風を切る音
大通りに一人、黒いローブを被りながら道の端を足早に歩く。日本人は歩くスピードが速いというのは本当らしく、ユヅキの体は何人もの人を通り抜けて前へ前へと進んでいた。
人通りの多い大通りに旅人は珍しくなく、例えフードを深く被っていようが目立ちはしなかった。
目的地は特にない。これから先、どうするかすら決めていない。決められない。
立ち止まる、という選択肢もあるが、見知らぬところで留まるのはユヅキの心が保たない。
ならば歩みを進めるのかと問われれば、素直に頷くことも叶わなかった。
「──お姉ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんんん!」
定まらない思考の中、聞き覚えのある幼さを残した甲高い声が聞こえる。
フードをずらして目線を上げればそこには頭に包帯を巻いたルアが笑顔で走ってきた。
驚くユヅキをよそにルアは足を止める事なく、そのままユヅキに飛びつく。「えへへ〜」と笑いながらユヅキの安否を確認したのだった。
ユヅキもまた、ルアが生きていた事に静かな喜びを感じていた。決して自分が助けたのではないが、それでも純粋に“生きている”事へ何よりの感謝を抱いたのだった。
「あのねあのね!ロイルが私たちを助けてくれたんだって!」
興奮したように喋るルアの瞳はキラキラと輝く。聞いた事のある名前にユヅキも少し反応した。
ロイル、というのは先ほど会った青年の事だろう。気絶する前、鎧の音が聞こえたのは気のせいではなかったらしい。
彼は何一つ言ってこなかったので、助ける事は彼にとって当たり前なのか、それとも羞恥から隠したいのか。
なにわともあれ、後でお礼の一つでもしようとユヅキは思った。黙って出てきてしまったこともあり、乗り気にはならなかったが。
ユヅキはルアを静かに撫で、体制を直す。
微かに微笑むが、今はそれすらも辛かった。
痛みはもうない喉から声という音を出すのも、自分の意思とは関係なしに入ってくる雑音も、わがままで自分勝手なミナミ ユヅキという人格も。何もかも、嫌だった。
ルアの笑顔が消えてしまわないように、ユヅキはただただ笑うのだ。
「あのね!お母さんがお礼したいっていうの!お姉ちゃんこの後空いてる?」
「……」
ルアの問いに、ユヅキはゆっくり頷いた。
予定など一つだってないのだから断る必要もない。それに断る理由が思いつかなかった。
何もしていない自分が感謝される。
後ろ指を指されているような感覚に、ユヅキの心は引き絞られた。
しかし──
──スパァン…
と。
あまりにも聞き慣れた、あまりにも身近“だった”音がユヅキの鼓膜を微かに振動させる。
目を見開いて空を仰ぐ。体は動かず、その音だけに耳を傾けていた。
「お姉ちゃん?」
ルアの声が聞こえるが、ユヅキの体は動かない。
そしてもう一度同じ音を聞くと、ユヅキはルアの言葉を無視して音のする方へと歩いていた。
この世界に来てからは一度も聞くことなかった旋律。
昔、ずっとそばにいたその音。その感覚。その匂い全てが記憶から呼び起こされる。
謎の高揚感にいつの間にか駆け足になったユヅキがついた一つの場所。
古い一階建ての横に長い建物。出入り口は一つで横開きのドアが開いた状態で客を歓迎する。
入り口には誰もおらず、ユヅキは迷わずその中へと入った。
木造りの床とコンクリートで固められた壁。靴を脱ぐスペースはなく、ユヅキは土足で廊下を進んだ。
細長く作られた、たった二メートルほどの廊下を抜ければ見えてくる音の源。
九メートル前後の道場と四、五十メートル離れた円の白と黒で描かれた的。
道場の右端に位置する入り口の対角線上にはもう一つの部屋に続く扉が開かれており、そこから見える道具は綺麗に整備されていた。
その場にいるのは数十人の痩せた男たちだけだった。皆、来客者など気にせず一心に自身の腕を磨いている。
礼儀も何もないその光景は、見慣れたものとは似ても似つかず、けれど、面影を感じさせるものだった。
「お姉ちゃんっ…速いよ…」
後ろから、トタトタと息を切らせてながら追いつくルア。一度深呼吸し、ユヅキが釘付けになっている“それ”に目を向けた。
「お姉ちゃん…?」
ルアの声は耳に届いているのに。目の前の事に目が離せなかった。
やりたい。もう一度手にとって、肌で感じたい。
そわそわし、いてもたってもいられない。
気持ちが異様に高ぶっているのがわかる。
歓喜。それは歓喜だった。
もう一度出会えた事への喜び。釘付けになったあの感覚が間近にある歓楽。
ユヅキの瞳は子供のようにキラキラと輝き、先ほどまで感じていた胸の空洞が綺麗さっぱり無くなったようだった。
「…やる?」
思いがけない問いに目を見開いて素早くルアに視線を向ける。
そして嬉しさのあまり首が取れるかと思うほど首を縦に振った。
ルアはクスクスと笑うと、近くにいた三十代くらいの男に「すみません!」と声をかける。
こう見ると、自分よりも年下の、それも小学生くらいの少女に奢ってもらっている気分だった。
「おお!ルアちゃん!もう怪我は大丈夫なんかい?」
男はルアを見るとにっこりと笑みを浮かべる。膝を折り、ルアと目線を合わせた。
「うん!もう全然平気!
