疼き、気がつけば饅頭のように腫れていた。
とつ、とつ、とつ。
シェリーを降ろし、家の軒先で腕を雪で冷やしていると、闇の中から物音が聞こえた。誰かの足音だ。
「なぜお前がシェリーと一緒にいる」
太くこもった声が響いた。視力の悪いニアは目を細めた。どうやら相手は一人ではなく、複数人いるようだった。
「......」
「どういうつもりだ? ニア」
「別にどうもないです。この子が勝手に付きまとってくるだけですよ」
ニアは穏やかな声音で言った。彼らと話す時、いつも平静を装おうと努めている。そうでないと、崩れ落ちてしまいそうになるから。
「その子に何かするつもりじゃないだろうな」
「別に何もしないですよ」
「そんな言葉は信じられない。何故ならお前はーー」
「わかってるよ!」
ニアは声を荒げた。
もう、その先の言葉は聞き飽きた。
「......わかっているならいい。だが、忠告しておこう。シェリーには近づくな。シェリーのためだけじゃない。お前自身も後悔することになるぞ」
威圧的に言い残すと、顔の見えない村人たちは去っていった。ニアは古びた家の壁を力任せに蹴飛ばし、星のように流れる涙を袖で殴った。
だから言ったじゃないか。
この村にいるかぎり、僕は永遠にひとりぼっちじゃないとダメなんだ。誰かと一緒にいることなんて、ほんの少しでも期待しちゃいけない。どんな形であれ、誰かと関わりを持てばそれはやがて痛みを意味する。僕に罪はない。でも、僕は贖わなければならない。
この村から飛び立つ日まで。
ニアは眠るシェリーを揺り起こそうとした。
その時だった。
「おかえりなさい......」
シェリーが呟いた。
どうやら寝言を呟いているらしい。
彼女の夢の中では、きっとまだ心優しい祖父が生きているのだろう。
ニアは起こそうとした手を止めた。
シェリーをもう一度背負い、家に入れるとベッドに寝かせた。その寝顔が憎らしく思えた。彼女が僕に構わなければ、こんな想いせずに済んだのに。僕はある意味彼女の優しさに傷つけられたのだ。
......なのに、何故僕は彼女を介抱しているのだろう。
自分でもよくわからない。
ニアは沈んだ顔でシェリーを見つめると、すがるように深い眠りについた。
☆
翌日、目覚めると爽やかな朝が訪れていた。こんなにすがすがしい朝が来るのはいつぶりだろうと考えてしまうくらい心地良い目覚めだ。その理由はすぐに判明した。
ニアは起き上がり、すっと息を吸い込んだ。
香ばしい香りがする。
「......おはよう」
「あ! おはよう。ニア、昨日はありがとう。私、道の途中で寝ちゃったんだよね。お礼に朝ご飯つくるよ!」
シェリーは慣れた手つきで卵を割った。
「あ、ああ。助かるよ。それはいいんだけど、大事な話があるんだ」
「大事な話? なあに?」
シェリーは鍋をかき混ぜながら、忙しそうに言った。
「今日、約束通り君を飛行機に乗せてあげる。でも、その後はもう僕に関わらないでほしい」
ニアはそう言うと、大げさに顔を綻ばせた。
似合わない作り笑顔がどれだけ白々しくて気持ち悪いものか自分でもよく理解していた。
「......また村の人に何か言われたの?」
「いや、そうじゃないよ」
「嘘だ。顔に書いてある」
「君に俺の何がわかる」
ニアは突き放すように言った。
しかし、シェリーは少しも怯んだ様子がなく、むしろ強気な表情を見せた。
「村の人に何か言われたなら私が怒っておくから。だからもう、自分を悲しませるようなことは言わないで」
そのセリフにニアは恐怖を覚えた。
どうやらこの子は本気で僕のことを想っているようだ。
自分が傷つくのは構わない。元々ずっと一人だったのだから、今さら戻ったところでなんとも思わない。でも、もしシェリーが村の人を敵に回すようなことがあれば、彼女はきっと傷付くことになるだろう。
だとしたら、それは僕の罪になる。
太陽のように明るいシェリーの顔が自分のせいで悲しみに染まるのを想像して、ニアは肝を冷やした。
「余計なことはしなくていいよ」
ニアはその一言だけ言うと、それ以上シェリーに何かを言うことはしなかった。昨日痛めた肘を洗い流し、いつも通り底抜けに明るいシェリーと朝食をとった。
......美味くはない。
☆
夕方、二人は黄昏時の尾根にいた
ニアは基本的に、日が暮れはじめてからしか外出しない。人が嫌いだし、太陽も苦手だった。眩しすぎる存在に見下ろされているようで自分が惨めになるのだ。
