空は青く遠い
長くても週に1話、投稿していきます!
痺れるような痛みが喉に響く。ただ空気が通り抜ける、それだけで痛覚は律儀に痛みを脳へと届けていた。
腫れた喉に左手を添え、口を開けて声を出そうとする。が、空気の出入りする虚しい音しか出てこない。自分の声はどんなものだったのか。思い出すのもままならない。
傷口の痛みは慣れたのか、激痛ではなくなっていた。
頬は涙の乾いた所為で動かしにくくなり、目は水分を出し切ったかのように乾きっている。ついた血液はユヅキを嘲笑うかのように暗赤色へと変化させていた。
──あれから何日過ぎたのか。
無残に泣いて、無様に叫んで。
両膝をついて頭を抱えて。そこから一歩も動くことなく、阿鼻叫喚は木々の間をすり抜けた。
夜行性が多い魔獣が一体も来ていないということはそれほど時間が経っていないのか。はたまた近づけないほど、ユヅキの叫びは哀れに狂気が含まれていたのか。
当の本人は知ることなどできない。
「…つかれた」
口から溢れた。
息をするように。意図して言ったのではなく、ただ、溢れた。
掠れた声が。自身でも、聞こえるか聞こえないかの声が。
雨上がりの葉から水が滴るように、閉じたはずの蛇口から雫が落ちるように。
小さく、自然に、溢れたのだ。
つかれた。本当に疲れた。
安心しきって寝れたのはリネアと別れる前の数日だけ。剣を持たされ必然的に狩に出かけなければならなかった日々は苦痛でしかない。
疲れた。もう疲れた。
数学の公式すら覚えられなかった自分が魔獣だの魔術などの勉強をしなければならなかった状況も、誰かに物事をはっきり言う事が出来ずにいる自分が変わらなければ生き残れない現状も。
もう放り出したい。逃げ出したい。
椎名ならもっと前向きだったかもしれない。
椎名がこちらの世界に来るはずだったのだからそれもそうだろう。
ユヅキのように前に進めず、うじうじとその場に立ち止まっている人より、椎名のように誰かのために動ける正義感の強い人の方が誰だって求めるだろう。
ユヅキは椎名じゃない。わかっている。わかっているのに。
もし、この場にいるのが椎名だったらと考えてしまう。
椎名だったらリネアを助けられた?
椎名だったら時間もかけずに元の世界へ帰れた?
椎名だったらセツに宣言した通りに諦めずに前に進めた?
長年近くにいたユヅキだからわかる。
ずっとそばにいたからわかってしまう。
答えは、
──YESだ
椎名なら超えられた。
椎名なら手が届いた。
椎名なら、大切な“誰か”を守る事が出来た。
いつもそうだ。いつもユヅキの知る椎名はなんでもできてしまう。
才色兼備。文武両道の椎名。
ほんの少し料理は苦手でも、それを補える何かを手に余るほど持っていた。
椎名ができるからユヅキはやらない。椎名が引っ張ってくれるからユヅキはただ後ろについていくだけ。
そんな日々が続いた。そんな日々が日常だった。
変えようと思わなかった日常。変えたいとも思わなかった当たり前。
誰かの陰に隠れることを良しとして、ユヅキはいつも椎名の背中ばかりを見ていた。そして、リネアにもそうした。
──そこでふと、不穏な想いに狩られる。
もしここで、死んでしまったらどうするのだろう、と。
どうする、という言い方には矛盾がある。
死んでしまったらその後など自分にはどうすることもできないのだから、言うならば“どうなるのだろう”である。
しかし、ユヅキが思ったのは“どうするのだろう”である。
自分は死んだらどうするのだろう。
自分が死んだら椎名はどうするのだろう。
自分が死んだら拓人はどうするのだろう。
自分が死んだらセツはどうするのだろう。
──自分が死んだら、世界はどうするのだろう。
否、どうもしない。
世界はたかが一人のために止まったりしない。ましてや別世界の人間など、関係ないにもほどがある。
痛む身体を無視して、ユヅキは右手に持つ剣を空に掲げる。
べっとりとついた生々しい液体は太陽の光に晒されて光沢を放っていた。
ユヅキは虚無の瞳でそれを見る。何を見ているのか、どこを見ているのか、わからない。
ソッと。
剣先を自分の心臓へ向ける。左手を剣の側面である剣脊に添えて。
まるで、何かに祈るように。目を閉じて、心を無にして。
風が頬を撫でようが、川のせせらぎが絶え間なく聞こえようが、潮風が鼻腔をかすめようが、ユヅキの心に邪念が混ざることなどない。