あのね!お姉ちゃんがこれやりたいんだって!」
「お姉ちゃん、って後ろの黒い奴?」
そう言いながらユヅキに目を向ける。ユヅキと一瞬目が合うがお互い自然と視線を逸らした。
何かやましい事があるのではなく、単にお互いが興味なかっただけだ。
ユヅキはその感覚に気を取られ、挨拶もしないユヅキの態度に不満を見せた男。ただそれだけだ。
「そう!」
「ルアちゃんの知り合い?」
「友達!」
「そうか!なら退院祝いにお友達もルアちゃんも今日は何回でもやっていいよ!」
「本当!?やったー!!」
話が纏まり、男が奥へと進む。ルアもユヅキの手を引きながら「行こ!」と言って手を引いた。
「お姉ちゃんってこういうの好きなんだねぇ」
ルアが独り言のように呟く。
ユヅキの目的。ルアの視線の先。そこには──
「でもお姉ちゃん似合いそう!」
──弓矢があった。
ユヅキのやっていたのは弓道だが、この場にいるものがやっているのは弓術かアーチェリーだ。弓道ほど武道を重んじているわけではなく、あくまで的を射抜くことを重視した鍛錬。
弓道と弓術の境界線はかなり曖昧だ。
道具も見た目も似ており、弓術が改名したのを弓道という。
なので目安として、弓術は本当の戦場で使う技術、弓道は止まった的を射抜く技術というわけだ。弓術は動く的を射抜くことを目的とするので、弓道とは構え方から異なっていたりする。
奥に進むともう一つの部屋に入った。
ほとんどの機材はアーチェリーのようだった。鉄のように固く、それでいて軽い素材。
地球ではアルミニウム合金、カーボン、高分子ポリエチレンという物で作られるが、こちらの世界では銀牙という素材で作る。
色々な物に応用可能で、軽くて硬いのがウリの素材だ。
ユヅキはそこそこ広い部屋に埋め尽くされるようにある色々な弓を目を輝かせながら見渡した。
「んー、黒さん初心者?初心者なら補助具とかなにやらが沢山付いたものがいいと思うけど。あっ、胸当てつけてねー。付け方わかる?」
ユヅキをかってに黒さんと呼び、相手の意見も聞かぬままユヅキに黒い胸当てを手渡す。
形的に弓道で使う胸当てに似ていたので、ユヅキも相手の言葉に反応する事なく胸当てをつけた。
胸当てとは、弓道をやるほとんどの女性が身に付ける。弦が胸に当たらないようにするための装備であり、胸筋のある男性も付ける場合もあるので決して女性限定ではない。
これをつけないと乳首が吹き飛ぶかと思うほど悶絶するのだとか。
「矢はなんか色々あるから好きなの取っていいよ〜。実際オレここの管理人じゃないからわからないんだよね〜、ちょっとしか」
男が飄々と笑うが、ユヅキには笑いどころがわからず、ただのだる絡みだと受け取り男の話を耳からシャットダウンした。その男を管理人もどきと名付けて。
ユヅキは一通り部屋の中を確認したが、残念ながらユヅキの求めた“ゆがけ”やそれに類するものはないようだ。
ゆがけとは親指、人差し指、中指を覆う手袋のようなもので、弓に張られた弦から指を守るために作られた和弓ならではの道具だ。
親指に木、または水牛などの角を筒状のものが包むよう仕込まれている。親指から手首部分までカチカチに固められており、紐で手首を締める事により親指から手首までの自由がきかなくなり安定する。
ゆがけがこの世界には存在しないと判断したユヅキは一番奥に立てかけられた弓に歩み寄った。
「おいおい…黒さんあんたそりゃ無理よ。初心者にはいかんせん向かんし…」
ユヅキはその言葉を無視して弓を手に取ってみる。短弓で弓道に使われる弓に似てるが、和弓のように長弓ではない。
ユヅキがやりたいのは長弓であり、求めているのはこれではない。
後ろでは男とルアが「…なぁルアちゃん。あの子喋れないの?」「喋れるよ!お姉ちゃんと喋った事あるもん!おっぱいないけど!」「おっぱいないのかぁ〜…」と、一発殴ってやりたい会話をしていた。
ユヅキは二人の会話を中断させるように口を開く。
「…あの。これの長いやつはないんですか」
「うぉ?あぁ、まぁ多分あるとは思うけど…」
男がやめておけと目で訴えるが、ユヅキの止める気のない気配から男は一つため息をつくと一旦部屋を出た。
戻ってきた男の手には二メートル強ある木の弓を持っていた。
両手で受け取り弦を引っ張ってみる。
別の場所にしまっていたくらいだ。誰も使っていないのは明らかだが、埃が被っている様子も弦が緩んでいるわけでもない。ここの管理人のマメさが伝わってきた瞬間だった。