「ここに飛行機を隠しているんだ」
ニアは岩壁の一点を叩いた。すると不思議なことに、岩壁がぱっくりと割れ、中へと続く通路が現れた。シェリーは二重の瞳を星のように瞬かせた。
「魔法使いみたい」
飛行機を作れることといい、ニアは紛れもなく天才に違いない。こんな天才を除け者にするなんて、村は相当もったいないことをしている。
シェリーはそう思った。
ニアに導かれるままに中へ入ると、すぐに銀のメタリックボディが視界に入った。高さは身体の一.五倍くらいで、そんなに大きくはない。ガラスの向こうに見える座席はひとつしかない。一人乗りのようだ。
シェリーは少し残念な気持ちになった。
ニアはドアを開け、シェリーの手をとった。
「操縦席に座らせてあげる」
ニアに手を引かれ、操縦席に腰掛ける。椅子は固くあまり座り心地がいいとは言えない。しかし中は意外と広々としていて、かろうじて寛げるくらいのスペースはあった。
黒いハンドルの横に、いくつかボタンがある。
シェリーは無意識に赤いボタンに手を伸ばした。
「それ押したら爆発するよ」
「へ!?」
シェリーは慌てて腕を引っ込めた。
「冗談だよ」
シェリーは膨れ面でニアの腕をひっぱたいた。
その時、ニアが珍しく満面の笑みを浮かべているのをみて、シェリーは舞い上がるような気持ちになった。この人、こんな明るい顔もできるんだ。いつもこうしていたらいいのに。
シェリーが目を丸くしていると、ニアがボタンの説明をしてくれた。
「その赤いボタンはエンジンの起動ボタン。このハンドルは舵取り。上下移動と水平移動で分かれてるんだよ。少しの距離なら、自動操縦もできる」
「へえ。よくわかんないけど難しそう。それじゃあ、この青いボタンは何?」
シェリーがたずねると、ニアは一瞬だけ表情を強張らせた気がした。しかし、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
「......それは緊急用の脱出ボタンだよ。押すとハッチが上がって、パラシュートで降りれるようになるんだ」
「あー、そういうこと? 凄いね。ちゃんと安全も考えてあるんだ」
シェリーは鋼鉄の機体を撫でた。この鉄の塊が皿を飛翔するなんて信じられない。夢みたいだ。
少女は鈴のような声で、こんなことを言った。
「私ね。夢があるんだ」
「夢?」
「うん。私ね、いつかこの村を出て、世界中を見て回りたいの。大きな海や、広大な砂漠、空に届く摩天楼。全部本の中でしか見たことないから、この目で見てみたい」
散文詩を読むように、連綿と連なった言葉はニアの心に浸透した。彼女の持つ夢は奇しくもニアの夢と似ていた。ただ、村を飛び出したいと願う原動力が違う。
とにかく村を出たい。
ニアにあるのはその一心だけだった。ニアは羨望と憐れみの目でシェリーを見つめた。彼女のようにずっと明るくいられたなら、きっと人生は輝くだろう。
でもそれは所詮、執行猶予付きの幸福に過ぎない。
彼女は狭い揺りかごで夢見てる赤子と同じだ。
シェリーには飛行機は作れない。外に出るための道が再び開かれるには、まだまだ多くの年月が必要だろう。その間も彼女は夢を描き続けていられるだろうか。
僕なら叶えてあげられる。でも、それには僕の精神力が足りない。だから、せめて束の間の幻だけでも見せてあげよう。ニアは無邪気に笑うシェリーの横顔を見つめた。
シェリーは飽きることなく夢を語り、操縦の真似事をし続けた。
さあ、もう夢見る時間は終わりだ。
「シェリー。そろそろ終わろう。あんまり外が暗くなるとまた転ぶから」
「えー? もう終わり? まだ飛んでないじゃん」
「まだ完成してないっていったろ。さあ、僕はこれから作業をするから、君は先に帰って」
「はーい......」
意外にもシェリーは聞き分けがよかった。残念そうな顔をしつつも、すぐに操縦席を降りてくれた。
「シェリー。約束した通り、もう僕には関わらないでーー」
「楽しかった!」
シェリーはニアの言葉など聞こえていないかのように、陽気な笑い声をあげた。そして、足早にニアの横を通り抜けた。
遠ざかる少女の後ろ姿を、ニアは逡巡したような顔で見つめていた。
途中、シェリーは振り返った。
そして、手をはためかせながら、こう言った。
「また会いに来るからね。今度はちゃんと空に連れてって」
ぽつり。
残されたニアは一人立ち尽くし、誰もいない虚空を見
つめていた。
続く