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満月日和  作者: 海月 星
第2章 直立不動の真実
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敵と味方

 たった一瞬を引き伸ばされたかのように景色が停止し、色という色が無へと還る。

 男の上がった口角も、目を見開き焦るエリニスの顔も。全てルイの瞳には写っていた。

 けれども手先は少しだって動かない。“わかってる”だけじゃ動けない。

 腕が振り下ろされる。──わかってる。

 鋭い爪が心臓を狙う。──わかってる。

 エリニスでは間に合わない。──わかってる。

 自分は、死なない。──わかってる。

 わかってる。けど──

 ──刹那。

 体に重力が倍以上のしかかったように重くなる。視界が半端暗くなり、意識が飛びそうになるのをなんとか引きとどめた。

 霧状の闇に包まれているような感覚。緊張感を掻き毟り、不快感が心臓を鷲掴みにする。

 吐き気にも似た嫌悪が脳の隅から隅まで行き渡りながらも明瞭に意識だけは健在だ。

 薄暗くなった視界の中、男が目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。

 不可思議な力に従わされるように口をゆっくりと開き、


「──僕のユヅキに触るな」

「っ──ほう…」


 男の動きが止まる。

 体の重みが嘘のようになくなり、視界が正常に機能する。詰まっていた息を吐き出せば、ルイの体は後方に投げ飛ばされた。

 エリニスだ。


「走れガキっ!」


 真っ赤な瞳を向けられルイは黒夢の微睡みから本格的に覚醒する。

 まだ感覚の鈍い手先は無視して、ルイはエリニスの言う通りに背を向けて走り出した。

 何が何だかわからない。

 急に視界が暗くなるわ、体は重くなるわでもう頭がこんがらがっている。何かを口にしていたような気がするが、それがなんだかルイにはわからない。

 不可視の何かに乗っ取られるような、或いは意趣遺恨な誰かに追い出されたような。そんな感覚。

 抗う事は頭になく、けれども吐き気がするほど嫌悪する。

 居心地が悪いなんてもんじゃない。最悪だ。

 もう二度とあんな微睡みに触れたくなどない。けれど、そのおかげで助かったのも事実である。

 あの時自分が何を言ったのか、どんな表情を浮かべていたのかもわからない。わからないが、あの時男が動作を止めたのは確かだった。

 確実に届かないエリニスの手を届かせたのは、あの悪夢にも似た微睡みだ。

 “あれ”がなにをしたかったのか。理解は到底及ばず、ただ前へ前へと足を進める事しか出来ずにいる。

 川と、地面と、森林と。真っ直ぐ伸びた一本道は進めど進めど特別な変化は見られない。同じところを回っているだけなんじゃないかと錯覚さえする。

 木々の中に逃げ込んだとしても男にはなんの死角にもならないだろう。寧ろ自分の足場が悪く死角も多くなる。それならば馬鹿みたいに真っ直ぐ走った方が賢明だと判断したまでだ。

