悪役
これは何度目の逃げだろうか。
魔獣との戦闘ではいつも逃げ、リネアを置いてセツナから逃げ、自分の湧き上がる感情に逃げ、ギシアンの言葉に逃げ。
否、もっと。もっとだ。ユヅキは数え切れないほど逃走し続けている。
新たな出会いに逃げたくなる。黒髪の珍しさに目を向けられると意気消沈する。好意的なこの世界の人々に声をかけられると萎縮する。
これが、平和を守られた生活で育った現状だった。
何もかも安全で何もかも不自由なく、娯楽はいつでも味わえる。幸せはすぐ隣にあり、苦しみは遠い彼方へと追いやられた。
ユヅキに特別な過去はない。
虐待されていたわけでも虐められていた訳でも、誰にも言えない秘密があるわけでもない。
よくある時代のよくある話。どこにでもある苦楽を体験した事があるだけの少女である。
だからこそ意味がわからなかった。理解できなかった。
穏やかな日常が、ちょっとだけつまらない当たり前が、理不尽に押し付けられた地位に壊されていく。
たった今気付かされた配役。それは正義の味方でも、村人Aでもない。ただの悪役。
誰かに倒されるためにいる悪役。存在するだけで憎むべき相手。息をするだけで生命を奪い取る怪物。
そう思われている悪役。
──ごめんなさい
走って走って走って走って。
足が引きちぎれるほど、肺が苦しさを訴えるほど、喉がひび割れた感覚に襲われるほど、ユヅキは逃げ続ける。
町を抜け、森に入り、結界を抜け、もう限界だとでもいうように木の根につま先が引っかかる。
止めどない汗と絶え間ない息切れ。活動しだす拍動を重々しく感じながらユヅキは倒れた体を苦し紛れ起こした。
陽はまだ高い。
この世界の時間感覚は理解できていないが、元の世界でいう昼前くらいか。
木陰がユヅキの顔を太陽から隠している。
まるで何かを守るように、まるでユヅキの心を体現したように。
押し付けられた配役が、もし強力な能力を持った闇の魔王や帝王ならばその理不尽も理解できよう。
けれどもユヅキは無力だ。
体内魔力に干渉できる能力も、魔女のように呪いを植え付けることだってできない。
そんな何もできない何も成せない一人の少女が、世界から嫌われる忌子だと。馬鹿げた話にもほどがある。
力を誇示した事がなければ、存在を示したこともない。けれどもありもしない能力に恐怖され、その存在は畏怖される。
噂はたちまち広がるだろう。もう噂を止める方法は存在せず、捕まるのも、もう時間の問題──
──「こりゃ随分と見ない内に酷い顔になってますなぁ」
不意に聞こえたその声に、暗かった表情に灯をともす。
声のする方へ素早く顔を向けると、そこには出会った時とは別の服を着た彼が笑顔で木の枝に座っていた。
東洋の民族衣装のような白い服、長い髪は後ろで結ばれている。そのおかげで頬にある炎の形に似た刺青のようなものがはっきりと見えた。
狐のお面はしておらず、代わりと言ってはなんだが背中にユヅキの身長ほどある刀剣を携えていた。
この世界で初めて会った人。この世界で初めて頼った人。
人を殺すのに躊躇いはなく、いつも胡散臭いくらいに笑みを浮かべ、含みのある物言いで関西弁のような喋りをする人物。
そして。
セツナに忠告をされた、唯一の人物。それが、
「──セツ」
「はいはーい。こっちもちょっと暇になったんで来てみたんやけど、駄目そうやな」
馬鹿にするようにケラケラと笑いだすセツ。
出会った当初のように怖がったり拒絶したりはしないが、強い怒気を駆り立てる人物にユヅキは睨みつけた。
「…何が暇になったからだよ。こっちは、こっちは必死こいて生きてんのだ!あんたの所為でこんな事しなくちゃいけないってのにさあ!あんたはなんでそんなのうのうと生きてんだよ!」
