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満月日和  作者: 海月 星
第2章 直立不動の真実
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守ってみろよ

「──おぉ!これはこれは人間如きがこんな所にいるとは思いもよらなかったな」


 ──木々の隙間から現れたのは一人の男だった。

 青色の髪は短髪で、頬には鎖に似た模様が描かれた端正な顔立ち。尖った耳には赤いひし形のピアスが垂れ下がっており、太陽の光を反射させていた。

 黒いコートは足元に付きそうなほど長く、清潔感のある軍人じみた服装はその男の含み笑みには似つかわしくない。ヒールのブーツは足場の悪い山奥では不向きだが、その雰囲気すら感じさせない“威圧感”に似た何を、目の前の男は持っていた。


 男の言う“人間”と言うのはもちろんルイの事だ。

 ルイの上に乗る“何か”に目を向ければ嫌でもその正体を察する事が出来た。

 男と同じ色の髪から見える尖った耳に、ルイの心臓は引き絞られるかのような錯覚に陥る。

 くたびれた黒いコートの下は血のにじむ白いシャツ。足首の締まったズボンは所々破けており、隙間から見える肌は包帯で巻かれていた。

 見るからに芳しくない状況に、けれどもルイの上に乗る魔獣はふらつきながら立ち上がると、目の前の男に敵意を表す。

 背を向けられている故に相手の容姿は見る事が叶わなかったが、その背中は何かを、誰かを背負うには十分の大きさに見えた。


 まるでルイを庇うような形で男の前に立って居るが、決してそんな嬉しい展開ではない事を理解してほしい。青年はルイの事など眼中にないのだ。

 少女漫画展開のように「私のために争わないで!」と、涙を流して叫べる雰囲気はない。そもそも声を発することすら許されぬだろう。

 現に後から現れた男もまた、ルイから視線を外して青年に目を向けているのだから。


「健気だなぁ。お前はいつでも健気だよ、エリニス。俺がお前を殺せない事を良いようにして、何度も地に伏せては何度も立ち向かうなんて泣かせるじゃあないか」


 男が、エリニスと呼ばれた青年に向かって皮肉げに「可哀想に」と付け足して笑う。

 ルイの位置からエリニスという青年の表情は見えない。

 けれども酷く嫌悪していることだけはひしひしと肌へ伝わった。

 言葉すら交わしたくない様な嫌悪感。自身に向けられていないとわかっていても背筋が伸びてしまうような圧迫。

 心臓に手をかけられている様な、一呼吸の内にいつでも命を摘み取られる様な、圧倒的格差。

 ルイは痛む身体を無視して、この場をどう離脱するかに頭を回転させた。


「…くそみてぇな同情はいらねぇんだよ、屑が」

「恩知らずのお前が言えたことではないだろう?」

「っ──!」


 急激に膨らむ殺意。

 張り詰める空気がエリニスの怒声によって弾かれた。


「──ラヴェイィィィィィィ!!」


 その場を飛び出したエリニスは瞬く間に男の目の前に飛びかかると、尖った爪を振り下ろす。

 ほんの少しの動作でそれを避ける男に間髪入れず回し蹴りを入れるが、それはいとも簡単に受け止められてしまった。

 足を掴まれたエリニスはそれを軸にして体を反転させる。

 勢いよく放たれた蹴りは、しかし当たる事なく体を投げられてしまった。


 一部始終を見て居たルイだが、その大半は目ですら追えぬ速さだ。

 エリニスが呻き、男は口角を上げる。嘲笑うかのように、哀れむように。

 口から吐き出された血液を拭い、エリニスは再び立ち上がる。確かに、この姿は健気だ。

 何度捨てられようとも、何度手放されようとも。何度だってその手を伸ばす健気な子犬。

 鋭き瞳は狂犬のよう。けれどもその本質はただ純粋な想いだけ。

 その姿に男は何を思ったのか、ふと、柔らかな笑みを浮かべた。


「──…羨ましいなぁ」


 かすかに届いた羨望の声。

 優しく、慈愛のこもった視線を向けられているエリニスには、届かなかったようだった。

 緊張感が緩和され、ルイは静かにその身を起こす。

 右は川の上流。再びあのロリババなる子の所へ行くか。

 否、もしそのまま戦闘に陥ったら勝ち目はないだろう。彼女はそれほど戦闘要員ではなさそうだ。人間より身体能力が上なのは前提として、それでも彼女が戦闘を好んでする魔獣には思えなかった。

