幕開けの轟
ロリババ、もとい栗色の髪の少女の助言通り川を下流へと下る。
不可思議なる“ケチェの涙”。下流へ下れば下るほど神聖な空間から特徴のない川岸になっていった。
川に沿うように生えた木々。
川は浅く、数メートルほどで向かいの岸へたどり着ける。
魚類系の魚はおらず、丸い石ころが川の底に埋め尽くされていた。
川を下る行為はこの世界に来て実に三度目になっていた。
一度はセツに森へ転移させられた後に、人里を探して餓死しそうになりながらも降った時。
今思えば死なぬ体であるが故に、リネアと合わずとも餓死はしなかっただろう。そして自分の体の不気味さに気づく事もあったはずだ。
それはさておき二度目はリネアの死を、一人だという事実を否定するためにさまよい歩いた時。
リネアが何を持ってその命を投げ出したかは今もわからない。叩きつけられたリネアが死んだ“かもしれない”事実に恐怖を抱き、また、本当にひとりぼっちになった静寂に心が砕け散るほど怖気ついた。
そして三度目。
目的地はなく、ただ帰るために歩みを進める。
一度目と同じ状況。けれど異なる意気込み。
ルイは俯かず、ただ前を向いて。
一歩一歩、確実に歩みを進めて──
──三大欲求の食欲を満たせないとここまでやる気が出ないとは思わなかったわ…
──歩みはつい數十分前から止まっていた。
栗色の髪の少女と別れて数分が経った頃、この激動の日々に痺れを切らした胃が急激な空腹を訴えたのだ。
初めは無視していたが、徐々に無視できぬものとなり、ピークを迎えた今、我慢ならず川岸でうつ伏せに突っ伏しているのだ。
それもそのはず。
ルイはセツナと会う前の朝食が最後の食事なのだから。
──ご飯を食べる余裕なんて一度もなかったしなぁ…というか食事すら出してくれないセツ、殴る
空腹の焦燥感の矛先がセツに向き、いつかあのいけ好かない美しい顔面をへし折ってやろうと意気込む。
端正な顔立ちに渾身の一撃を打ち込み、輝く銀髪を乱雑に切ってやって、最後に脛を思いっきり蹴るのだ。
そうして蹲るセツに鼻高らかに『手玉に取るやつを間違えたな、ばぁか』と言ってやるのだ。
そしてセツはルイに全面協力を持ちかけ、その後はイージーモードで椎名と再会。この世界の事は笑い話になったとさ。
〜終〜
──無理だな。
あらぬ理想論を言葉で粉砕する。
我ながら呆れる終わり方だと思う。
そもそもそんな簡単にセツの顔面粉砕が叶うのであれば既にしている。
お面をかち割って吠え面かかせる事が出来るのであれば、例え拳が痛くなろうとも迷わずやっていた。
が、そんな事は夢のまた夢だろう。
今のルイならばセツと自分の差がありえないほどかけ離れているのがよくわかる。
レア度で言うのなら、ルイはノーマル、セツは超スーパーレアくらいだろうか。いや、超グレートハイパースーパーレアくらいか。格の違いに収まるほど簡単ではない。それは頭脳も肉体も、だ。
ルイは嘆息すると、よろよろと力なくその体を起き上がらせる。
服につく砂を払うと諦めがちに歩みを再開した。
旅の再出発を歓迎するかのように太陽のギラつきは増し、暑さと空腹は常にピークを更新し続けている。
風になびく木々がまるで応援しているかのように思えてきてしまい、疲れもピークに達した事を自覚した。
陽はまだ高い。
休憩しても何の問題もないのだが、
──休憩すればお腹は空くし、歩けば疲れが倍増し…何をしてもダメじゃんかよ…
絶望的な状況にルイはもちろん涙を流した。
自然と流れ出る涙を止めようとは思わずけれどもぼやける視界が邪魔だ。
ルイは歩みを止めて川の近くでしゃがむと、水に顔を思いっきりつけた。