酷く怒声を浴びせる。
こんな事、八つ当たりだとわかっているのに。
それでも叫ばずにはいられない。例え、目覚めた研究所から連れ出す事がユヅキにとっての幸福だったとしても。
「だって…だって誰も教えてなんてくれなかった!誰だってなんにも言ってくれなかった!こんな事になるなんてさぁ!なのに…なのにそんな、そんなのずるい!!ずるい…ずるいよ…なんでよ…なんであたしが…なんで…もうやだよ…」
声が段々と震えていく。
目の前がぼやけ、見上げていた筈のセツが見えなくなる。
暖かい涙が輪郭に沿って頬を伝い、拭ど拭ど止まることを知らない蛇口のように溢れ出す。
前の世界ではこうも泣かなかった。けれどこちらの世界へ来てからというもの涙を我慢できなくなった。
否、我慢できるほどの事は起きなくなったのだ。
代わりに来るのは想像を絶する絶望と、真っ暗闇の未来だけ。
走っていた所為か肺が余計に痛い。漏れ出す嗚咽も度々喉を痛めつける。
悲壮に包まれる中、そんな雰囲気を両断する不適切な声が呆気なく響く。
「えぇえ?これあっしの所為なん?大切な人が死んだのも、それを踏まえて生きてんのも、全部自分の責任やろ?嫌なら止めればええやん」
飄々と答えるセツの言い分は人の気を考えないものだが、それは全くもって正論だった。
生きると決めたのも、歩みを止めないのも全て自分が決めた。選択を迫られたのだとしても決めたのは自分だ。死にたくないと思ったのは自分だ。セツでもセツナでもリネアでもないのだ。
セツは木から体を揺らした。
静かに地面に降り立つと、何も言えず俯いてしまったユヅキの前に足を進めた。腰に手を当て軽いため息を吐いた。
「あんなぁ。別に悲しむなとか落ち込むなとかは言わんけど、それいつまで続けるん?アンタこのまんまやったらずっと落ちこぼれでいこうとしてるやろ。そんなんあほくさいわ」
まるで説教をする先生のように人差し指を立てて動かす。声は真剣なのに表情はすでに呆れている。
見放したのか、それとも始めからそこまで期待していないのか、ユヅキには判断できなかった。
「ええか?この世界は努力をしなきゃなーんもできへん。なんもできへんやつは死に場所だって選べんわ。アンタも、四年も生きられるとか、甘っちょろい考えやめい」
セツの目線が徐々に冷たくなるように感じる。
自分の正体を明かさず、自分の正体を誰も知らない場所で、ただ穏やかに、たった四年を静かに暮らすことは許されないのだとセツは言う。その考えを甘いという。
確かにそれは甘いのかもしれない。立ち向かわず、逃げているのと同じなのだから甘いと言われようと弁解はできない。
けど、
「…無理だよ。もう無理だよ…だってあたしにはなんの力もない。知識だって常識だって、性格だって良くない…今までずっと、何もしないでのうのうと暮らしてたんだよ?急にそんな…そんな剣を持てだの魔獣を殺せだの言われたって無理だよ…わかんないよ」
アニメによく出るチート能力。神から授かった特別な力。与えられた知識や元から持っている適応力、突飛な発想。
よくあるお話のよくある力。それがユヅキには一切備わっていない。
弓ができるからといってそれを魔獣に向けられるかと問われればまた別ものだ。況してや特別な力を持ってたとしてもユヅキが誰かに向けることなど到底できない。
それでも、有るか無いかと比べれば有った方が自信に繋がる。自信があればなにも怖がる事なんてなかったのに。
その言葉を聞いて、セツの表情が明らかに冷たく変わる。
ニコニコとした顔はどこへやら、なんの感情も宿さぬ凍え切った視線とユヅキの怯えた視線が静かに絡み合う。
セツの口がゆっくりと開かれる。
──「なら、何かあればええん?」
