空から旅立つ
申し訳ありません、
ロットの名前をルイに変更させていただきました。
ロットとして覚えていただいた方がいらっしゃいましたら本当に申し訳ありません。
自分が嫌いだった。
物事をはっきり言えず、揺るがぬ意思はどこにもない。
譲れぬ意思がないのだから他人の意見に身を任せる。
人が苦手で自ら関わりに行こうとせず、けれども一人は寂しいと嘆いた。
そんな我儘な自分が嫌いだった。
──だから、次の自分は“ユヅキ”に好かれるような人になろうと思った。
ーーーー
空白が塗り潰され、“自分”が落とされる。
海という膨大な水中で音もなく地面に足が着くような感覚。
手放せばすぐにでも離れてしまいそうなそれをなんとか手繰り寄せその暴風を肌で感じた。
風が頭から足へと過ぎ去る音が耳の中を埋め尽くし、鬱陶しさに耳を塞ごうとしたところで謎の浮遊感を自覚する。
そして、
「──へあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!???!!」
瞼を持ち上げればそこは空だった。
右を見ても左を見ても真っさらな青い空。頭は重力に従い下を向いており、ルイの平衡感覚は狂いに狂ってどこが上だかもわからない。
絶叫しきったところで本格的に危険になってくる。
着々と近づいてくる地面。否、自分が近づいているのだが、まるで世界がルイを押しつぶさんとしているかのように迫る感覚。
ルイは目を見開き頬を引きつらせながら状況の確認、理解をする。
地面に激突は、例え死なないという事実があったとしても避けたい出来事だ。クッションになる何かに体を受け止めてもらいたいのは本音である。
幸いここは森の上空。木々はそこらかしこに生えており、クッションのように柔らかくは無いが勢いを殺す事は可能だ。
ルイは稼働し始める心臓を無視して身をよじる。
しかし空中での移動方など教わった事すらなく、ただただ宙を腕が掠めたり回転したりと移動しているようには思えなかった。
「恨むぞセツぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」
渾身の叫びを空中に響かせ、ルイは迫り来る痛みに目を瞑り両手で頭を抑えた。
「ぎ!?」
両腕に突き刺される痛みを感じ、勢いが殺されるのがわかる。枝の折れる音を残しながら上下左右がアレヤコレヤと反転し、背中、首、腕、頭、足が木の枝によって軽い傷口を残す。
最後、腹に太い枝が当たり声が漏れる。吐き気を催す激痛に身をよじると、支えになっていた太い枝から落ちた。一瞬の浮遊感の後、大きなシーツのようなものに当たり軌道を変更させられる。
再び宙に浮いたと思えば、背中から冷たい何かに激突した。
息のできぬ空間にここは水の中だと理解するのは造作もない。しかしすぐさま水面上に上がる事もできない。
全体重が勢い良く腹一直線に生じたのだ。息が詰まり吐き気が脳内を渦巻くのも無理はない。
ルイは腹の痛みに悶えながらも瞼をゆっくりと開いた。
水中はぼやけてしまい光の有無と何かが動いている事しかわからなかった。
通常、人間のレンズの役割をする“水晶体”と“角膜”は光を屈折させて“網膜”に映像を届ける。しかし水中では光の屈折がなくなり、“角膜”が正常に機能せず遠方を見ているかのようにぼやけてしまうのだ。
水中の中でもぼやけず見える民族もいるというが、もちろんロットはその部類ではない。
水底がどこにあるのか、自分はどれほど沈んでいるのか、それすらもわかっていない。
徐々に息苦しさに耐えられなくなり、ルイは光の見える方へ手を伸ばした。
「──っぷは!げほっげ、べっおえ…」
女子からぬ声を出しながらルイは息を整える。
顔に流れる水滴をぬぐい荒い息のまま辺りを見渡した。
木と葉が天を覆う空間。
湖の周りを囲んでそびえ立つ木々はドーム状に入り乱れており、太陽の光は絡み合う枝によって遮られていた。ほんの少しの隙間から漏れ出す光が天気の良さを表している。
ただ一点。
何かが落ちてきたかのように、絡み合う枝にぽっかりと開く一つの穴。
