ミナミ ユヅキ
「ねぇユヅキ。ユヅキの世界には一体何があるの?」
リネアはよく、ユヅキの元の世界、所謂地球の事について問うた。
初めは身の回りのことから。
映像を映し出すテレビがあり、離れた人への通話を可能にする電話があり、余した自身の闘志をことごとく燃やすゲームがあり。
あれもこれも魔力というものを使わず、電気を応用し、誰でも使用可能な物であると。
「へぇ。ならユヅキの世界はサネスチヲに似てるのかもね。機械の国、サネスチヲ。時間があったら寄ってみようか」
そうして優しく笑うリネアにユヅキは眉を顰めた。
リネアの“ユヅキの世界”という言い方に不満があったのだ。
まるで自分が世界の頂点にいるような言い方。神様的存在であるような言い方に違和感しか覚えない。
その訂正をしてもリネアは一切変えなかった。
「だって、私から見ればユヅキの世界を知ってるのはユヅキだけなんだよ。誰のものとか、ユヅキが神様だとか、そういう事を言ってるんじゃなくて、私は単に“ユヅキしか知らない世界”っていう意味で言ってるよ。つまり略称だね」
そう言って微笑む姿はユヅキが見惚れるほど可憐であった。
リネアの考えている事、思っている事を理解することはできない。
それはユヅキが人の意を汲むのを不得意とするからか、それともリネアが自身の考えを濁す笑顔を持ち合わせているからか。ユヅキは前者だと思っているが、リネアはどう思っていたのか。
言葉にしないと何一つ理解できないユヅキを。弱さを恥じることなく認め、現状維持に励む哀れなユヅキを。リネアは一体どう思っていたのか。
「ユヅキの世界もこの世界も、見えないところで争いが絶えないのは同じなのに、何を違えて皆が剣を握らずにいられるんだろうね」
今はもう、問いただす事は出来なくなってしまった。
否、可能性はゼロでない。生きている可能性はゼロではないのだ。
その屍を目にしたわけでも決定的な証拠を所持しているわけでもない。ならば生きていると信じるのが一番良い。一番安全だ。一番、目標に向かって走って行ける。
けれど、それをしないのは消極的な考えゆえか、それとも、ユヅキの弱さゆえか。
何も言えずただ呆けていると、リネアは決まってこういうのだ。
「ねぇユヅキ。ユヅキの世界には一体何があるの?」
そこに何かを求めるように、リネアは世界を追い求めたのだ。
ーーーーー
意識が地面に降り立つ感覚。
重力を感じ、温度を感じ、背に当たる優しい棘のような刺激を認識する。
自身が横たわっているのには早々に気付いた。何かに寝そべり、薄い布をかけられている感覚も充分理解できる。
目覚めがよくないユヅキはゆっくりと瞼を持ち上げ、見知らぬ天井を数十秒ほど見上げていた。
徐々に覚醒する頭。肌寒さを感じながらユヅキは現状に至った経緯を推測した。
否。しようとして飛び上がった。
「っ──!?」
恐怖の色は顔中に広まり意識をせずとも指先が小刻みに震えているのがわかる。絶え間ない冷や汗が頬を静かに伝っていった。
思い出した記憶はあまりにも残酷で、無残で、夢のような現実だった。
震える手を動かして胸の間に右手を置く。
あいも変わらず動かぬ心臓。それを包む肉片も、当たり前のように存在し、現実を裏付ける血液も傷も何もない。
ただ、あるとするならば、心臓と背中を一直線に突き抜けたように穴を開ける服とローブ、そして胸の間には傷跡がはっきりと白く残っていた。
「ぅ──っは…」
さして動いてもいないのに早まる息遣い。心臓は一瞬、ドクン、と脈打つもそれっきり動く事なくただそこに滞在した。
それはまるで置いてかれたような気持ちだった。自分自身にも置いてかれる感覚。誰も自分に歩みを合わせるものはおらず、腕を引っ張ってくれていた人は一人だったいない。
誰からも見捨てられ、誰からも相手にされない。味方はいない。前を向けば敵だけだ。後ろを向いてもまた敵だ。
恐怖?困惑?不安?激情?ユヅキは自身に疼く感情に名前をつけられないでいた。
