違う
「は──ハァッ、ハァ───」
口から絶え間なく息が漏れる。大きく肩で呼吸をしても止まることはない。
叫んだ所為か、空気が通り抜ける度突き刺すような痛みが喉に走る。
血生臭さが充満するこの場所を作ったのは紛れもなくユヅキである。謎の声に従順に従い、敵を滅多打ちにした。
魔獣の腹は引き裂かれ、贓物は悲惨にも溢れ出す。濁った瞳は最早何一つ写しておらず、力無く無残な姿で横たわっていた。だらしなく開かれた口から泡が噴き出すものもいる。
ユヅキは剣を支えにして上半身を起き上がらせた。
──その瞳に、狂気はない。
瞳孔は元に戻り、正常がユヅキの体を駆け巡る。
静まる思考がその悲惨な光景を捉え、そして、
「──ぇっ…?」
目の前の光景に絶句する。
息をするのも忘れ悲惨なそれらに釘付けになる。
撒き散らされた血液。切り刻まれた肉片。生気の抜き取られた器。
記憶はある。感覚も覚えている。
魔獣が絶叫する声、肉を切り裂く感覚、血潮が噴き出す情景、憎しみを含んだ視線。
記憶はある。あって、しまった。
込み上がってくる胃液が口内に溜まる。
前のめりに倒れこみ嘔吐物を思いのまま吐き出す。溢れ出す。
口から出てくるのはリネアと共に食した朝食。ほとんどが消化され液体化した黄色い物体が、刺激的な香りを発し血生臭さと混ぜ合わさる。
吐いて。吐いて。吐き続け。
空っぽになった胃を、それでも絞り上げて胃酸が吐き出す。口内に残る酸味が憎たらしいほど存在を主張していた。
落ち着いた頃にはもう空っぽだった。
燃え上がる感情も、荒れ狂う心情も、冷静に辺りを分析する脳髄も。
それは自分がやったと認めたから故か。それとも単に目の前の情報を脳に送り届けていないのか。
悲惨に転がる一つの死体には無数の切り傷が目に入る。深々と刻まれた治らぬ傷。消えない傷。
あれは自らがやったのだと。あれは己の中に潜む激情だと。
何度も。
何度も、何度も。
倒れた体に刃を突き刺し、引き抜き、また突き刺し。それを機械のように繰り返し繰り返し行い。
もう息のない命を弄ぶように存在を蹂躙し、尊厳を剥ぎ取り、生きる意志を嬲り続けた。
「ハ──っ」
細い声が吐き出される。
嫌な汗がベットリと背中に張り付く。ユヅキ自身を追い込むように、縛り付けるように、攻め立てるように。
ユヅキの見開かれた瞳には恐怖が揺らぐ。
それはこの光景にではない。それは死闘を抜けたからではない。それは一人ぼっちという空間だからではない。
──自分が命を奪うことに快楽を感じていたからだ。
相手を傷つける事が恐怖の対象でしかなかったあの頃が嘘のように。
敵を刺した時、自身の口角は上がっていた。
子供がただ純粋におもちゃで遊ぶ感覚ではない。強者が弱者を甚振るそれだ。
命の灯火が消え去る瞬間を、ただただ陶酔していた。
そんな自分に、そんな感情に、何よりも恐怖を感じた。
「リネ、ぁ…」
息をするように弱々しく吐き出された言葉。
助けてとでも言いたいかのようにユヅキの瞳に涙が浮かぶ。
震える足に鞭打って。剣を支えにしながら歩き出す。
ゆっくり、ゆっくり。
動くたびに痛みが脳を支配する。動くたびに頭が現実を見せつける。
焦る気持ちを押さえつけ下流へ下流へ足を進める。
どうしてだか、あともう少しで何かを見つけてしまうような気がした。
見つけたくない何かを。知りたくない事実を。
しかし不安と恐怖は、脳に急げ急げと叫び出す。例え歩くよりも遅い速さでも、ユヅキは足を動かした。
走って
走って
走って、
走って。
体の痛みが、喉の痛みが。肺の痛みが、脳の痛みが、内臓の痛みが、芯の痛みが。その痛みだけが生への実感であり、また死への恐怖だった。
苦しくて、苦しくて。
急ぎ早まる足に比例して苦しさが倍増する。
