世界の敵、世界が敵
「それ、持ってってええで。元々アンタにあげるつもりやったし」
セツが言うそれ、と言うのは狐のお面の事だ。
漆黒に塗られ鼻より下が存在しないお面。目の部分は大き目に切り取られている為あまり視界の邪魔はしない。
“お面を付けている”という感覚は“自分が見られていない”という感覚に似ていて安心できた。
無様に泣いて、喚いて。セツがあまりにも優しく頭を撫でるものだから再び涙がこみ上げてきて。
泣き止んだ後、ユヅキは目覚めた寝室らしき別室に服を着替えるため移動した。
ローブのフードを脱いだところでセツから冒頭の言葉が投げられたのだ。
「それな?そりゃーまー色んな魔術がかかってて相手から目が見えんようなってんねや」
そう言ってセツは暖簾の隙間から手を出し、壁の方を指差す。指に沿って視線を移動させると、そこには無理矢理取り付けられたようなひび割れた鏡があった。
顔しか映らない大きさの鏡に目を向けると、確かに目の空洞は闇に包まれどれだけ角度を変えようと自身の目を見ることができない。
つまり、これは
「災厄の魔女対策…か」
「ほー。感心感心。もうその事は知ってんやね」
災厄の魔女。
この世界に陰を持って産まれし人間の女の子。人を騙し身を呈して魔獣に陰を譲渡した人間の敵。
その魔女の頭から生まれた化身は黒髪黒目の人型で、近くにいるだけで人の体内魔力を奪う忌子だという。その忌子であるユヅキは、しかし体内魔力など奪ったことなどない。ユヅキを欲しがる者が勝手に振りまいた嘘なのである。
その証拠として、ずっと近くにいたリネアになんの変化もなかったことだ。
他人から体内魔力を少量でも奪われると体調は崩れる。けれどリネアに変化はない。それが噂の嘘を証明する事実であった。
しかし逃げたのは本当だ。この世界でいう忌子を指すのがユヅキだという事も本当。
否定は、もうできないのだろう。
だからセツはお面を渡した。目を隠すようにと、その意を込めて。
黒いお面と黒いローブ。全身真っ黒の旅人に声をかける人はいないだろう。
隠して生きる。隠れて進む。
理解を求めてはいけない。認容を待ってはいけない。
ユヅキは人間の敵で、ユヅキの敵はこの世界に生きる者全てで。
世界の敵。
世界が敵。
それがこの世界から授けられた地位であった。
ユヅキは鏡から目線をズラし足元にある布包みを開いた。
「話は終わり?」
「せや。けど聞かんでええの?」
「何をさ」
そう聞くと、一瞬だけテンポを遅らせ、「いや?」と言いクスクスと笑ったのだった。
「アンタの覚悟、尊重しますわ」
「黙れ嘘つき。てめぇの一つ一つが嘘にしか聞こえねぇわボケ」
「はっはっは!いけすやなぁ」
ユヅキの包み隠さない嫌悪を、向けられた本人は気にせず笑う。
人見知りする必要がなくなった。否、なぜこの男の為を思って言葉を選ばなければならないのかという思考に落ち着いた。そのためユヅキはこれから先、セツに対して息を吐くように暴言を吐くこととなるだろう。
それは確実な変化であり、“ミナミ ユヅキ”なら絶対にしなかったことだった。
セツはその変化にただただ笑顔を零す。
「なぁユヅキちゃん。ちょーと相談なんやけど、」
「うわ。相談とかうわ。空から火玉でも落として焼き殺す気かよ」
「ほんま隠さなくなったね?」
ユヅキの対応には恐怖も畏怖も何もなく、むしろ無駄口を叩いた瞬間抹殺しそうな勢いだ。
セツは暖簾の近くに寄りかかると、口を開く。
「ちょーとな。ほんのちょーとだけあっしもアンタの事同情してんねん」
「同情するなら返せ」
「最後まで聞きんしゃい」
ろくに前に進まない話に今度はセツがツッコミを入れる。
本来、自分のペースを相手に押し付けるセツだが、今のところことごとくユヅキにテンポを乱されていた。
だが、この乱れは好きか嫌いかと問われれば好きだった。
ただ騒ぎ立てて話の邪魔をするのではなく、セツと同じく自分のペースを相手に押し付ける乱し方。
自己主張が激しい、というのは少し違う。押し付ける“自分”があるというのは些か面白いとセツは感じていたのだ。
「アンタに何が起こったのか、事細かには知らんのやけど、良い事も、悪い事も、たらふく食べたんやろ?ミナミ ユヅキとして、受け止めて、戦って、逃げて来たんやろ?」
「…前置きが長い。つまり?」
ほんの少しのつっかえを無視して、セツははっきりと言い放った。
「──その名前捨てへん?」
沈黙。
そして、
「は?」
ユヅキの間の抜けた声がその場に響いた。
セツはあいも変わらず飄々と、
「せやからその“ミナミ ユヅキ”って名前を捨てて、新しい名前で新しい冒険を始めよー、って事や。
あれや。人狩り行こうぜ」
「…その知識はどっから湧いて出てくんのさ…」