そこが自分の落ちてきた穴だと考えるのはそう難しくない。
湖から生える大きな葉が軌道を変えた張本人だろう。睡蓮の葉によく似ている。
特に誰もいない湖にこれ以上浸かる必要はない。
苦手な平泳ぎをしながら岸へとたどり着き、その身を地面へ引き上げた。
すると、カラン、という音を立てて息切れするルイの横に落ちたのはセツがくれた黒い狐のお面だった。
「…わざとか。あいつわざとか…」
タイミングの良すぎるお面の登場に、セツが『忘れたらあかんで』と、語尾にハートマークが付きそうな勢いで皮肉を言われている気がして無性に腹が立つ。
なんだか全ての現象がセツの所為に思えてしまいルイは疲れたようにため息をついた。
立ち上がり、全体を覆う黒いローブを脱ぎその黒い髪を晒す。髪につく水滴が太陽の光を反射させ、美しいくらいに輝いていた。
ローブを雑巾のように絞れば大量の水が溢れ出す。
誰もいない空間に水が土に衝突する音が響き渡り、反響する。
もう一絞り、と持ち方を変えたところで、
「──これこれ、その水は貴重なんじゃから捨てるならちゃんと湖に捨てなかれ」
「っ!?」
突如として現れる流るる水のような声。
決してセツナのような圧力のある声ではない。けれど誰もいないと思っていた空間に誰かがいたというのはいささか驚く現象だ。
ルイはすぐさま声の方に体を向ける。
すると、
「なっ!?」
「これこれ。驚かんでも取って食ったりしぃひん。…けどあれか?取って食う奴もそう言うか。すまん、盛大に驚いていい。がおー」
棒読みで紡がれる言葉はルイの緊張を吹き飛ばすのには充分だった。
黒みがかった赤い瞳。それだけで目の前の人物が魔獣の中念である事が確定する。
小さな顔は可愛らしく、前髪に青い宝石の埋め込まれたボンネを付けている。
真っ直ぐな栗色の髪が腰上まで伸び、髪の隙間から見える耳はアニメに出てくるエルフのように鋭利に尖っている。
枯草色のワンピースは薄く、小柄な体型をくっきりと表していた。その上に半透明のコート。コートの裾と袖は地面についてしまうほど長い。美しい金糸の刺繍が施されており幼さの内に秘めた優雅さが強調されているようだった。
桃色の羽衣を巻く姿はどこか天女のようだ。
けれども半分ほどしか開いていない瞳はやる気のやの字もない。怠そうな表情は天女にはかけ離れていた。
切り株に腰をかけ、先端に丸い宝石の付いた鋭利な杖を持ちながらやる気のない瞳でルイを見つめている。
敵意がない事を理解すると、ルイは一つため息を吐いた。
「ため息かい?若いのに大変そうだねえ」
「そりゃあ中念に会ったらため息の一つくらい吐きたくなりますよ」
「いやぁ?普通ならため息の前に悲鳴をあげて逃げるもんよ」
「…確かに」
今までにロクでもない魔獣に会って来た為か、目の前の少女は威圧感が大いに欠ける存在だった。
敵意はないにしろ、魔獣の、それも中念に会ったのなら失神しても笑い者にならないほど危険な存在だ。
それをため息一つで済ませる自分。確かに不自然である。
ルイは頭を掻きながら口を開いた。
「付かぬ事をお聞ききますけど、ここどこ?」
「主《ヌシ》よ、もう少し語学を学べ。安っぽい言葉は己を貧相に貶めるからの」
「なるほど。で?ここはどこでこざんしょう?」
直す気の無いルイの言葉に、少女は呆れたように眉をひそめた。
因みに。
今現在ルイの心臓は動いていたりする。
人見知り。それは簡単に治るわけもなく、けれども“人見知りのユヅキ”は捨てた。ならばその“ユヅキ”が嫌いにならないような人格が“ルイ”ならば、人見知りはあってはならない。
だからこそ、平然と、淡々と、どこにでもいる人見知りなどない村人Aのように、言葉を紡いでいたのだ。
しかし体は正直であった。
「まぁよい。ここは“ケチェの涙”。地下に洞窟のある神聖なただの湖じゃ」
「ケチェの涙…?」
思考を中断させ、ルイは首を傾げながら繰り返した。
少女は一つ頷くと言葉を続ける。
「ケチェという一体の飼い魔獣が人のためを思って涙した結果できたと言われてる湖よ」
「魔獣って涙の量まで倍増すんのか」
「ただの伝説じゃあよ。魔獣が人間のために涙を流す事はない。それはケチェも例外じゃないさぁ」