ほんの少し、瞼を持ち上げる
青々しい空が見えた。痛いくらいに眩しい太陽が見えた。雲も、しっかりとある普通の空。
変わりばいのない、空。雲ひとつない晴天でも、雨雲覆う不穏な空でもない。よくある、いつもの空だ。
いつもの空はその偉大さを強く訴えていた。
自分の存在の小ささを痛感させられ、人間が地に縛られている感覚にすら浸る。
人間は空を飛べない。魔術を用いて風を作り浮くことはできるが、それを維持するのは難しい。
魔法道具を用いて似たような事はできるも、すぐ魔力の底がつく。それはどんな大魔術よりも、単純で難しい魔術の一つであった。
そんな空を、自由に飛び回ることなど一生ないのだろう。
自由に。まるで鳥のように。何よりも自由に。
死を恐れず、生に縛られず、強い欲もなければ、貧弱な自身も持ち合わせていない。そんな自分に──
──なれるわけ、ないのに。
自分の考えに嫌気が刺した。
今更何を思ってもこの心を揺らすものはない。感情は無のまま、ただただユヅキの中に閉じこもる。
ユヅキは再び瞼を閉じる。
この世界から目を逸らすように、今いる現実から逃げ出すように。
いっそこのまま、死んでしまえれば──
──刹那。木々の隙間から悲鳴が駆け抜ける。
甲高い、まだ幼さを残した声。
空高く響き渡る悲鳴は握りしめていた力を緩めさせた。
悲鳴が聞こえた方に目を向ける。
木々は風になびき、別段変わったところを見出せない。けれども遠くの方で鳥に似た魔獣が飛び去っていくのが見えた。
そして徐々に感じる地響きと轟音。何かがこちらに近づいてくる。それだけはわかった。
──しかし。
だから何だと言うのだ。
自ら手を下すのか、魔獣に食われるのか。その違いだけではないか。
むしろ自身の体が誰かの為に貢献できるのならばその死は無駄ではない。
自分の身体を余すことなく食らいつき、そして明日の生きる糧になれるのなら自身の死は単なる無駄死にではなくなる。
弱肉強食。そのサイクルから抜け出せず、ただ強者に捕食される。
そこら辺でさっさと命を絶ち、その肉が腐り果てるのなら、せめて最後だけは誰かのためになるような行いをしたい。そう思った。
ユヅキは足掻くことなく、まだ見ぬ魔獣にどう食われるのかを想像していた。
四肢をもがれるか、腹を引き裂かれるか、はたまた即死か。
恐怖、よりも、ここで終われる安堵の方が大きかった。
終われる。もう、終われる。
もう誰かを傷つけなくて良い。もう誰かに傷つけられなくていい。もう、死という未知の領域に恐怖を覚えなくていい。
「───」
ゆっくり息を吸って、そして吐く。
ただそれだけでも痛む喉。ただそれだけで軋む体。
気を抜けば散らばってしまいそうな意識が痛みによって繋ぎとめられる。ゆらゆらと曖昧な意識の中、ユヅキは右側、十数メートル先にある木々の間をじっと見つめた。
そして──
───走ってくる一人少女の姿を捉えた。
赤い頭巾を被り木の籠を両手に抱える少女。
頭巾から見える髪は濃い茶色で両側を三つ編みに結んでいる。鮮やかな黄色の瞳は涙を浮かべていた。
はっきりとした容姿は頭巾で隠れてしまって見えないが、身長や雰囲気からして十になるかならないかの歳だろう。
ユヅキは彼女を見て死した目を見開いた。
それもそうだろう。ここは結界外だ。
それは魔獣に襲われたことが何よりの証拠である。
なのにそこには少女がいる。それも一人で。
結界の外に出るなど親が許すはずもなく、家出だとしても荷物が少なすぎる。それに単なる家出なら安全な行路を行けばいい。わざわざ森の中を通る必要なんてこれっぽっちもない。
十歳程度の少女が生死が付き纏う結界外に出る理由は一体何なのか。ユヅキには思いつくことはなかった。
ユヅキが息を呑み固まるのと、少女のくりくりとした瞳が合うのはほとんど同時だった。
少女の目が見開かれ、走るために動かしていた足がゆっくりと止まる。
肩で息をしながらユヅキを、ユヅキの髪を見る。真っ黒に染まるその髪の毛を。
そしてゆっくりと視線をずらす。頬、服、腕、そして腕の傷の方まで。
ありとあらゆるところに血がこびり付いているのを見て、少女は顔を引きつらせた。
しかしそのまま突っ立っているだけにもいかない。
後方からドスの効いた咆哮が聞こえると、少女はハッと我に帰る。
一瞬だけ躊躇うが、少女は覚悟を決めたようにユヅキの元に来ると剣を持たぬ左手を掴んだ。
「お兄ちゃん!こっち!」