 しかし下流に何か助けを求める事の出来る機関があるかは賭けだ。何もないかもしれないし、むしろ魔獣がいるかもしれない。

 故にルイの選択は──


「っ…!」


 地面を思いっきり蹴る。

 ルイから見て左側──川の下流へと全速力で駆け抜ける。

 ちらりと見た後方で、エリニスは変わらず男を見据えている。

 だが。

 男の赤い双眼は、ルイの姿を捉えて居た。


「こちらとしては別段逃げられても構わないけど。──うろちょろされんのは腹立つなあ?」


 突き刺すような殺意に全身が危険信号を出す。

 どっと出る汗。息すら許さぬ空気。

 心臓の音が遠く感じ、体の感覚すらどこかへ飛び散ったかのように──


『──剣を抜け』

「っ──ぁ!?」


 見知った声に全身が打ちひしがれるような感覚に陥る。そのおかげか、心臓の音がゆっくりと、そして力強く感じられる。

 本能的な危機探知にルイは握りしめて居た柄を引き抜き、体を反転させるように弧を描いた。

 甲高い音と共に強い衝撃を感じ、ルイは成すすべなく後方へ押し出される。何が起こったのかすら理解できぬまま、その体に泥をつけた。


「本能的な勘か、あるいはまぐれ。運が悪かったなあ?避けなければ死ねたものを」


 勢いが収まり、地面から顔を上げると、そこにはルイを虫けらのように見下す男の姿があった。

 左手を持ち上げている姿勢から、ルイの剣と男の爪が激突したのだろう。衝撃はそれ故だ。

 声の主に色々問い合わせたいのを無視して、目の前の厄災に意識を集中した。


「人間は慈愛があるとか、仲間意識が強いとかは聞くが。仲間でなければいとも簡単に見捨てられるとは悲しいねえ」

「っ…あの場にあたしが居たって、なんの助けにもならなかったと思うけど…?」

「それもそうだ。人間がこの場にいるだけでも場違いなんだからな」


 見下す男の瞳は、決してルイという一人の人間を見ていなかった。

 古典的な魔獣だと思った。

 人間は弱小故に哀れな生き物。敵対すべき弱者。

 抗い続ける姿は滑稽で、不毛を繰り返す哀れな短命。

 故に人間を嫌う魔獣は殆どだ。

 哀れで無様で不毛で無様で滑稽で唾棄で空虚で惨めで、けれども貪欲で無慈悲で弱者で臆病で無価値で死に急ぐ生き物だと。

 例えるなら小蝿だ。

 勝手に家に住み着いて、生ゴミの周りをうろちょろうろちょろ。

 視界に入れば右へ左へ。鬱陶しさに叩き潰した者が殆どだろう。

 彼らにとって、魔獣にとって人間とは鬱陶しい小蝿に過ぎないのだ。

 叩き潰して当然。握り潰して当然。そこにある感情は罪悪感や悲痛ではなく、ただの鬱陶しさだけ。

 視界に入るだけで、生きているだけで苛立ちを覚えられる。それが人間だ。

 そうでない魔獣も勿論いる。

 セツやセツナ。名も知らぬロリババだってその一人だ。

 故に目の前にいる男はいかにも“魔獣らしい魔獣”なのであった。

 男は心底つまらなそうにため息を吐く。


「…俺は最近運というものに見放されてるのかもしれないなあ」


 ──瞬間、男の後頭部めがけて爪が振り下ろされる。


 しかし男は目を向けることすらせず、相手の手首を掴むと、背負い投げのようにソレを投げ飛ばした。

 ルイの後方に投げ飛ばされたソレ、エリニスが土煙を上げながら地面の上を転る様子をただみる事しかできない自分に、無力さではなく焦りを感じていた。

 エリニスと男の関係は理解できない。ルイはこの戦いは巻き込まれただけだ。なら、逃げても良いはずだ。

 無駄な戦いは避けたい。でなければ殺されてしまう。死んでしまう。

 痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。悲しいのは嫌だ。辛いのは嫌だ。

 死にたくない。消えたくない。失われたくない。忘れられたくない。

 消失が恐ろしい。消滅が心悲しい。

 故に。

 隣人を蹴落そうとも、自分は──


「──賭けをしようか、エリニス」


 男の声にルイの思考は中断される。そして昔の自分では考えられない思考の循環に驚愕した。

 死にたくないと、そう望むのは今まで通り。生きる理由は特になく、けれども死にたくないと願う。

 が、それは克服されたはずだった。

 それも目の前で。痛みと共に。

 セツがルイの心臓を突き刺して証明したはずだ。ルイはどう足掻いても死なないのだと。

 それを踏まえて一歩前へ、元の世界へ帰ってやろうと望んだはずだ。

 “ユヅキ”が嫌うものにならないよう、勤めたはずだ。

 なのに今、何を考えた?

 他人を蹴落とす?

 自分だけ生き残る?

 それが本当に“ユヅキ”が望んだ自らのあり方なのか?

 考える時間など、有するのももったいないくらいに簡単な質問だ。

 誰が悪人なんぞに憧れるか。物語でも主人公が身を呈して守る事が多い中で、憧れるのはやはり主人公。正義のヒーローとまでは行かずとも、見える範囲で誰か、何かをを守る人。

 異世界からの贈り物が倒されるべき悪の地位であったとしても、そのあり方だけは気高くいたいと。それが“ユヅキ”の理想だと。

 わかっていても、そう簡単に思考は変えられなかった。

 あぁ、これだからセツナに付け込まれるんだと。どこかで笑う自分の声がした。


「俺は俺が思う正義の為に動いている。それはお前も同じのはずだろう?」


 男が嘲るように言葉を投げる。

 エリニスは答える代わりに血反吐を吐いて睨みつけた。

 男はその様子を見て、フッと笑う。


「実の弟が死ねずに苦しんでいる姿を見ているのは心苦しい。だからな、エリニス」


 今までエリニスに向けていた視線を静かにずらし、ルイの視線と絡ませた。

 ゾクッと。全身が危機反応を表し粟立つ。

 絡み合う視線は少しだってルイを見ていないというのに。吐き気が、嫌悪が、拒絶が体の全てを支配した。

 真っ白い、人間のような歯がゆっくりと見えた。


「──守ってみろよ」


 ──時が止まったように見える一瞬の描写。男が腕を振り上げているのを、ルイの瞳はひたりと捉えた。

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