──その言葉の意味を受け止める前に、ユヅキは胸の激痛に喘ぎを漏らした。
何が何だかわからない。何が何だか理解できない。胸が痛い。息がしづらい。
目の前が真っ白になるほどの激痛。突き刺すような痛みが頭から足先までを駆け巡る。
一つ咳をするとついでとばかりに零れ落ちる血塊。息が苦しい。
鳴り響く警報音は全く意味を持たない。だってもう、事は済んでいるのだから。
──セツに刺された。それが事実だ。
いつの間にか引き抜いかれた背中の刀剣。
美しくも輝くその剣先は、ユヅキの心臓を容易く突き刺し、背中まで一直線に貫通する。
理解の追いつかない事柄と、理解したく無い状況にユヅキの頭は真っ白になる。
何度か話した相手。一番初めに出会った相手。警戒しようとも、そこに少しの油断と隙ができていた。
後悔してももう遅い。
ユヅキの体から引き抜かれた刀剣。支えにしていたそれが抜かれ、ユヅキは力なくその場に崩れ落ちた。
着々と、黙々と、それでいて生き生きと地面に染み渡る真紅の血液。この量の血液を見るのは、元の世界と合わせて2回目。それも同じ自分のである。
現実から目を逸らしたい。何もかも捨て去りたい。
セツの白い靴が見え、その靴が自分の血液で汚れているのが見える。
──くそったれ…
悪態をつく暇などどこにもなく、ユヅキは苦しいような悲しいような、安心したような表情をしながら瞼を下ろした。
最後に、ムカつくあの中性的な声の忠告が頭の中を反響していた。
ーーーーー
キンッ、と。
長い刀剣に着いた血液を払って鞘に戻す。
眼下で倒れるのは研究所から助けた出したユヅキ。自身の血液と土で体が汚れている。
セツは先ほどの冷たい視線を戻していつもの掴み所のない笑みを浮かべた。
そして、
「運ぶのめんどくさー」
と、空を見ながら叫ぶように言う。
これをやったのは自分で、ユヅキに関わろうとしたのも自分なので誰かに頼もうとか、そういうのは考えていない。あわよくば声を聞きつけた知り合いが助けてくれるとか、思ってもいない。
風が通り過ぎ髪を揺らす。梢の揺れる音がするが、それ以上の事は何もない。
セツがため息をする。が──
──「君は本当に馬鹿だなぁ」
アルトの声が響く。
──刹那。
突風と共にセツの体が吹き飛ばされた。
セツが体勢を立て直す、その前に、今度は横からの衝撃。吹き飛ばされた体は大木を薙ぎ倒して勢いが止まる。
土埃が舞う中、両者共々姿が見えない。
が、
──「はは…あははは!なんやなんやー!随分と酷い挨拶やなぁ!」
笑顔のセツが空を見上げながら声を上げて笑い出した。
ガードに回した左腕の服は破れているがそれだけだ。傷一つだって着いていない。
空を見上げる顔にも大木にぶつけた背中も、擦り傷一つもない。
笑い終えたセツは落ち着かせるように一つ息を吐く。
しかし顔を正面に戻した次の瞬間
──「ほんまアンタなんでいるん?」
酷く怒りと憎しみを含めた笑みで相手を睨みつけた。
見たこともない表情。聞いたこともないドスの効いた声。睨みつける視線は吹き飛ばした張本人に向けられている。
弱き者なら誰もが震え上がるその状況に、吹き飛ばした張本人はというと、
「僕がどこにいたっていいだろう?君の近くにいようが離れていようが、君に報告する筋合いはないと思うけど?」
落ち着いた様子で、まるで日常会話をするように答えた。
荒れていた土煙が収まる。
視界を遮っていたそれが邪魔にならぬよう退散していく。
薄汚れた服。破かれた黒いローブと柄一つない黒い靴。腰に携えた蒼銀の剣が煌びやかに太陽の光を反射させる。
そこにいたのは
「やぁ久し振りだね、セツ。あの日以来だけど、機嫌はどうだい?」
──瞳を真っ赤に染めるユヅキだった。