「ぶっ!」
川は浅瀬。
お面はそのまま。
となればお面である狐の鼻と水底がぶつかるのは必然であった。
そしてルイの堪忍袋がついに切れた。
水から顔を上げると、ここ最近の全ての理不尽に対しての怒りを水面に映る自分に向かって、
「てめぇ巫山戯んのも大概にしろよ馬鹿ぁぁ!期待するだけして手放すとか夏祭りで掬った金魚に餌をあげ忘れる子供かぁ!?そんでど忘れして結局親が育てるんだぁ!『ちゃんと育てるからぁ』とか言って育てないパターン!?餌も掃除もやっぱり親って、てめぇの親寄越せよセツぅぅぅぅぅ!」
水面に映る自分、というより、水面に映る仮面に向かって嘆きの叫びを轟かせる。
地面を叩き、理不尽に向かって体全体で抗議する。
そしておもちゃを買ってもらえない子供のように体を横たえ回転すれば、
「結局!?お前は!全部人任せにする馬鹿なんだよ!馬鹿、バーカ!何がセツナは信じるなー、だ!もともとあいつなんか信じる気ないけど!お前は!どうして!あいつとあたしが会ったことあるって知ってんだ馬鹿ぁ!セツナもセツナだ!あの悪魔!魔人!悪人!なんで好き好んでお前と一緒にいなきゃ──」
「──随分と安っぽいお呼び出しだね。我慢しない事でも務めているのが分かりやすくて道化らしい」
突如として現れる声。
その声に心臓が飛び出るほど跳ね上がりその身を即座に立ち上がらせる。その手は自然と剣の柄に触れていた。
視線を巡り、その場に誰もいない事を確認する。
脈打つ心臓が耳元で鳴り響いているようだ。
先ほどまで荒れていた感情が嘘のように警戒心に変わる。
風が吹き抜け、お面から滴り落ちる雫が地面へ打ち付けられ、
「僕の声を忘れたのかい?」
「っ…忘れてる。はず」
「はは、願望か。けれどそれは叶わなかった、と」
中性的な声。
見下すように、けれど弾むような声色を、ルイは、“ユヅキ”は知っている。
あの紺色の髪を、あの燃え上がるような真紅の瞳を、あの妖艶に弧を描く口元を。
忘れたいと思っても忘れられない。
“それ”は“ルイ”を作り上げたきっかけであり、“それ”は現実を見せつけられた結果であり、“それ”は紛うことなき“ルイ”の“ユヅキ”の敵であり、そして──
「──君が大切にしていた彼女を殺した張本人。その事実を変えようとは思わないがその態度は失礼極まりない。それにその場に僕はいないのだから剣を振るうだけ無駄というものさ」
セツナの言葉に一部同意する。
目に見える範囲にセツナの姿はどこにもなく、あるのはざわめく木々の合唱だけ。
それに加え、声はどこからともなく聞こえてくるのだ。鼓膜を通って脳に伝わっている。それすら疑わしい。
だからこれは、この場に存在しないものの声であり、鼓膜を振動させぬままの声。即ち脳に直接伝わる声だと予測した。
そしてそれは他でもないセツナがクスリと笑いながら肯定した。
「言っただろう?僕は君の剣に自らこの身を捧げたんだ。剣と一体化したんだ。誰にも聞かれず脳に話しかける事くらいどうって事ない」
「……」
「ん?この答えじゃ不服かい?」
セツナの存在を可視することはできないが、彼女が首を傾げているように思えた。
答えに対しての不服はない。
単に答える人に不服があるのだ。
というか不服しかない。クソ喰らえだ。
ルイは声を無視するように歩き出すと、セツナもそれに反応したように「つまらないなぁ」と言葉をこぼした。
「そもそもこれは君が僕を呼び出したんだ。その責任くらいは果たしたらどうだい?」
「…呼び出したつもりもない。帰って」
「君、さっき僕の名前呼んだじゃないか」
