建前の楽しさなんて
もう少し早く書きたい…
数分が経過する。その間一度も地響きを捉えることはなかった。
根の隙間から見える景色をユヅキは膝を抱えながら呆けながら、こんな狭いところに入るなら剣を鞘に入れとけばと思う。
何も考えず身を隠したため、剣は鞘から抜き出したままの状態なのだ。
残念な事に鞘にしまう動作を行える程のスペースが存在しなかった。
薄暗く、ほんの少し湿っている洞穴は無駄な動作はもちろん、必要な動作ですら制限される。
隣の少女がいなければ動きやすくもなるが、少女がいなければそもそもここには辿り着いていなかっただろう。そのことに文句を言うつもりは毛ほどもなかった。
太陽光が隙間を照らす。
ユヅキたちのいる場所は自然に造られた、というより、土が人工的に掘られているような場所だった。
どれ位時間をかけたのか知らないが根の隙間から少しずつ少しずつ土を掻き出して大の大人が身を屈めて入れるくらいの大きさまで広がっていた。
背を倒せばすぐ根と土が壁を作っている為全くもって広々としていないが、どうしてだか横に長く造られており左右に余裕はまだあった。
ならば剣を鞘に収められるのではないか、と思うかもしれないがそれは否だ。
剣を持つ手は右手。少女がいるのも右側。
下手に動くと少女を傷つけかねず、ユヅキはただただ膝を抱えて隙間を覗いている他なかった。
少女は警戒しながら外を見ていたが、咆哮も地響きも聞こえなくなったのを確認して少女もまた息を吐く。
良く良く見れば少女は予想より若いかも知れない。
ふっくらとした頬は柔らかそうで、世界を移す瞳は可愛いくらいに大きい。健康的な赤い唇は天然ものだ。
至極冷静なユヅキは光のない瞳で少女を見つめる。
「ぁの…」
掠れる声で呼びかけた。
聞きたいことが山ほどあり、それを後回しにするのは些か不安があった。
小さく聞き辛い声だったが少女の耳には届いたらしい。振り向いた少女はユヅキを見上げると眉を八の字に下げ、心配そうな表情をしたのだった。
「お兄ちゃん、怪我大丈夫?」
幼少期特有の高く柔らかな声は純粋で、真っ直ぐユヅキの心に届く。
ユヅキは痛みを我慢しながら苦笑いをした。
「まぁ…うん。…あと、あたし女、なんだ」
何よりも一番言いたかった言葉を少女に告げると、少女の目がギョッと見開く。
可愛らしかった瞳は何処へやら。口をあんぐりと開き信じられないものを見るようにユヅキを見た。
そして、
「…ない」
「初対面なのに酷くない?」
少女はあろう事かユヅキの胸に自身の手を置いて、絶望したようにポツリと呟いたのだ。
顔を蒼白に染め上げた少女に対してユヅキの冷静なツッコミはもちろんで、少女はユヅキのペッタンこな胸を撫で回すと恐る恐る顔を上げた。
「…男になりたいの?」
「ねぇだから酷くない?」
圧倒的歳下のため怒ることはできず、呆れたように苦笑いをする。
それでも少女は「すごい…」と可愛らしい声に反して毒を吐いた。
ユヅキ自身、特に胸が小さい事を気にしていない。むしろスポーツをやる上で邪魔なものだったため小さくてよかったと思うほどである。
その為、デリカシーの欠ける男子に貧乳だのなんだの言われようが別段気にしなかった。強がりではなく本心として。
しかしながらここまで絶望されたことは初めてだった。
何に絶望しているかはわからないがお化けか何かに出会ったかのように目は遠くを見つめ「お母さんは大きいのに…」とボヤいている些末。
確かに幼児期は母親の体しか見てこず、温泉に行って他人の体に驚く、といった話はよく聞く。
それに似た感覚なのかもしれないが、それにしたって初対面の人に毒を吐くのは酷い。
そんな訳も分からない少女と話していたからか心にほんの少しの余裕が生まれる。あぁ可愛いな、と思えるようになる。
頬が緩み無意識に口角が上がり、その瞳に光が垣間見えた気がした。
ユヅキは、未だ呆然としている少女の胸にソッと手を置く。そして、
「ちっさ」
「なっ!!