それもそうだろう。生きるだけで邪険にされたことも、誰にも味方されないこともないのだから仕方がない。元の世界は、もっとずっとユヅキに優しかったのだから。
──「うひょー。アンタ大丈夫?ひっどい汗やで?」
そんな男性の声に体が大きく反応する。
恐怖。困惑。不安。激情。全てが混ざり合い、ユヅキは備え付けられた暖簾の隙間から顔を出す男、セツから距離をとった。
セツに見放され、リネアに手を引かれてから約一カ月。何もずっと怠惰だったわけではない。訓練も特訓も精神が擦り切れるほどやってきた。
だからこそ今の動きは元の世界ではできるはずもない動きであり、ユヅキの成長を示しているものだ。
そんなユヅキの成長を微笑ましく思ったのか、セツは警戒するユヅキに優しく微笑んだ。
「そんな怖がんないでええよ。と、言っても今は無理かぁ」
セツはケラケラ笑いながら、初めてセツへと畏怖を向けた時と同じ言葉を発して暖簾の奥へと引っ込む。
そして手だけを残してひらひらと振ると、
「落ち着いたならこっちへ来ぃ。お話しよや」
セツは呑気な声発しながらその手を引っ込めた。なにもしないセツに、ユヅキは警戒心をほんの少しだけ緩めた。
辺りを見渡して現状を把握する。
石造りの壁、垂れる自光石と暖簾の掛かる出入り口は一つ。出入り口付近に立て掛けられた蒼銀の剣が自光石の輝きを美しく反射させていた。
部屋の高さは三メートル弱の個室は人が手がけて造ったというより、自然にできた岩の窪みに誰かが住み着いたと言った方が正しい。
現に壁や床に不恰好な凹凸があり、三畳分くらいの部屋半分に引いてあるのは藁のような乾燥した草だ。これが敷布団代わりなのだろうが、イガイガしてたまらない。
部屋にこれといって目につく物はなく、ユヅキは部屋を出るか否かを考えた。
今ここで出たら説明してくれるのか。今ここでセツと対話をすれば何か判明するのか。
教えてくれない可能性はある。嘘を言う可能性もある。
ここで出なければセツはまたどこかに消えるのだろう。
何も残さぬまま、何一つ教えぬまま。
一分か二分か。
セツはユヅキに声をかける事も様子を見に来る事もない。本当に部屋の外に出るのを待っているのだろう。
しかし簡単に部屋から出られるほど馬鹿でも勇者でもない。小心者のユヅキは、気絶する前の出来事をなかった事にはできなかった。
けれどもこのままなのも意味はない。
どうしてセツが接触してきたのか。どうして“あんな事”をしたのか。
気にならないと言ったら嘘になる。むしろ胸ぐら掴んで一発殴った後、一から十まで教え直して欲しいほどだ。
誰も信じず生きるか、再び誰かに頼って生きるか。否、重要なのはそこではない。
今後、セツを信じるか否か。
それが最重要であり、それが最も危難である。
そして、ユヅキの答えは──
「おはよう。よう眠れた?」
──柄を握り締めながら暖簾をくぐったのだった。
「…別に」
「あっはは!あっしは随分と嫌われたみたいやなぁ」
暖簾を通り抜けセツのいる場所まで歩み寄る。
これは自分の意思で来た。憎むべきセツナの眠る剣を携えて。それは揺るぎのない事実で、否定する事の出来ない選択だとユヅキは心の中で決定付ける。
セツは初めて会った時とも、二度目に会った時たま違う和装、袴を身に纏っており、しかし垣間見える胸には痛々しく包帯が巻かれていた。
ユヅキ記憶の中でセツが怪我をしていた様子はなく、何をやらかしたのか疑問を持った。
視線に気づいているであろうセツはその点に関して何も言わず、ただ向かい合うように置かれた丸い椅子を笑顔で指差した。
個室から出れば、そこはもう一つの部屋に繋がっていた。
無造作に置かれた棚には酒と思われる瓶が並び、飲むためのコップは横に置かれた岩の台の上に一つ一つ形の違うものが四つ置かれている。
セツが座るのも切り株のようで、座るものの気持ちを考慮していない。本当にそこらへんにある切り株を持ってきたかのようだった。
椅子と棚と台。それしかない空間は全く生活感のない作りだ。