弓道の時に使っている矢に最も近い矢を二本取り、道場へと足を踏み入れる。
はじめに、後ろで見ていた者が驚き、そして馬鹿にしたように笑い出す。
その笑いに反応するように、矢を打っていた者達が何事かと振り向き、そして同じようにユヅキを見てあざ笑うかのように口角を上げた。
居心地が悪くなったユヅキはフードをより一層深く被る。誰とも目が合わないよう、自分だけの空間を作る。
ユヅキが射場、すなわち弓を打つ場所に立つと、ユヅキを見世物にするかのよう見物客が増えていた。
思うところはあるが、ユヅキは一度深呼吸をして、脳の中身をカラにする。
思考を停止し、弓だけのことに意識を傾けた。
──まず。
左足のつま先を的から一直線になるよう立ち、静かに身長の半分程度に開く。
二本の内、一本は小指と薬指で持ち、もう一本の矢を弦に当て、妻手、つまり右手の親指と人差し指、中指を添える。
矢の先は親指の上に置き、そして右手の甲を天井に向けるよう弦を捻り、矢と弦を保持する。
この時。よく間違えられるが決して親指と人差し指で矢と弦を摘んで引いているわけではない。
人差し指と中指をくっつけ、親指を中指の下に入れる。
矢は親指の上に置き、第一関節部分で支える。弦は親指に引っ掛けた状態にするのだ。
本来なら、ゆがけに親指の付け根に浅い断層があり、そこに弦を引っ掛けるのだが、この場にゆがけは存在しない。ユヅキは痛み覚悟で親指の付け根に直で弦引っ掛けた。
弓を引き分ける前、両拳を上に持ち上げる。
そして、上にあげた状態から、弦を3分の1程引き取った状態で一旦動作を止め、一呼吸置いた後、さらにゆっくりを押す。弓を持つ左手の親指の付け根を自身に見せつけるようひねりながら。
一旦止めるやり方は武射系に由来する射法の引分け方で、他にもおろし方は二種類あるが、ここでは端折らせて頂く。
弓道はアーチェリーと違い、弦を引くのではなく、弓を押して開くのだ。
アーチェリーと和弓の違いには他にもある。アーチェリーは補助具を付けていいが弓道は不可であり、弓道はアーチェリーのように的の中心に近ければ近いほど点が高い訳ではなく、“武道”を重んじる姿勢から矢が的にあたる以外にも弓の打ち方構え方で点数が加算されるのだ。
キキキ…と、弦の軋む音が優しく聞こえる。
矢は右ほほに軽く添え、鼻の下から唇の間までの高さにする。
番えた矢に沿って目線を動かし、静かに的へと顔を向ける。
そして──
──弓は放たれる。
風を切る音。
口では表しにくいその音はほんの少し弧を描きながら的へと吸い込まれていく。
突き抜ける音がその場に木霊し、心の奥底に響かせた。
的に当たることはなかったが、武道を重んじる姿勢を見せつけられた見物客からは、おぉと静かな歓声が響く。
ユヅキの体制は右腕が大きく右方向に伸びたまま数秒保たれている。
腕を下ろし、そして2本目の矢を指で支え──
──『ねぇユヅキ』
あの人の声が脳裏を掠めた。
──『パズルって知ってる?何枚かのピースを繋ぎ合わせて、一枚の絵にするんだよ。側面が出っ張ってたり凹んでたりして、その形に合ったピースが隣同士になる』
いつの日かリネアが空を見上げながらそう呟いたのを覚えている。
一体何を伝えたかったのか。それは今になってもわからぬことであった。
──『何となくね。何となくパズルって人と似てる気がするんだ。それぞれの個性が合って、たまに似てたりするんだけど、それでもやっぱり違う。長所も、短所も。他と合わさって、やっと成せる事がある』
弦に矢を引っ掛け、指を添える。
先ほどの動作を、繰り返す。
──『それは魔獣だったとしても変わらないんだと思うんだ。そこに人間だとか魔獣だとか関係なくて、結局誰だって欠けてたり膨らんでたりする。ユヅキの世界には魔獣がいないからよくわからないと思うけど、私達の世界では魔獣と人間は絶対に相容れないし、相容れちゃいけない。そう教わるし、そう強要される』
弓を押し、
的を定め、
そして──
──『私は魔獣の考えがわからない。理解できない。会った瞬間敵だと認識してしまう。けど、ユヅキは違うよね?私はできなくて、ユヅキには出来る』
──『それを忘れないで、ユヅキ──』
──矢を、放てなかった。
ユヅキの両腕は力なく降ろされ、弓と矢は呆然とする管理人もどきに押し付けてその場を走り去っていった。
弓道の知識はあくまで調べた範疇なので、間違っていたのなら申し訳ありません…