ヘラヘラと笑いながら大きな提案をしてくるセツに呆れるユヅキ。
日常のようで非日常な会話は、それでも大切な物は離すまいとしていた。
自分のペースに巻き込めたセツはケラケラと笑う。
「背負う物、背負わなきゃいかん物、背負っても良いもの、背負わなくてもいい物。ミナミ ユヅキは背負わなくてもいい物が多すぎんねん」
理不尽に押し付けられた地位。
目の前に訪れた死の影。
幸福はたった一瞬の出来事で、これから先、その幸福を掴もうとはしないだろう。
速すぎた。何もかも速すぎたのだ。
知識も技術もない人間に、指導も教授もせずに『やれ』と言ったって無理なように、少しづつ少しづつ知っていけばもしかしたらミナミ ユヅキは壊れなくて済んだかもしれない。
いや、もしもの話など底をつかないだろう。すべきなのはこれからのことである。
これから先をどうするのか。
セツは静かに瞼を下ろした。
「アンタはこれからミナミ ユヅキがしなかった事、できなかった事、やるべきだった事をやればええ。ミナミ ユヅキを守るための身代わりやな」
ミナミ ユヅキはもう立ち上がれない。もう立ち直れない。
そこにいるのはもうミナミ ユヅキではなく、“誰か”である。
だから、
「──責任とか義務とか、全部ひっくるめてアンタが受け止めい」
ミナミ ユヅキではないお前が背負え。
ミナミ ユヅキではないお前が成せ。
セツはミナミ ユヅキの全てを否定し、今目の前にいる“誰か”を肯定する。ミナミ ユヅキのため、目の前の“誰か”に責任を背負わせる。
しかし、ユヅキはその言葉を素直に受け入れられなかった。
「自分のために新しい自分を作れってか?…そんなん、昔と変わんねえよ」
「いんや変わるよ」
ユヅキの言葉を完全否定する。
その声はヘラヘラとした笑いをするセツから出たとは思えないほどはっきりとした威圧があった。
セツの閉じていた瞼がスゥ、と開く。
「アンタはアンタのためにあるんやない。アンタはミナミ ユヅキのために生きるんよ」
「…それは今までの思い出を捨てろってこと?」
「せや」
セツの声は依然として力強い。
捨てろ。全て捨てろ。
今まで足掻いた生き方も、今まで打ちひしがれた結果も、手を伸ばしてくれた“誰か”のことも。
何もかも捨てて何もかも壊して“ミナミ ユヅキ”を否定しろ。
セツの声が静かに反響する。
「終わりにしよ。泣き喚くのも理不尽に文句を言うのも。前に進まなきゃあかんのだから、もう泣き言言わんよう──」
「やだ」
ユヅキの声がセツの言葉を遮るように発せられる。
余りの急なことで、セツはワンテンポ遅れ、
「…は?」
と、間抜けな声をあげた。
「だから嫌だって」
もう一度繰り返すように言ったユヅキは、セツが何かを言う前に言葉を紡いだ。
「なんで急にセツがそんな事言ったのか全然これっぽっちも一ミリもわかんないけど、嫌だよそんなの。こっちに連れてきた責任はあんたにあるけどその後の行動は全部あたしの責任。それは譲っちゃいけないと思う」
ユヅキの声に覇気が消える。
憂いを帯びた気配に、セツは声をかける事はなかった。
悲しみを隠すようにユヅキの声がほんの少し弾む。
「リネアって女の子がね、すごく椎名に似てた。顔も喋り方も全然似てないのにどうしても椎名と重ねちゃってさ」
ユヅキは一呼吸置くとゆっくり続けた。
「…いなくなった時すっごく泣いた。死んだって決まってないのにものすごく泣いたの。多分それはリネアの死に対してのもあるんだろうけど何より一人になったことに恐怖を覚えたんだと思う。
一人だった時に手を伸ばしてくれて、少しだけ思っちゃったんだよね」
──ああ、この人なら頼っていいんだ、って
この人が自分の手を引っ張ってくれる。この人が自分の前を進んでくれる。この人が自分の道を導いてくれる。
あの優しい笑顔に頼りっきりだった。あの素直な言葉を信じ切っていた。
セツに全てを委ねられなかった分、ユヅキはリネアに全てを委ねたのだ。
「これは依存だよ。ただ一番初めに手を伸ばしてくれたってだけであたしはリネアに依存した。そんな事自分では気づかないで利用してるなんて思い込んでさ…ほんと、どうしようもないよ」
セツの位置からユヅキの姿は伺えない。
今ユヅキは泣いているだろうか。我慢して笑っているだろうか。はたまたどうしようもない自分に怒りを向けているだろうか。
セツは何も言わず続きを待つ。
「なぁセツ。あたしは泣きたい時は泣くし喚きたい時は喚くし理不尽には構わず文句言いたい。誰からも好かれてないって事はこれから誰かに嫌われるかもって心配しなくていいって事でしょ?なら──」
その言葉と共に暖簾が静かに揺らめいた。
お面は付けず、フードも被らないユヅキ──否。黒髪黒目の忌子はセツに目を向けるとはっきりと言い放つ。