酸素が足りない。血液が足りない。息がうまく吸えず、開閉を繰り返す口は全くの意味をなさない。
脈打つ心臓が焦燥感を煽りだす。
一つ拍動が聞こえるたび、一つ恐怖が募る。
今にも吐き出してしまいそうな感覚が脳を鈍らせ意識はとうに眩んでいた。
太陽が昇り始め、鮮やかな光が川の水を照らしていた。暗かった辺りが現実を照らすかのように明るく輝く。
力無く走り続けたユヅキの体にもその光に照らされ痛々しい傷が露わになる。
左腕の噛まれた後は無数に存在し、破れた装備には血液が滲む。
頬も首も手も足も、ついた血液が時間を経て固まりつつある。
その色は皮肉にも暗赤色だった。
「っ──はぁ──!」
絶え絶えの息が吐き出され今にも倒れてしまいそうな足取りは止まることを知らない。
死の存在を間近に感じながらもそれには目を向けず、ただ、前へ前へ。足を進める。
何も見たくない。
何も背負いたくない。
何かに頼れるのなら、誰かに縋れるのなら、ユヅキは迷わずそれを選ぼう。
もう二度と抗わない。もう二度と抵抗しない。
誰かの言葉に従いましょう。貴方の言葉に尽くしましょう。
己の命運を託し、いつなる時も貴方に服従することを誓いましょう。
だから──
「──りねあ、っ…」
名前を呼ぶ。名前を呼ぶ。
縋るべき相手の。依存したい相手のその名を。
一人は嫌だ。不安が募ってどうしようもなくなる。
孤独は嫌だ。誰も頼れない恐怖で押しつぶされそうになる。
惰弱と罵られるだろう。脆弱だと笑われるだろう。
命のやりとりが常日頃行われるこの世界で、ユヅキはそれほどまでに非力で虚弱で惰弱で脆弱で軟弱で薄弱で。何一つだって足りてはしなかった。
足場の悪い河辺を歩く。歩く。
あの手を掴むため。もう一度掴むために。
そして──
──朝日が昇る海岸は今まで見た中で一番美しかった。
海岸。つまりは最終地点。
見逃す部分はどこにもなかった。あの暗赤色を見過ごすことなどあり得なかった。けれど、見つけられなかった。
走って走って歩いて歩いて。やっと辿り着いた終着点には誰も、何もいない。
その事実が脳天から叩きつけられ、ユヅキは糸が切れた人形のようにその場に座り込んだ。
どうして、の言葉は出ない。
何故、という思考は見いだせない。
目の前の現実を受け止めたくない。受け止められない。
蹲り、髪の毛を痛いくらいに握りしめる。
喉は徐々に痛みが増して、目頭は燃えるように熱くなる。
誰かの叫び声が聞こえた。
喉の痛みでそれが自分だとわかった。
痛く、痛く。それは喉が痛いのか、傷が痛いのか。それとも胸が痛いのか。
真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ面白味のない人間だったユヅキに叩き込まれた運命。
──心が、摩耗する
擦れて、千切れて、血が通うたび、痛みが全身に回るよう。
──神経が麻痺する。
噛みちぎられた左腕が上がらない。涙を拭う為の両腕は使い物にならない。
血が滲み、肉が裂けて骨が見える。
熱い。痛い。苦しい。なのにそれすらも覆うような激しい憤りと悲壮。
肉体的な痛みを凌駕するほどの感情を今まで持ったことがあっただろうか。
──嫌だ
声にならない声が、言葉にならない音の旋律が。不穏な悲しみを孕んで響き渡る。
──助けてください
咆哮と呼ぶに相応しく、されど誰かを戦慄させるものではない。
吐き出される叫びは、誰に聞かれる事もなく虚しく空に消えていく。
──やめてください痛い嫌だ助けてお願いだって嫌だ何もしてないあたしは何もしてない何も知らない痛いやだ助けてなんで嫌だどうして誰も教えてくれなかった痛い痛い痛い熱い助けてお願い待って嫌だどうしてヤダヤダヤダヤダヤダヤダ──!!