たまにしか帰ってこないのであろうか。岩の窪みに住み着くなど、そんな変わった趣味を持つ主人がセツだと言われても驚かない。むしろセツじゃなければ、一体どんな変人なのか。気にならなくもなかった。
ユヅキは柄から手を外すが、いつでも反応できるよう剣の鞘を握り締めながらセツの前に座った。
セツが満足したようにニッコリと笑う。
「よかよか。そんなら、お話しましょか」
セツの周りに刀や剣は見当たらない。
警戒しなくて良いと言っているのかそれともユヅキ一人殺すのに武器はいらないと言うのか、はたまたどちらもか。
ユヅキはセツの次の言葉を待った。
のだが、
「あっ!せやせや、あっしユヅキちゃんのために服買うてきたんよ!」
「今そう言う話じゃないですよね?」
「いやー、結構大変やったんよ?魔獣仕様の服やと人間には合わんらしいし」
「あたしは今そんなことを聞きたいんじゃ、」
「それとなー、これあっしとお揃いの──」
「──ふざけんな!!」
巫山戯るセツに対して真面目に答えていたユヅキが我慢ならないといった風に怒鳴りつける。
混乱している、と一言で言えれば良い。現に目には混乱と怒りが混ざり合った色を宿しており、八つ当たりじみた怒鳴りでもある。
しかし心中は一言では片付かないのだ。
状況整理の追いつかない脳。気絶する前に“刺された”という事実。はぐらかす目の前の人物に対する複雑な気持ち。
混ざりに混ざった感情は怒声に乗せられて発されるが、それだけでは治らない。
状況説明を求めているのに冷静になれない自分。不甲斐ない自分に、思い通りにならない人生に、泣きたくなった。
涙をためて睨み付けると、セツは一つ静かにため息をついた。
「ちょーっと緊張をほぐしたろー、って思っただけやのに」
拗ねるように頬を膨らますセツ。
その一つ一つの行動がユヅキの激情を逆撫でする。
しかし。次の瞬間にはセツの表情が真剣なものに変わった。
「アンタも気づいてるんやろ?何で自分は生きてんのか」
直球の言葉。
真相への道。
紅色の双眼がユヅキの黒い瞳を捕らえて離さない。嘘を許さないように容赦のない瞳だ。
見られているだけだというのに圧倒的な格差を叩きつけられているような感覚に陥る。
喉は乾き、指先は冷え、足は笑う。息すらも浅くなる圧力に耐え兼ね、ユヅキはいつの間にか下を向いていた。
そしてポツリポツリと言葉が溢れる。
「…気づいてるよ。気づいてるさ。あたしはアニメもゲームも大好きで、その手のストーリーはよく知ってる。知ってるよ…」
一つ一つのピースをはめるように頭の中で形成していく。
セツの言葉と行動。起きてしまったありえない現象。そして今のセツの問い。
当てはめて仕舞えば簡単だ。むしろ迷う必要なんてありもしない。
笑う足は何を意味するのか。自分自身にも分からぬ反応が自分自身の体に起きている。
恐怖か困惑か。激情か不安か。
ユヅキの喉は震えながらに言葉を発した。
「──あたし、死なないんでしょ…?」
不老不死、という言葉が頭をよぎる。
元の世界で不老不死設定ものは数多く存在する。不老不死の主人公、不老不死の仲間、不老不死の敵。種類は様々だが確かに存在した。
だからこそわかってしまった。だからこそ理解してしまった。
慣れ浸しんだ“設定”が自分に付属されていた事を。
「おかしいよ、わかってたよ。…だって、だってあんな、あんな致命傷受けてるのに傷しか残ってない。あんな苦しかったのに今自分はここにいる。あんな…ちゃんと、心臓刺さってたのに、…あたしは生きてる」
声が震え、視界がぼやける。
いっそこれが夢ならば、最悪な夢を見たと次の日椎名にでも話そう。拓人に語ろう。
いっそこれが誰か別の人物の記憶ならば、可哀想だなと哀れに思おう。涙を流そう。
面白くない。なにも面白くない。
客観的に見るならばこれは喜劇だろうか。凡人が異世界へ飛ばされて自分の家に帰るお話。あぁ、確かに喜劇である。
しかし、それは第三者としての目線だ。当事者はどうだ?その場に生きる者たちはどうだ?