先ほどの仕返しをしてやったのだった。
ニヤリと上げる口角はオモチャを見つけたように楽しそうだ。
少女は恥ずかしそうに頬を赤らめて声を上げる。
「ち、小さくないもん!まだ子供だもん!お、お姉ちゃんはもう大人でしょ!」
詰め寄る少女の反応は初々しく、可愛らしさについニヤケてしまう。
ユヅキはからかうように口を開いた。
「あたしだって子供だよ?子供だからまだ胸ないんですー」
「お隣さん家のミクちゃんは大きかったよ!お姉ちゃんより大きかった!」
「大丈夫。あたしこれから成長期だから」
「ダメダメ!これ以上大きくなりませーん!後は私に抜かされるだけですー!」
むー、っと頬を膨らます少女。
よもや何を競っているのかわからない会話に、ユヅキと少女は同時に吹き出した。
あはは。ふふふ。二人は笑い出す。先ほどの緊張感が嘘だったかのような、ゆったりとした時間が流れた。
──否。
ユヅキは懸命に目を逸らしていた。
苦痛から。罪悪感から。痛みから。過去から。今にも爆発してしまいそうな内に潜む何かから。
どす黒くて曖昧で。漠然としていて壮大で。底深くて魅力的で。
魅惑のそれに手を伸ばせば人格は不要であり、対話を必要とせず、執着は不必要で、その身朽ち果てるまでこの世の理不尽に復讐を仕掛けよう。
あの甘美な“声”に従えばなんでもできる。なんでもなせる。そんな気がしてならないのだ。
苦しみの果てに泣き崩れるだけの生きた屍になるのか、世界に刃向かい執念の果てに朽ちるのか。
後者の方が生きている実感が持てるだろう。例え世界に名を残せなくとも、自分は生きたと声を張り上げて言える。
けれども、そんなものに身を委ねてしまったのなら、感情を捨て去り衝動的な想いだけを信じるのなら、本能だけで生きる魔獣と何が違うだろう。
食べて寝て。食べて寝ての繰り返しの日々に“ミナミ ユヅキ”という存在は必要ではない。必要なのは、それでも生きてやろうと願う妄執だけだ。
人格を捨て、魔獣に成り果てるのか。
妄執を捨て、人間として生きるか。
そんな選択から、ユヅキは目を逸らしていた。
「──あっ!」
少女が不意に声を上げる。表情はどうしてかにこやかだ。
ユヅキは思考を停止し、少女に首を傾げる。
少女は歯を見せながら笑った。
「私、ルア!えっと、趣味は手芸で、好きな事は探検する事!ここの洞穴も友達と作ったんだよ!」
少女、もといルアの言葉に感心する。
名を聞く前に自分から名乗る。それをしっかりと守るルアはまるでユヅキより歳上のようだった。
そんなルアの笑顔は、太陽のように暖かく優しかった。
その笑顔を見ると頼ってしまいたくなるような衝動を覚える。抱擁感のある暖かい笑顔は、純粋だからこそなせるものである。
だからこそ、同じように笑う“あの人”とどうしても重なってしまった。
不穏な感情を無視するようにユヅキは無理やり笑顔を作り口を開く。
「あたしはユ──」
──言葉を遮るように轟音が轟く。
それはなんの前触れもなく訪れた。
至近距離から轟音が響き、大地を揺らす地響きがユヅキたちの体を上下に揺らす。
和やかな空気が一変、緊張した趣で二人は根の隙間から景色を見つめた。
──しかし、
「なっ!?」
見えたのは魔獣、ではなく、勢いよく飛んでくる一本の木だった。
一直線に飛んでくる木は根っこから力任せに引き抜いたような形をしており、それでいて直径約二メートル、長さ約十メートルの丸一本の木だ。
木は迷う事なくユヅキ達の隠れる樹木に突進し、木の折れる音を立てながら細い枝から太い枝まで木っ端微塵に砕かれる。
しかし折れきれなかった幹の部分は、役目を終えたかのように重力に伴い根の張る地面に重力に伴い落ちてきた。
勢いよく落ちて伝わる振動は、近くにいたユヅキたちによく伝わる。
ルアは反射的にユヅキのローブを掴み、ギュッと目を閉じた。ユヅキもルア守るように痛む左手に鞭打って抱きしめる。
不幸中の幸いか、樹木はユヅキたちの真上ではなくほんの少し左側にズレていたので、真上から落ちてくることはなかった。
ユヅキたちの位置からでは見えないが、唸る根を持つ樹木は所々傷が付いただけで折れたり傾いたりしなかった。
それほどまでに強く、頑丈な樹木なのである。
ゆっくり。ただゆっくりと、“それ”は姿を現した。
「っ──」
ユヅキはその光景に息を呑む。
体長四、五メートルはある巨大な体は少し見ただけで筋肉質だ。