少女はそっぽを向きながら肩にかかる髪を指に巻いていじりだす。
飼い魔獣というのは人間がペットとして飼える魔獣の事だ。下方にしては知性の高い彼らは人間に従えられるのを良しとする珍しい魔獣だ。
例え知性が高くとも、人に飼われるのは嫌がる魔獣が多い。
人に飼われる位なら、と、自害する気高い魔獣もいるくらいだ。それを持っている事は大いに権力の誇示となる。
なにやら伝説のケチェなるものを知っていそうな少女だが、今ルイの知りたいことではない。
追求することはせず、ルイは再びローブを絞る。今度は湖の上でだ。
水と水がぶつかる音が静寂に響き渡る。
どちらも何も話さぬ時間が、一秒、二秒、三秒と続き、
「…主の髪は染めたのか?」
少女は静かに呟いた。
ルイの髪、揺れる黒髪はもちろん地毛である。
ルイは人生で一度も髪を染めをしたことはなく、アレンジ一つもしてこなかった。
ルイは視線をローブに向けたまま、「地毛でーす」と答えた。
「随分と気色の悪い色だねえ」
酷い言いようにルイはため息を吐く。
確かに黒髪というのは不吉の象徴かもしれないが、気色悪いというのは少しばかり傷つく。
ルイは体を少女の方へ向けると、
「珍しい、って言ってくださいよ」
「黒など“渇望の哀れ人”の象徴じゃあないか」
ルイは少女の言葉に眉を顰めた。
渇望の哀れ人なるものは読んだ本にも聞かされた話にもなかったからだ。
ルイは相手が魔獣である事を忘れたように口を開いていた。
「…渇望の哀れ人?災悪の魔女じゃなく?」
「災悪の魔女?」
互いに首を傾げる。
どうやら少女とルイ間には齟齬があるらしい。
少女は一つ一つ謎を解くように顎に手を当てて口を開いた、
「…一つ、其の者は体内魔力を奪うもの也。
一つ、其の者は人の身で陰を使う者也。
一つ、其の者は人を守り人に殺された哀れな賢者である。
一つ、其の者は人を愛し人に嫌われた初めて魔獣と意思疎通を成した者也…」
魔獣の中で伝わっている言い伝えなのか淡々と言葉を並べる少女。
聞く限りなんともかわいそうな人間の物語だが、ルイの知識にも通ずるものがあった。
「最後の二つはどうか知らないけど…」
「…初めの二つは同じかえ。なるほど、長年生きてても人間との齟齬は無くならないということじゃな」
ルイの言葉に理解を示すように頷く少女。
魔獣と人間との隔たりはそう簡単になくなるものではない。
長い間培ってきた常識を捨て去らなければならない事と同じだ。当たり前が当たり前ではなくなるというのは、簡単に受け止める事ができないだろう。
災悪の魔女。それは人間の呼び方。
渇望の哀れ人。それは魔獣の呼び方。
呼び方。伝説。それらにほんの少しの齟齬があったとしても同じ人物を指すものであるのだとどこかで強く確信していた。
そして、少女の言い分にほんの少し眉を顰める。
長年生きた。見た目は少女であるのに長年生きている。
長年、というのはもちろん人間の寿命以上だろう。
ということはつまり、
「…ロリババ?」
「ふむ。その言葉の意味は一切わからぬがとても不愉快だ。次それを言うのならその湖に沈めよう」
「そんなに怒る?」
「なぁに怒っておらん。気に食わないだけじゃ」
「気に食わないだけで人を殺す!?」
「人の命は哀れじゃなぁ」
「待って答えになってない怖い」
幼い容姿、中身は高齢。ロリっ子ババアの省略型、ロリババが本当に気に入らなかったらしく、表情は変わらぬが大きな杖を意味深く左右に振る。
ゴミを捨てるように軽率にやってのけそうな雰囲気に、ルイは静かに冷や汗をかいた。
「まぁよい」
「よくないけど…」
「それより主はさっさとその面を隠した方が身のためぞ」
少女の言葉を理解するよりも先に、背後からガサッと物が落ちる音が耳に届くと心臓が跳ね上がった。
すぐさま後ろを向くと、そこには顔面蒼白になっている薄着の女性がいたのだ。
魔獣と話しているのを目撃された事がまずかったのかと思い、チラリと少女に視線を向ける。
だが、
「──え?」
そこに少女の姿はなかった。