大切な人が死に、憎むべき相手を頼り、いらぬ能力を授けられる。駄作にもほどがある。
人は悲劇を好む者が多い。自分以外の、他社の悲劇を書き綴り、人はそれに心動かされる。
まるで自分のように涙を流したって、結局、それは他人なのだ。
他人、顔すら合わせたことのない赤の他人。演じる人もそれはまた同じ。
他人だから悲劇も楽しめる。他人だから自分という人格を崩さずに感動できる。
他人だから。他人だから心に残る。
ならもし、それが当事者なら。もしその悲劇の中心が自分なら、本当に物語の主人公のように何かを成す事ができる者は一体何人いるのか。
悲劇に涙する者は、人格を壊さずにいられるのだろうか。
「はは…期間限定の不老不死、みたいな…?」
から笑いが空気を揺らす。
当事者になったユヅキ。第三者として楽しめなくなった舞台役者。
例え元の世界に帰れたとしても元の“ユヅキ”では生きられない。
もう崩れてしまった。人格は壊れてしまった。
昔のユヅキはどこにもいない。どこにだってありもしないのだ。
ポタポタと。自身の膝を掴んでいた右手に涙が落ちる。この世界に来て、涙を流したのはこれで何度目か。
八方ふさがり、四面楚歌。そんな状況に何度嘆いただろう。
哀れに、無様に、無力に、愚かに。
押し付けられた理不尽に喉が枯れるほど叫び、授けられた運命に狂気に飲まれながら涙を流し、変わらない世界の理を魂が引き裂かれるほど憎んだ。
この物語が終わるのならなんでもしよう。土下座ならいくらでもする。芝居を所望するなら哀れなピエロにだってなる。
けれどもそれは叶う事などない。終止符を打つ者はおらず、打とうとする者はユヅキしかいないのだから。
ユヅキは何かを言おうと口を開くが、口から漏れるのは言葉ではなく嗚咽だけ。とめどない涙が言葉を発する事を許さなかった。
ユヅキに代わり、セツが声を発する。
「せやよ。アンタは死なん。約四年後、パッタリ死ぬんよ。前触れもなく、予期せぬ時に、充電が切れたようにあっさりと、な」
セツが肯定の意を唱えた事で確定した。これでもう真実から逃げられなくなってしまった。
四年後に死ぬまで死ねない人生が。矛盾しているようで矛盾していない馬鹿げた真実。
四年は確定された生。その後は確定された死。
逃れられない。逃げることは許されない。逃げるとしたのなら、それは元の世界に帰るという一番初めの目的に戻る。
結局初めに戻るのだ。
サイコロを回して双六のコマを進めると、『スタート地点に戻る』マスに止まってしまっただけの事。覚悟も仲間も決意も、何もかもだ。
「せやけど良かったやん」
セツの口からそんな言葉が紡がれる。
ユヅキは訳がわからないといった風に涙でぐちゃぐちゃの顔を上げた。
「これでアンタは怖がるものなーんにもなくなった訳やし?」
セツの口が静かに弧を描く。
それはまるで悪魔のようで、その先を聞きたくないと、聞いては駄目だと全身に警報が鳴る。
しかし、頭が真っ白になり、耳を塞ぐべき手は虚しくも涙を拭うのに使われていた。
セツの口がゆっくりと開く。
「せやろ?死ぬのが怖くて今まで無茶も何もできなかったやろ?
腕をもがれても、心臓を貫かれても、目をえぐり取られても、四肢を切り落とされても死ななへん。よかったよかった。立ち止まる理由はもうなくなってんな」
淡々と繰り出される言の葉。
考えればわかることであり、いつかそうした未来が待ち構えてるかも知れないという可能性の一つでもあり。
目を反らせないその真実を、セツはニッコリと、いつもの笑みで言うのだ。
「──ほんま、よかったなぁ」
良かった。良かった?