 息が切れ、後方から伝わる振動が罪悪感を震わせる。

 置いていった事への罪悪感。逃げ出した事への罪悪感。そして、助けなくて当然だと一瞬でも考えた事への罪悪感。


 ──『人間は慈愛があるとか、仲間意識が強いとかは聞くが。仲間でなければいとも簡単に見捨てられるとは悲しいねえ』


 先程、男が言った言葉だ。

 ああその通りさ。人間はいつだってそんなもんさ。

 リネアだって“仲間”だからユヅキを助けた。“仲間”じゃないからセツナに刃を向けた。

 それのどこが悪い。どこが悪いって言うんだ。

 この世は“仲間”の対は“敵”じゃない。“敵”の対も“仲間”じゃない。

 仲間じゃなくとも守らなければならないものがある。敵だとしても手を取り合わなければならない時がある。

 リネアがセツナを村人から遠ざけたように。セツナがルイの剣になったように。

 守りたかったから守った。手放したかったのに、今後の為に手放せなかった。

 守りたいから。殺したい。助けたいから。呪いたいから。

 結局、根本のところは単純で。けれども状況が複雑で。

 友人を守りたい。家族を守りたい。恋人を守りたい。親戚を。隣人を。村人を。国中を。

 ──そして、自分を。

 “大切なもの”と“大切でないもの”を分けなければ、ちっぽけな人間には手が届かない。

 分け隔てなく、全てを助ける正義のヒーローなんてものには到底なれないのだから。


「ぃ──っ!?」

「──逃げれるとでも思ったのか?」


 腰に強い衝撃を感じ、転げ落ちるように地面へと衝突する。どれくらい走ったのか、目の前に道は続いておらず、地面が切り落とされているようだった。

 蹴られたと理解する前に、男は足でルイを反転する。視界いっぱいに広がる青空を背景に佇む男の端正な顔に、ほんの少しの擦り傷が見られた。

 すると男はルイの襟首を容赦なしに掴かんだ。


「やめっ…!?」

「まぁ暴れるな。暴れた方が苦しいぞ?」


 男はそのまま体を持ち上げ一歩、一歩と崖の前まで歩み寄る。

 首に自分の全体重がのしかかり、暴れようが暴れまいが締め付けられる事には変わりない。

 生理的な涙が瞳に浮かび、酸素が脳に行き届かなくなる。


「っはぁ…!」


 首が閉められて苦しい。だけじゃない。

 この男が手を離せばルイは崖から落ちる。チラリと下を見ると、そこには打ち所が良い悪い関係なく落ちた末路はたった一つだとわかる。

 ただ一直線に落ちて行く滝のように。下に待つ水面に打ちのめされて。

 約五十メートルの高さから水面に落ちると、水面はコンクリートに匹敵する衝撃を与えるのだとどこかで聞いた。それを試すほど勇敢でも馬鹿でもないが、この高さは危険だと脳に警報が行き渡る。

 窒息死か、内臓損傷での死か。

 死なないとわかっていても“死なない”だけで痛みも恐怖もある。もとよりルイの“死なない”とは、死んだ時“生き返る”のか、“再生”するのか、はたまた“再構築”するのか。

 生き返るにはどれほどの時間がかかる? 再生するのにはどれほどの痛みが伴う? 再構築にはどれほどの犠牲が必要? 死んで、目覚めて、もう残りの時間が数日だったら? そもそも、死なない事に上限はないのか?

 考えなければならない事。知らない事。多すぎる。

 怖いと叫びたい。

 助けてと喚きたい。

 それを、自分が許さない。小さな意地が、“ユヅキ”が嫌いにならない自分であろうとした“覚悟”が。

 ルイの強がりを保っていた。


「さぁ終わりだ、仮面の人間。何か言い残す事は?」


 男の問いかけが鼓膜を振動させる。

 優しそうに微笑む男はこの場では場違いだ。どうして今そんな顔をできるのか、ルイには到底理解できない。

 理解できない化け物がルイを見ている。圧倒的な相手が自分の首に手をかけている。


 どうして──?