「──悪役上等だ」
息を飲む音がする。
セツの目は大きく見開かれ真紅の瞳が今はちっぽけに思える。
忌子は初めて見るセツの表情にクスリと笑うと、挑発的に口角を上げ、
「ねぇ、あたしは誰?」
そう訪ねた。
訪れる沈黙。けれど、
「ふっ、くっはっはっは!!悪役上等、そこ言葉好きや。自分の格言にでもしよかな」
「やめろ馬鹿。あたしの言葉だ」
口を大きく開けて笑うセツに対し、先ほどの挑発的な笑みを消してツッコミを入れる。
セツは一頻り笑うと一度息を吐き、いつもと変わらぬ笑みを浮かべた。
「アンタをこれから飛ばしまーす」
「人の質問に答えなさーい」
「嫌やー」
セツはケラケラと笑うと呆れたように溜息をつく忌子に近づきその背中を押した。
岩の窪みに作られた部屋から出るよう急かす。
外に出ると、その場所は木々の中に隠されたような空間だった。
断崖絶壁の一番下に存在する窪み。背後は岩、前は木々。どこを見ても逃げ場がないような、今の状況を表しているような空間だった。
木々の隙間から真っ青な大空が見えたところで歩みを止める。
当然身をまかせるように押されていた忌子も歩みを止め青空に目を向ける事なく自身の足元に目を向ける。するとどこか納得したように頷いた。
「そうそう。この形見たことあるやろ?」
「あの研究所から出る時も魔法陣的な何かを使ってたけどさ、これがセツの陰なの?」
「いんや?これは単に知り合いの魔術師さんに頼んで作ってもらった一回限りの代物よ」
外に出て早々に魔法陣らしき模様の上に乗せられようとも動揺すらしない変化に喜ぶべきか否かは見るものによって異なるだろう。
ほんのりと輝き出す魔法陣。
セツは陣から一歩下がっており、付いてこないことが明らかだった。
ニコニコと笑うセツに、
「クズめ」
「別れの言葉がどぎついなぁ」
ケラケラと笑うセツは、ゆるりと視線を地面に落とした。
そして締めくくりとばかりに口を開く。
「これから先、アンタの決意が揺らいだとしても」
セツは一旦言葉を区切り、そして
「──セツナは頼るな。ルイ」
忌子、否、ルイは目を大きく見開き、何かを言おうと口を開いたところでその影は綺麗さっぱり消えていた。
匂いも存在も、何もかも。元からそこには何もなかったかのように木々はいつも通り風に揺れていた。
空間転移。
高度な魔術であり、これは魔法道具嫌いな魔術師が魔法道具を使う異例が成せる技だった。
役目を終えた魔法陣は端から青い炎を小さく点しながら自身を燃やす。数秒もしないうちにその全てが消し去ると、虚しくも燃えかすの残り香が鼻腔を掠めた。
「良かったのか」
不意にそんな声が頭上からする。
分かっていたかのようにセツはニコニコ笑いながら声の元に視線を向けた。
落ち着いた色合いの和装。ガタイのいい筋肉質な胸板がチラリと見える。
四十代くらいの白髪混じりの男はセツナとセツの喧嘩に割って入った男性と同一人物であった。
ヘラヘラ笑うセツと寡黙な男とは正反対で、男は木から飛び降りると先ほどルイが立っていた場所に目を向けた。
「当たり前やろ?あの子は八方塞がりになんなきゃテコでも動かんのよ」
男の視線を辿るようにセツも魔法陣があった場所に目を向ける。
そこには何もない。魔法陣も、人の姿も。空間転移をした事実でさえなにも残ってはいなかった。
低く、透き通るような男の声が響く。
「そうか。俺はあの子の事をよく知らない。だから判断は任せる。が、」
男は一旦言葉を区切るとセツに目を向けて、
「──自分の理想にあの子を巻き込むなよ」
鬼気迫る物言いでセツに言葉を投げる。
力強く、一種の脅迫にも似た瞳は違わずセツを射抜く。
しかし、セツはまるで逃げるように視線を合わせることをしなかった。
セツは代わりに目を細めて笑みをこぼすと口を開いた。
「タロット13番逆位置」
「?」
男はセツの言葉を理解できないというように眉をひそめる。
セツはケラケラと笑うと瞳だけを男に向け、風に声を乗せた。
「あん子にはネモフィラ辺りを送りたいものやね。そう思わへん?闘牙はん」
「悪いがたろっともねもふぃらもわからない」
セツはその答えにクスリと笑うと、目線を正面に戻しゆっくりと歩き出す。
やりたいことをやり遂げて、成したいことを成して。別れの言葉の一つも言うことなく、セツはその背を向けるのだ。
ただ、一言だけ言葉を残して。
「ルイが壊れたら、支えてあげてな」
セツの長い銀髪が風に当てられ大きく揺れた。
男──闘牙は歩き出すセツにもう何も言葉を投げることなくその背中を見つめるのであった。
すみません、前の話の編集を重視したいので書くスピード遅くなります!
申し訳ございません!