ユヅキの中でその言葉が反響する。言葉を噛み砕き、咀嚼し、飲み込む。
けれどそれを冷静で理解できるほどユヅキは出来上がっていない。
理解した途端、理解しがたい感情が足先から頭のてっぺんまで湧き上がった。
そして、
「黙れ!ざけんな!何が、何がよかっただよ!なんも良くない!何も、一つだって良くなってねえよ!」
立ち上がり、怒鳴りつける。
涙は飛び散り今にも掴み掛かりそうな勢いでセツに憎悪を向ける。
止まらない。止められない。自分の感情が操れない。
ユヅキは激情を含みながら視線を下に向けた。
「何で、何でよ…なんであたしなんだよ…!こんな、こんな能力いらない…いらねぇよ!」
叩きつけるような怒声。部屋の隅から隅まで響き渡り感情を露わにする。
理不尽を押し付けられ、逃げ道は逃げ道ではなく、助けてと言う声は聞き入れてもらえない。
ユヅキは未だ座っているセツの胸倉を両手で掴んで立ち上がらせる。
「返せよ。返せよ!あたしの人生返せよ!」
泣きながら、懇願した。怒鳴りつけながら切願した。
お願いします。助けてください。痛いです。やめてください。ごめんなさい。嫌です。助けて。
声は届かない。願いは届かない。
この想いは無価値で無遠慮で無意味で。
けれど、叫ばないと気が済まない。それが、人間だった。
ユヅキは認めたくなかった一言を言葉にする。
「──こんなの、こんなのただの化け物だ!」
化け物。自分は化け物である。
英雄に殺されるためにいる化け物。人々から憎悪を向けられる化け物。存在を否定されるべき化け物。
それが自分。それが“ミナミ ユヅキ”
ユヅキの頬に涙が伝った。
「いらない。いらないから…こんなのいらないから…お願い、かえして…お願い…!」
人生を返して。家に帰して。人格を返して。
今までをなかったことに。全てをなかったことに。元の生活に、元の生活に戻して。
力なくへたり込んだユヅキの体を支えるようにセツは抱きしめた。愛娘を守るように、割れ物を扱うように、優しく、静かに。
セツは口をゆっくりと開いた。
「無理やよ。こんな体にしたのは人間。あっしは何もしてへん。あっしはただ、人類の駒になるために作られた人間を連れ出しただけよ」
静かに発される言葉に、“助けた”の言葉はない。
連れ出したと言ったのだ。ユヅキのためではなく、セツも何かの目的を持ってユヅキを“連れ出した”。
後のことは知らないと、ユヅキにはそう聞こえた。
「駒になりたかったらサネスチヲに行きぃ。手配書配ってまで血眼で探してるけ。それだけアンタは必要とされとるよ」
サネスチヲ。
魔女が封印されている場所だと、奇抜な配色をした女性が説明していたことを思い出す。名前は、ギシアンだ。
魔女の首が封印され、その化身が最近になって現れた。それは黒髪黒目の体内魔力を奪う化け物だと。
それはユヅキだと確定する。
なんらかの理由でユヅキをこちらの世界に連れて来たサネスチヲの住民が、ユヅキを連れ戻すために嘘の情報を流した。
効果は覿面。誰もが信じ、誰もがそれを口にするだろう。
セツはユヅキを抱きしめながら口を開いた。
「嫌なら生きぃ。抗って、争って、他人を蹴落としてでも自分の願いを掴みとれ」
セツの力強い言葉に、しかし背中は押されない。
自分が今、何をしたいのか、何をすべきなのか。
生きたいのか死にたいのか。わからなくなっていたからだ。
第三者の手によって脳という釜の中を掻き回されて壊されて。纏まらない思考を停止する事も許されず、道は一本しかないと定められ。
理不尽を押し付けた目の前の男が、憎くて憎くて仕方がなくなって。それなのに自身の手は、頼るようにしがみつく。
それは嘘でも謝らないセツの真っ直ぐさを見たからか、この世界で頼れる人がセツ以外いなくなったからか、それともユヅキの弱さか。ユヅキの頭では理解できなかった。
不意に、セツがユヅキの両肩に手を置き体を引き剥がす。
半端泣き止んでいたユヅキの視界が一瞬にして狭められた。
お面だ、と気づくのに時間がかかる。お面に触れ、形を確認する。鼻より下のない、顔の半分しか隠されない形の狐のお面だった。
理解して、顔を上げる。
そうすればセツは本当に優しく笑うのだ。今までにないほど、慈愛に満ちた顔で優しく囁く。
「大丈夫。アンタは、今はユヅキやない。今は誰もが憎む魔女の化身やない。今はただ、名もなき小娘よ」
ユヅキじゃない。
ミナミ ユヅキはどこにもいない。
その事実が、嬉しくて、悲しくて、背負うべき理不尽な責任から解放され、自分という人格から抜け出して、もう、なにも“彼女”を縛るものはなくなっていた。
喉を引き裂かれんばかりの絶叫。滂沱と涙が流れ落ち呼吸は不規則に繰り返される。
悲痛を、悲壮を、悲愴を、絶望を。声にならない叫びに乗せられ、消えることの無い傷口を作り出した。
──その日。“ミナミ ユヅキ”の人格は死を遂げた。