座っていた切り株だけがそこにあり、元から誰も居なかったように静まり返っている。
少女に敵意はない。ならば隠れたと思う方が自然だ。背後から女性を襲うなんて事ない、と信じたい。
となると、女性が顔面蒼白になっている理由は魔獣ではなくなる。
つまり、女性が恐怖を抱いているのは──
「あっ、いや、あのワタシアヤシイクナ──」
「──いやあぁぁぁぁぁぁ!!」
ルイが弁解をする暇もなく女性が切り裂くような悲鳴をあげる。
驚いている間に女性が背中を向けて木々の中を抜けて逃げてしまった。
再び訪れる静寂にほんの少し胸の痛みを覚えた。
悪役になる覚悟。
例え心構えができたとしても、悲しいものは悲しいし、痛いものは痛い。
心臓を締め付けられるような痛みに胸元を握り締めた。
「ここは本当に神聖だからか、悪意のあるものは入れんのよ。だからああやって人間も水浴びに来る」
「…ならさっき逃げる必要ないんじゃなかったの?」
「そうわかっていても魔獣を怖がらずにいられるものはいないものよ」
少女はいつの間にか再び切り株に座っており、淡々と言葉を紡ぐ。
ルイは体を少女に向けると息を吐いた。
「ならあたしは例外?」
「いやあ?主は随分と色々なものが混ざっておる故なあ。人であり人ではない。ましてや魔獣なんてものでもない。そんな馬鹿げた生き物に興味を持つなと言う方がおかしな話よ」
少女の言葉になるほどと理解する。
追求しないあたり根本的な理由を知りたいわけではなく、本当に興味本位らしい。
人間でも魔獣でもない生き物。確かに興味の湧く話題である。
魔獣全員がルイの変哲さに気がつくのか、それとも限られた魔獣だけなのか。それらはわからぬままだが隠す必要が見当たらない為、無言の肯定を示した。
ルイは落ちているお面を拾うとその黒い瞳を隠すように付けた。
「ん?行くのか?」
少女は半分しか開いていない瞳をルイに向ければ栗色の髪がさらりと揺れた。
ルイは肩をくすめると、
「ここに居る必要がないからね」
「必要性など、それこそ必要ない。居たいから居る。どこも行きたくないからここに居る、でもよいではないか」
「それは時間が有り余ってる人たちだけが言える言葉だよ。悪いけどあたしには時間がないんでね」
「それは勿体無い」
時間を持て余した魔獣にとって本当に必要性など関係ないのだろう。
必要性を重視せず興味だけで生きる姿に羨望を抱かなくもないが、それで他人に迷惑をかけるのは頷けない。
興味を持つのも探求するのも邪魔をするつもりはない。
けれどもそれは自己の範囲で収めるべきだとルイは思う。誰にも迷惑をかけないのなら誰も邪魔はしない。迷惑になるものだから誰かが、何かが邪魔になる。
それを排除し、好奇心だけで突き進む少女をルイは一人だけ知っていた。
恨むべき妖気に包まれた一人の少女。笑みの一つ一つが妖艶で、ルイの、否、“ユヅキ”の全てを壊した者。
ルイは怒りを隠すように腰に携えた剣の柄を握りしめると、それに答えるかのように剣と鞘の擦れる音がした。
「追ってが怖いのならこの湖から流れ出る川を沿って行けばいい。人の世を壊したいのならあの女を追えば近くの町に付くはずよぉ」
「お節介どうも。因みに何一つ壊す気はないんで」
少女とルイは軽口を叩き合うとさっさと横を通り過ぎた。
寂しさも気がかりも何もない。
たまたま公園で会い、ほんの少し話しただけのような関係。始まるのが唐突ならば、終わるのもまた唐突だ。
名も素性も何も知らない。何も知らないからこそ、後腐れなく別れられる。
今日初めて会い、もう二度と会う事はないような相手。
友人というには関係が薄い。知人というには相手の事が知らなすぎる。
他人以上知人以下。そんな馬鹿げた関係。馬鹿げた繋がり。
それが今、確実に結ばれたのだった。
湖の脇から溢れるように浅い川が流れ出ており、透き通るような美しい水は太陽の光を反射させていた。
ルイは少女の言われた通りにその川に沿って歩き出す。
ただ。
最後の最後、少女の口は自然と言葉を紡いでいた。
「──壊せよ、人の子よ。主は何もかも足りていないのじゃから」
──ルイが振り返った時にはもう、誰もいなかった。




