今、終わる。
始まり始まり…
──この世界は残酷だとつくづく思う。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
規則的に揺れる電車の車体は心地よい。
窓から太陽の光が包み込むように南 柚月を照らしていた。真冬の日差しはつくづくずるいと思う。心地よすぎる。
二つの心地よさは正にダブルパンチで、瞼を閉じれば睡魔という悪魔に食べられてしまいそうだ。
何もなければ食べられていただろう。
「──だから!そこは優先席です!」
美しいソプラノの声を張り上げる一人の少女。茶色い髪はハーフアップに纏められ、その身を茶色いコートで包んでいた。コートの下から見えるスカートと生足は見惚れるほどスタイルの良さを伝えている。
その声を受けるのは高校生ぐらいの三人組。ニット帽の青年、茶毛の青年、ケバい女。良い感じに個々の個性が滲み出ている3人だ。
事の発端は約5分前。
彼らの座る場所は優先席で、先ほど乗ってきた老人に席を譲らなかったことが原因だ。
青年達は気づかぬふりをして大声で話し続け、そして周りの人も『代わりましょうか?』という言葉をかけずにスマホをいじる。
柚月もそのまた一人で、人見知りを理由に老人に声をかけることができなかった。まぁ“人見知り”と言う名の言い訳のようなものであるが。
そこで立ち上がったのが茶色い髪の少女。
少女は柚月の隣で座っておりスッと立ち上がると老人に声をかけ、席を譲った。
良いことだ。
こう言う人がいるからこそ、この世界は捨てたもんじゃないと柚月は思う。のだが。
彼女がしたのはそれだけではなく、青年達に物申したのだ。しかも堂々と。臆することなく。苛立った様子で。まるで挑発するように、
「そこが優先席だって知らないんですか?バカなんですか?」
──正義の味方か何かかよ…!
心の中でそう思い、出来ることなら伝わってくれとも思ったがそこまで上手くはいかないものだ。
むしろ心の声が伝わった方が怖い。いや、アニメ好きの柚月のことだ。テレパシーが発芽したのかとウハウハしてしまう。
──ほっとけばいいのに…
柚月は一つため息を吐いた。
面倒ごとに首を突っ込み揉め事を起こすくらいなら自分が我慢すれば何も起こらない。
何も起こらない事は平和だ。つまらなくとも平和は大切な事である。
ほっとけない性分とは、よく言えば物事をはっきり言える。悪く言えば何でもかんでも首を突っ込むお節介だ。
悪いとは言わないが場を弁えてほしいと柚月は思った。
少女の言葉を初めに青年と少女の言い合いは言葉を重ねる毎に熱を増していった。
「はぁあ?だからなんだってんだよ」
「優先席は譲るものです。譲るべき相手がいるときはちゃんと譲ってあげてください。あとうるさいです」
「ぶ、はっはっは!オレさー、昨日駅で足ひねって痛いんだよねー。これって譲るべき相手じゃない?」
青年が誰もがわかる嘘をケラケラ笑いながら言う。
さすがの柚月もおかしいとは思ったが、それを言うだけの勇気はない。しかし彼らから目を離せないのも事実だ。
その時点でわかりましただの、そうですかだの言って終わらせれば良いものを。少女は「なら」と続けてしまう。
「皆さんの迷惑になるのでもう少し静かにお願いします!うるさいです!」
──やめて…ほんとやめて…!!やめろ!