 どうして? 怖い。嫌だ。死ぬかもしれない。やだ。逃げたい。助かりたい。

 感情が、思考が、信念が、覚悟が。大きな鍋の中で混ぜ合わされていく。

 ぐちゃぐちゃに。どろどろに。跡形もなく。溶け込むように。何もかも、何もかもがごっちゃになって。

 ──あぁ、どうでもいいやなんて。


「人間の悲鳴は嫌いでね。大丈夫。死に損なったらちやんととどめを刺そう」

「ぅっくぁ…はっ…!」


 男の腕を掴み、気持ちだけでも首の束縛を軽減させようと体重を支える。

 微笑む男の瞳に慈愛は少しだってありもせず、ただ目の前の害虫をやっと殺せるという安堵だけだった。

 本当に男は人間が嫌いなのだ。骨の髄まで嫌悪する対象であると。

 仮面を付けていてよかった。男とは目が合っているようで合っていない。真っ暗闇の仮面の向こうにある、ルイの瞳がどこを向いているのか認識できずにいる。

 その嫌悪に、その瞳に、ルイは──


「ふっ、はは…」

「ん?」


 男がきょとんと首をかしげる。その表情が年より若く、少年のように見えて、どこか可笑しくなった。

 自分は死なない。死なない。死なない。死なない。

 そう。死なない。

 守りたい人もいない。生き抜きたい理由がない。弱みになるものもない。

 一人だと。自分は一人ぼっちだと、それでもいいと言ったじゃないか。思ったではないか。

 そうだ。そうだ、そうだそうだ!

 自分は一人で、味方はいなくて、失うものなどもう何もなくて。

 なら、ならならならならならならならならならならならならならならならなら──!


 ──何をしたっていいじゃないか。


「なん、でっ…きら、いなら…ころ、せ、ばいい、のにっ!賭け、に、するひ、つよう…ないっ、だろ!」

「被虐体質の持ち主という事か。気味が悪い」


 男は呆れたように首を振れば、それにつられて青い髪がさらさらと揺れる。

 自分で自分が何を言っているかわからなくなった。

 まるで自分を殺せとでも言うような言葉。挑発にも似たそれは、捉える人が違ければ既にルイは崖から落ちているだろう。

 狂い出したのか。否、もう狂っているのか。

 ルイは自覚した。

 たった今、自分は口角を上げているのだと。

 乾いた笑みが静かに響く。


「それ、じゃ…まるで、エリニ、スって、奴に…ハっ…嫌わ、れたい、み」


 そこまで言って男の掌に力が込められる。

 あまりの力強さに顔が歪む。口からは涎が流れるが拭う事は叶わない。

 男は苦しむルイをよそに、動向の開いた目で首を傾げた。


「で?それでなんだ?それだからなんだ?それだったらなんだ?意味のない言葉を紡いで一体何になる?」


 段々と込められる力が増し、苦しみと失心の狭間で男の声が揺れる。

 どんな感情を向けられているのか、何を想っているのかまるでわからない。わからないまま、男の声は鼓膜を振動させた。


「無駄だ無意味だ無価値だ無益だ馬鹿だ馬鹿げてる生きてる意味など到底存在しない。それがお前だ、それがお前達人間だ!」


 熱を持ち始める言葉の数々。

 肯定することも否定することも求めていないただの叫び。純粋な、想い。


「這い蹲って足掻いて無様に生きて迷惑しかかけられない愚弄者が!汚い穢らわしい汚れてる腐ってる!人間なんてそんなもんだ。そんなもんだろう!?なぁ!?」


 否定は、できない。

 ああ、まさしく自分だと。それが自分であると、ルイは思う。

 死にたくないと願って、願い続けて。その先に見たものは死ねないという絶望。四年後には全て終わるという恐怖と安堵。

 終わりたくない、とは思えない。

 やはりルイの内には“生きたい”ではなく“死にたくない”しか芽生えないらしい。終わることに恐怖はあるが、反対に終わりが見えているという安堵を覚えている矛盾。

 這い蹲って無様に生き足掻いて、誰かに迷惑しかかけられなかった自分を。

 ──リネアはどうして助けたのだろう。


「嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ!お前達が嫌いだ!人間が嫌いだ!無駄な事しかしないお前らが、貧弱で生まれた時から負けが決まったお前らが!大っ嫌いだ!」


 口から泡が溢れ、とうとう意識が混濁の中へ迷い込む。

 手足の感覚はなくなり、力が零れ落ちるように消え去っていく。

 視界いっぱいに広がる青空が、やけに澄み渡っていた。


「──憎悪に蝕まれて消えろ、紛い物」


 解放される束縛。

 宙に踊らされた体。

 風が背中から前へと突き進み、白昼夢の微睡みへと意識が上昇されていく。

 何もかも、白に染め上げられた感覚の中。

 ──誰かが手を掴み、抱きしめてくれたような気がした。

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