セツナの声をよそに、言葉の意味を咀嚼する。
確かにルイは呼んだ。
呼んだというより叫んだの方が近く、また応えてもらおうと考えてすらいないようなものだ。それを“呼んだ”と称すのであればそれは、
「…今後一切あんたの名前は口にしない。それでいいでしょ」
「口にしなくたって呼ばれれば出てくる。それが使い魔ってものさ。まぁ正確には僕は使い魔じゃないんだけどね」
淡々と言葉を紡ぐルイと、会話を楽しむように言葉を続けるセツナは対照的だ。
会話自体をうち切ろうとするルイ。
そんなルイを御構い無しに話しかけるセツナ。
セツナの態度はルイへ対する皮肉か否か。それすらルイは判断しようとしなかった。
「それに名前が呼び出す術ではなく、その名の者を思い浮かべながら名を口にするのが“呼んだ”ということになる。名は人を思い出すのには一番手っ取り早い記号だと思うしね。だから例えあだ名でもそれは当てはまるということさ。
そうだね、君の世界のように砕けていうと、だ」
セツナはそこで言葉に区切りをつける。
そして口元が弧を描いたかのように、
「名前はトリガーじゃない。相手を思い描くだけでそれは自動的にトリガーを引く」
と、現代知識を織り交ぜた回答をしたのだった。
ルイは忌々しげに、
「うるさい鬱陶しいどうでもいい消えて」
「酷い言い様だ。君は魔獣を、それも上際を手玉にとっているんだよ?それは国王辺りも喉が手が出るほど欲しがる魔剣だ。それを君が持っているんだ。喜んでもいい。さぁ喜べ」
「何が喜べだ。こちとら『あなたを壊します』宣言されてんだ。嬉しさなんて一つもない」
「ふむ。それもそうか」
結ばれた契約、“ラーファルの契約”の効果を説明する際に、中に住まう魔獣が力を行使する人間に殺意を覚えると余談を述べていた。
元々セツナはルイを壊す為に剣に身を投じた事も。
「ああ、そうそう。この剣は存外縛り付けが強くてね。本来なら陰を使う為に縛り付けるのが、陰を使えず縛り付ける羽目になってる」
「…だから何」
「つまり僕の陰は使えないって事さ。君の望むふぁんたじーとやらはかけ離れたわけだ」
そう言われたところで特に何を思うわけでもない。
元々使えなかったのだ。変化の見えぬ変化に動かされる心は持ち合わせていなかった。
けれども付属品としてセツナが付いてきた事にかなりの不満、いや、不満だけでは治らない殺意はある。
そんな殺意を向けている相手の力を無遠慮に使おうなどとは到底思えなかった。
顔の見えないルイとこの場に存在しないセツナ。表情が見えない事には変わりはなく、けれどもセツナはルイの隣を歩いているかのような雰囲気をもたせている。
腹立たしい。
憎めしい。
不愉快だ。
大っ嫌いだ。
そんな言葉を投げかけたとしてもセツナは微動だにしないだろう。
だからルイは言葉を閉ざす事を選ぶ。感情を隠す事を選ぶ。
そうすれば、つまらないと言って帰ってくれるんじゃないか。そう信じて。
「あ、それにそのお面。セツからの愛情篭った憎たらしいそれだけど、」
「…」
「そのお面にも僕を縛る術式が込められていてね。僕が表舞台に立つのはもう少し後になりそうだ」
聞きたくない。聞き入れたくない。
こんな奴の言葉を、こんな奴の説明を何も聞きたくない。知りたくない。
けれど言葉は脳にすんなりと入ってくる。
隙間のない筈の思考に、水のように流れてくる。
拒絶する事は叶わず、結果苛立ちを超えて胸に悲痛を抱かざる終えない。
何も言えない自分が憎い。
何も言わない事を選択した自分が苦しい。
抗えない本流に、ルイは唇から血が流れるほど強く体に力を入れた。