柚月の内心はひどく荒れた。表情には一切出ていない。冷や汗はかいているが。
目立つ事を好まない柚月にとって、口に出すことはできないが誰かを心配する心はしっかり持っている。
もしこの後少女が路地裏に連れ込まれてあれやこれやと暴力を振るわれたなんてニュースになったら今日の自分を恨むだろうし後悔の日々だろう。
と、言うより、柚月には目が離せない理由がもう一つあったのだ。
それは──
「周りの人が困っているのがわからないのですか!?」
──頼むからやめてお願い椎名…
柚月はとうとう頭を抱えて苦しんだ。
そう、茶色い髪の少女は柚月の古くからの友人で、そして今日の外出予定に関わる人物でもあった。
友人が立ち向かっているのに柚月は何もしないのはおかしいって?むしろ立ち向かえる人の方がおかしいと柚月は思う。どうやったら見知らぬ誰かに堂々と注意できるのか教授してほしいものだ。
彼らにどうして注意をしなければならないのか。迷惑だと思うなら車両を変えるなりなんなりして避ければ良い。
そう、嫌なら自分が動けば良いという考えの柚月は自身の友人の考えを否定するものだった。だからこそ動ける勇気はないし、助ける勇気も持ち合わせてはいなかった。
ニット帽を被った青年が口を開く。
「はぁ?誰もんな事言ってねーだろ」
「言ってなかったとしても!ここは優先席です!静かにして、席を譲るのがマナーではないんでしょうか?」
椎名の言い分は全くもって正論である。正論であるが、残念なことに正論が全て突き通せる世界でもない。
曲論を無理やり正論に捻じ曲げる事だって可能なのだ。金や権力、暴力さえあれば。
睨み付けてもなお、怯まない椎名に対して青年達は立ち上がる。さながらカツアゲされ中の光景であり、危機が一気に迫ったのがわかる。
緊迫する状況。張り詰める空気。
三対一という圧倒的不利でも真っ直ぐ睨みつける椎名。
誰もが目をそらし、誰もがその後の展開に釘付けになる。
止める者はおらず、椎名に味方はいない。
時は最悪へと流れて───
「──連れがすいませんっっ!」
椎名の後ろから第三者の声が声を上げる。
勢い良く紡がれた言葉。誰が何を言おうとする前に、間髪入れずそのまま椎名の手を掴むと、閉じようとしている扉からダッシュで駅のホームへ降りていった。
ちょうど近くにエスカレーターがあり、そこを全力で駆け上がっる。手を繋いだまま椎名が後ろから抗議の声を上げた。
「何で止めたの!?どう考えてもあっちが悪かったじゃない!」
眉を釣り上げて憤怒する椎名。
またもこれは正論である。そして連れ出した本人、柚月は少々面倒そうにため息混じりで言った。
「あのままいってたら喧嘩になってた。…というかもう喧嘩だったけど。大喧嘩になったらどう考えてもめんどくさいし、喧嘩ほど周りに迷惑なものはないよ」
最後の理由は取って付けたものだが、面倒なのは本音だった。
椎名は正義感が強い分面倒事によく巻き込まれる。
面倒事は全て受け流すのがモットーの柚月であるが、あのまま放って置くほど外道ではない。
青年達に立ち向かう恐怖か、昔からの友人を見捨てる罪悪感かを比べたところ、罪悪感の方が辛いと思い行動に至ったのだ。
アニメの主人公のようにスパパンッと敵を倒せるほど、柚月に勇気も強さも持ち合わせていないため逃げる一択になってしまったのは仕方がないだろう。誰もがかっこいい主人公になれる世界ではないのだから。
柚月が平然と続ける。心臓はまだバクバクと恐怖を訴えているが。
「それにちょうど降りる駅だったしさ」
「それはそうだけど…」
ここまで畳み掛けられると何も言えない椎名は言葉を詰まらせる。
先ほどまで釣りあがっていた眉はハの字に下がり、しかし溜まった憤りを発散するように柚月の手をギュッと握りしめた。
柚月は一度深呼吸をして顔を下げる椎名の額にデコピンを食らわせた。
「と、まぁさっきのはなかったことにして遊ぼっか!せっかくあたしが録画したアニメを前日に制覇して空けた休日なんだからさ」
ニカリと笑うとそれに吊られて椎名も満面の笑みで「うん!」と言った。
その二人は側から見ればカップルに見えるが二人とも実は女だ。
片や椎名は可愛らしくお洒落をしていて、片や中性的な顔立ちでボーイッシュな服を着ている柚月。うってつけに手も繋いでいる。これをカップルと言わないでなんと言う。
周りの視線など気にせず並んで歩く。
クリスマスになるととても賑わう場所だがクリスマスは残念ながら終わっている。今はもうお正月飾りでいっぱいだ。
今日の予定の本題は映画を見ることである。ついでに二人の誕生日パーティでもあった。
誕生日は一ヶ月ほどズレている二人だがそこらへんの予定はあまり気にしない。予定が合わなかったのだから仕方がないと割り切って。