上腕二頭筋は膨れ上がり胸筋はかなり肉厚。尻には長い尻尾が一つ。猫に似ているが、大きさが比にならない。
四足歩行で歩く巨大な魔獣は、例えるなら筋肉を付けすぎたゴリラ。しかし顔はまるで別人で、潰れた鼻はまるでブルドッグのようである。
ユヅキはそれを見ただけで絶対に敵わぬ相手だと悟る。
いや、身体中がそう警告している。うるさいほどの警報音がパトライトと共に暴れ出す。
──あれはやばい ──あれはいけない
──逃げなきゃ
──無理だ
どこかへ消えていったはずの恐怖が産声を上げる。
己の存在を主張する。逃げろ逃げろと怒声を響す。
息が自然と上がり“それ”から目が離せなくなる。止まっていた心臓が緊張を煽るように高鳴った。
冷や汗が額から頬へ、頬から顎へと伝わりポタリと地面に雫を作る。身体中の痛みが、全て抜き取られてしまった感覚に陥った。
息が詰まり、“それ”から目が離せなくなり、全身の熱が増幅し、脳はあの日の記憶が再現された。
あの時の思いが。
あの時の絶望が。
あの時の感覚が。
音を立てて思考を侵食して行いく。
──『ユヅキー!』
あの人の声が蘇る。
あの人の笑顔が生き返る。
あの人の“最後”が甦る。
血生臭さを思い出して吐き気を催した。
目線を外し口元を押さえる。どうにか吐くことはなかったが空っぽの胃を引き絞られる感覚は存分に気分が悪い。
ユヅキは口に手を当てたまま、漆黒の瞳をもう一度魔獣へと向けた。
幸運な事に赤みがかった黒色の瞳の“それ”とは目が合っていない。だからこそまだ体は動くし、だからこそ思考が無駄に働きかける。
逃げろと叫ぶ臆病な自分と、
立ち向かわなくてどうすると脅す自分が。
立ち向かう必要なんてどこにもない。このまま何もなくやり過ごせられたのなら何よりの幸福だ。
しかし、それは逃げではないかと疑問に持つ。
今までだって逃げて逃げて逃げて逃げて結局何もかもゼロへと還った。掴みたかった手を取れず、離したくなかった存在は体を掠めた。
それは逃げたから。今までずっと逃げてきたから。
並べられた選択肢ですら目を背けて笑顔を被せた。そのツケがきた。あれはただ、それだけの結果なのだ。
──「いいや。いいや。君は殺せる。いつだって殺せる」
再び。謎の声が脳に直接語りかける。脳が第三者の手によって揺さぶられる感覚は、これで三度目だ。
ルアの様子を見れば、変わらずユヅキの胸の中で硬く目をつぶっている。魔獣の意識から逃れようと身を固めている。
そうして確信した。この“声”が聞こえるのは自分だけなのだろう、と。この“声”は他でもない自分だけに言葉を紡いでいるのだと。
中性的な声はもう一度声をかけた。
──「君は殺せる。だってその力を持っているのだから」
訳がわからないと叫びたい。
そんな力、あったのならもう使っていると。そんな力、ないからあんなに苦しんだのだと。
しかし、声はその考えを否定する。
どす黒い何かが、脳内を侵食した。
──「さぁ、名前を呼んで?
君は知っている。聞かなくたってわかっている。名前を、知って。
ねぇ、そうだろう?」
わからない。わからないわからない。
吐き気は全身に回り、脳が揺さぶられる感覚が強くなる。
ばらばらに崩れた思考は留まる事を知らずに彼方此方へ走っては消え、歩いては消え。纏まらない。
ユヅキは“何か”に抗うように口元をより一層押さえた。
押さえて、気付いた。口に感じる違和感。否、手に巻かれたそれの存在を。
恐る恐る、どうしてだか恐る恐る口元から手を退けて中を見る。そして、
「──ぁ…」
それはユヅキの思考を正常に戻した。
チェーンで繋がれた銀の板。鷹に似た絵が彫られている巧妙なネックレス。
リネアの持ち物。唯一リネアがそこにいたと証明できるもの。リネアが大切にしていた騎士団の証。
リネアならなんと言う?この状況で指示を出すとしたら、彼女だったらなんと言葉を投げかける?
突っ込めか?逃げるなか?抗えか?立ち向かえか?
否。否。
ユヅキは胸に収まるルアをもう一度見る。
すべき事。
それはルアを守る事ではないのか。
命を無駄にしてまで戦えと、絶対に逃げてやるなと、そんな無謀な行動をリネアなら絶対にしないだろう。
命はなんににも変えられない。それは一番大切で優先すべきものである。
誰かのために、誰かのためにと剣を振るって来たあの人。ユヅキはその背中を追い続けた。追って、追って。
ついにそれは掴めなかった。
──ユヅキはルアの肩を強く握りしめたのだった。