「──ぇ?」
甲高い声で少女は叫ぶ。
掠れた声で応答するが、少女には聞こえなかったらしい。
少女は無理やり左腕を引っ張ると、ユヅキの体は痛みに飛び跳ねる。息が詰まり、視界がチカチカと点滅する。
しかしながら前を向いて懸命に走っているせいでユヅキの苦痛など気づきもしない。
足だけは怪我をしていないユヅキだ。走れると言えば走れるのだが、満身創痍には変わりない。
待って、だの、痛い、だの。そもそも自分はお兄ちゃんじゃなく言うならお姉ちゃんだ、とか。
言いたい事は沢山あるのに痛む喉はそれを許さない。漏れる声は虚しい程の息遣いだけ。それに加え、症状の身長に合わせて屈みながら走る体制は幾分か困難である。
足を進めて行けば必然と息も上がる。息が上がれば喉の痛みが熱とともに倍増した。
ゼェゼェと。過呼吸にも似た息遣いで謎の少女について行く。
少女は川を上流に少し走ると木々の間へと体を進めた。
迷いのない足取りは目的地が分かりきっているが故か、それとも無我夢中で迷う暇もないのか。ユヅキには判断できぬものであった。
木々を抜け、右へ左へ。そして右へ。
少女は進む。見知らぬユヅキの手をしっかり握りながら。
魔獣の咆哮が後方からするのがわかる。ユヅキには距離も位置も予測ができず、これがリネアだったらと思うとユヅキの心臓は握りつぶされてしまったような感覚が胸いっぱいに広がった。
手を引かれる。手を、繋いでいる。
椎名にはいつも手を引かれてばかりだった。優柔不断なユヅキを引っ張っていつも先頭きってズンズン進むのだ。
ユヅキはただ後ろをついて行っただけ。椎名はそれでいいと言ったし、ユヅキもまた不満は一切なかった。
リネアと手を繋いだのは一番最初だけだった。
出会ってすぐに曖昧で不振なユヅキに手を差し伸べたのは他でもないリネアだ。
異世界などという馬鹿げた説明に対して真面目に受け止め、それでも手を差し伸べて引っ張ってくれた。
少女の姿が、二人の影を掠めて、そして消えていく。
一瞬重なった背中を、否、ずっと重ねていた背中を思い出し、ユヅキは視線を地面に落としたのであった。
──ごめん…
それは誰に対しての謝罪なのか。
リネアか、椎名か、それとも誰にも向けていないのかもしれない。謝罪して、許された気になりたいのかもしれない。
ああ、それならなんて汚れた答えだろうか。
人の命を、魔獣の命を奪っておきながら許されたいだなんて、なんて強欲な。
己の罪を背負いきれず、謝罪をして責任放棄など甚だしいにもほどがある。
背負わなければいけない。罪を。
見つめなければいけない。罰を。
己を見つめ直し、生きていかなければならない。
──そう、頭では理解しているのに。
少女に腕を引かれながら苦しげに走っていると、急に目の前が真っ白になる程の光を受けた。
顔を背け、徐々に目が慣れて来たところで瞼を持ち上げた。
そこには一本の木が太陽の光を独り占めして佇んでいた。
直径約五メートル、高さ約二十メートル。木の大きさはさほど他の木々と変わりはしない。だが、その根源だけは異様な光景を作り出していた。
木の根がその地を埋め尽くしていたのだ。
地面が見え隠れするほど、根が浮き出ては地に潜りを繰り返す。無数に重なり合う木の根。それが一本の木から生み出されたものだと証明するように、佇む木の周りには一本たりとも生えていない。
草も木も、その木から一定の距離を置かなければ芽生えることはない。
一種の壮大な絵でも見ているような感覚にユヅキの足はピタリと止まってしまった。
前を行く少女が根に生える苔に気をつけながら一歩一歩進む。少女に引かれるユヅキはただ呆然としながらついて行った。
人間の何百倍をも生きているであろう壮大な一本の木。
木の幹に辿り着くと、少女は一旦ユヅキの手を離して身を屈める。幹の根元には大きな窪みができており、少女は重なる根っこの出っ張りを上手く避けながら中へと体を滑り込ませた。
「お兄ちゃん!早く!」
振り向いてそう言う少女にユヅキは曖昧に頷いてただただ従うしかできない。
この少女は誰なのか。一体何から逃げているのか。
何一つわからない状態で、ユヅキは少女の判断に身を任せた。
少女より体の大きいユヅキが窪みに入るのは些か難しく、何より傷に当たった激痛で出たり入ったりを繰り返しなんとか身を沈める。
湿気の多い空間で、ユヅキはやっと息を吐いたのだった。