たわいもない話をしながら歩いていると大きな映画館が見えてくる。黒い外装の映画館は大きな存在感を放っていた。
信号が赤から青に変わり、さぁ映画を見よう!としたその時だった。
──ふと嫌な予感がした。
漠然とした不安。もしくは巨大すぎる疑問。
言葉にできない何かが胸の内に広がる。
だがその漠然とした“何か”を理解するよりも先に、誰かが「危ないっ!」と叫んだ。その所為で予感はどこか頭の隅へと追いやられる。
そして、可笑しな風景に目を疑った。
──視界の端に大きなトラックが、猛スピードで突進してきていた。
スローモーションのように流れる情景のおかげで、現状の理解はすぐさま追いつく。
──信号無視
たった4文字の言葉が、とても重く感じられる。しかし理解したところで何も意味がない。
恐怖が地の底から湧き上がり、足先から頭のてっぺんまで石のように固まった。
一歩先にいた椎名の両目が大きく広がる。それが異常にハッキリ見える。
繋がれた手に、力が篭る。
ギュッ…っと、痛みにも似た感覚。暖かく、そこに確かな存在を感じ、柚月の硬直は溶けるように解放された。
心臓が飛び上がる。息をするのも忘れてしまう。
視界も動きも全てがスローモーション。人間、脳が危険を感じると血管を収縮し、血液を凝固させるという。
怪我した瞬間、出血を少なくする為だそうで、命を最優先した脳はその他の機能を低下させてしまう。その結果、本来視界の情報を脳に送り届ける信号が鈍足し、見える世界がスローモーションになるというのだ。
しかし、そんな事、今の柚月には知らぬ情報であり、要らぬ情報だ。
時間という概念が捻じ曲がったような空間で、脳は焦りを灯し、“最善”を導き出す事ができない。
──柚月はいつの間にか、椎名を思いっきり横断歩道の外へと突き出したのだった。
押し出した瞬間、頭の中に疑問がよぎる。
自分は一体何をしたのか。何をしているのか。
硬直していた右足を力一杯踏み出し、椎名の体を両腕で押し出した。
たったそれだけの事を理解するのには、時間が足りない。
──傾く体。
──近づく車。
──倒れる椎名。
椎名が尻餅をつくのと体へ大きな衝撃が走ったのはほぼ同時に思えた。
勢いのついた衝撃を感じた時には視界がグルリと回っていた。詰まる息と揺さぶられる脳味噌。鮮血が視界の端に微かに映る。
情報処理が追いつけない。脳は役に立たない。
スローモーションはまだ続く。痛みも、視界も全てが遅い。
ゆっくり、ただゆっくり視界は移り変わり、脳が揺れ、痛みを回し、真っ青な空が明るく輝く。
──次に来るのは、激痛。
「がはっ!」
鈍い音を鳴らし硬いコンクリートに打ち付けられた。内臓が傷つき口から血が吐き出される。
ぐるんぐるんと勢い余って回転する体は、反対側の歩道に設置されていた柵にぶつかりやっとのことで制止する。
柚月の耳には何かが激しく衝突する音が聞こえた。トラックが、どこかの壁に突っ込んだのだろう。
柚月はそれを目で確認する事ができない。
首は持ち上がらないし何より息がしずらい。地面に広がる赤い液体が何を意味するのか。
鼻腔を掠める血生臭い匂い。口一杯広がる鉄の味。
血だ、と理解するが、それが自分のものだとは到底思えなかった。
妙に息苦しく体中が激痛と熱に見舞われる。
視界はぼやけ、感覚も狂いどちらが地面なのかすら理解できない。五感のほとんどが痛みという信号を運ぶために切り離されたようだった。
──なぜ椎名を庇ったのだろうか。
柚月は朦朧とする中でそんな事を考えていた。
実際柚月は自分より他人を優先するほど出来てないし優しくない。
椎名のように正義感が強くないのだから、もし、立場が逆転したとして、椎名が柚月を押し出したのなら誰もが納得できよう。
しかし、それを柚月が行った。柚月を知っている人物ならば、必ずや正体を疑うだろう。
本人ですら理解できない行動であっても、“助けた”事に他ならなかった。代償は、自分だ。
答えを出そうと必死に考えるも頭が回らない。
誰もが驚愕し、ある人は口元を押さえ、ある人は面白半分で携帯を取り出している。
いつの間にか柚月の目の前には大粒の涙を流しながら叫んでいる椎名が見えた。
その叫びを理解したいのに柚月の耳は“声”を届けるだけで、“言葉”を理解するための脳がきちんと機能しなかった。
段々と、その景色さえもしっかりと目に捉える事が叶わなくなっていった。
黒に犯され侵食され。椎名の顔が塗りつぶされる。
“理解”や“判断”を置き去りにして、柚月の脳は自身の思いを告げていた。
──終わりか
──これで、おわり
──今までの努力も、我慢も、全部
──ここで、オワリ
──嗚呼
──なんて気持ち良いんだろうか
ぼやける景色の中、最後に見えたのは、美しい黒髪を持つ印象的な男だった。
痛覚なんて、どこかへ消えた