それは昔と変わらぬ何かを我慢する仕草に酷似していて──
「──君は僕を頼る」
セツナの言葉が酷く重い。
背中に鉛を乗せられたような。内臓が岩と化してしまったかのような。そんな逃げられない重み。
反論したい。
反論して、激情したい。
けれど、言葉は何一つ出て来やしない。
「その身は僕に耐えられず、けれども拒む事だってできない。できやしない。君は君だ。例え名前を変えたところで本質は変わらない。そう簡単に変わりはしない。同化は君の死を意味し、僕の復活を意味する」
セツナの言葉を半分も理解できない。
自分が弱い事。
自分の本質。
リネアを殺した相手に対して、激情を覚えられない現実。
感情を、どこかに置いて来てしまったような感覚。
それは悪癖。ルイの、ユヅキからの、変えられない悪癖。
「なら、こんなのいらない…こんな馬鹿みたいな剣なんか…!」
ついに歩みを止めて鞘に手を伸ばした。
このまま叩きつけて壊したい。
このままへし折って壊したい。
このまま粉々に壊したい。
壊したい壊したい。
壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい壊したい──!
「──いや君は壊せない。だって壊してしまったらまた一人ぼっちになってしまうからね」
セツナの言葉は刃だった。
確信を容赦なく貫く刃。
無遠慮に差し込まれた傷口を再び抉るように言葉を紡ぎ、相手を傷つける。
無残に切り裂かれた自分は、図星を突かれて握った鞘をさらに強く握ることしかできない。
剣を捨てて無防備になることへの恐怖。
一人、誰の存在も確かめられぬままただ彷徨い続けるだけしかできぬ未来への恐怖。
あれから何も変わっていない。
悪役を受け入れても、それ以外は変わらない。
“ルイ”は“ユヅキ”のまま。嫌いな“ユヅキ”を胸に抱き、頼る誰かにしがみつく。
「代理は見つからない。君の苦しみをわかるのは僕だけだ。理解できるのは僕だけだ。共感できるのは僕だけだ」
「っ!お前にわかられたって──」
「理解されずに全てを否定される恐怖。本当のそれを理解できてからそう言ってほしいね」
セツナはかぶせるように言葉を紡ぐと嘆息する。
ルイはわかっていないと、何一つわかっていないと、そう突きつけるように。
「君は僕を頼り僕だけを頼り罪悪感と憤慨の果てに身を滅ぼす」
ルイは何も言えない。
そんな事ないと、宣言できない。
弱い心がそんな無責任な事を言えるはずがないと、自制する。
セツナが口元に手を当てたような雰囲気を感じ取れば、次に来るのは酷く歪な高笑いだった。
馬鹿にするように、哀れむように、慈しむように。
歪んだ口元は美しく弧を描き、
「──朽ちる君を見るのが心底楽しみだよ、ルイ」
「──っ」
新たに出発したその名を。
これから先、何かを成す為に与えられた名を。
──セツナのたった一言で汚された。そんな気がしてならなかった。
セツナがクスリと笑うと、呆けているルイに笑顔を向けたように、
「先ずはその場から離れた方がいい。一番初めの、使い魔としての助言だ」
──そう言った瞬間、真横の木々が薙ぎ払われた。
“何か”がルイへと飛ばされ驚く間も無く衝突する。
勢い余って“何か”と共に地面を転がり、川を超えて反対側の木に背中から衝突する事で勢いは治まった。
背中の痛みに肺は押しつぶされ、息がつまる。
何かを庇うような形で衝突した為、衝撃は二倍以上だ。
脳が揺さぶられる感覚に意識が混濁した。けれども続く轟音に再び意識は戻される。
──セツナの笑い声が消えぬままルイは体全体で呼吸を繰り返した。