混ざり合った感情が大きな吐き気を呼び覚ます。
胃の中にあるもの全てを撒き散らしてしまいたい。吐き出して喚き散らして。何も知らなかったと公言したい。
けれども、体は意に反してそれを行わない。行き場を失った醜い吐き気は、胸に無理やり居場所を作る。吐き気が何をしたって付き纏う。
隣で流れ行く川は、美しくも儚い朝日の光を反射させていた。
木々の間を風が通り抜け、梢がそれに伴い揺れ動く。
よくある風景。かけ離れた日常。何よりも、美しい眺めだ。
けれど自分だけが、世界からきっぱりと切り離されたようだ。
誰もいない。誰も知らない世界。そんな空間だった。
本当なら今すぐ立ってリネアを探さなくてはならないのに。
一秒でも早く、リネアの元へたどり着きたかったのに。
手を伸ばして、もう一度笑って『ありがとう』と伝えたい。『ごめんなさい』と伝えたい。
なのに。実際は無様にも地面へ這い蹲り喉が引きちぎれるほど叫んでいるだけ。ただ、それだけ。
脳に制止を求め、痛みを発する喉。焼きつくような痛みは、しかし、制止する価値の無いただの痛みだった。
手に、服に、顔に、体に。こびり付くアカイエキタイが血生臭い悪臭を漂わせる。
服の裾は悲しいくらいに引き裂かれ、そこから見える痛々しい傷の数々に目を向けることはない。絶え間なく溢れ出す液体にすら、感覚を許さない。
【敵】を殺して【敵】に切り裂かれ。
どちらともわからぬドス黒い液。それが何より怖かったのはつい最近の事だというのに。
誰かを切り裂くのも、誰かに切り裂かれるのも。
その後、溢れ出すエキタイも。嫌で嫌で怖かった。
なのに今は何故かそれが気にならない。
否、気にする事ができなかった。
瞳から溢れる生暖かい雫を感じる事など許されない。そんなの卑怯で自分勝手だ。
今までそうしてきた。これからも、多分、そうする。
仕方ないと言ってしまえれば簡単だ。責任を投げ出して名も知らぬ誰かに押し付けてしまえれば、何も考えず生きていくことができよう。
しかし、それをしないのはなぜだろうか。
投げ出す事も受け止める事もせず、現状に悔やんで苦しんで足掻いた証拠だと言わんばかりに叫んでいる。
叫んだところで何も変わりはしないのに。
それにこの叫びは卑怯だ。
自分は良くて相手は駄目。【敵】は良くて【味方】は駄目。
それは卑怯。それは理不尽。
──けれど。だけれど。
自分の中の“ナニカ”がキリキリと変形していくのがわかる。
自らの手で憎むべき相手の首を締め付けるようにその大切な、大切だった“ナニカ”を握り潰す。
心臓が引き絞られ、虚しさ、悲哀、虚無が絵の具のようにかき混ぜられた。
その痛みが、苦しみが生きている証拠だなんて、なんて憎たらしいのだろうか。
嫌悪感が一帯となって襲いかかる。
生きている。自分は今生きている。
執着したはずのその結果は、今や嬲り殺してしまいたいものとなっていた。
──痛い
──痛い、痛い
呼吸ができない。体が動かない。胸が苦しい。肺が痛い。心臓がうるさい。気持ちが悪い。吐き気がする。何も、したくない。
死にものぐるいの結果が、“コレ”だと言うのならば、この先の“生”は絶望でしかない。
死よりも惨めな、生よりも残酷な何かが待ち受けている。
叫んで。叫んで。
意味のない事を繰り返してなんになる。
そうだとわかりきっているのにやめられない。いや、わかりたくないからやめないのかもしれない。
弱い自分を誇って、それを正しい事だと思い込んで。ただ、手を伸ばすことを諦めた哀れな【ニンゲン】
──リネアが死んだ…? 違う、違う違う!!
手を、掴めなかった 自分の所為
違う!! でも だって
何が違う 見捨てたのは誰だ
逃げたのは誰だ 嫌だ うるさい!
見たくない だって 違う
嫌い
真実は 信じたって
あぁ やめて 違う
手を、
違う ふざけるな
違う違う違う
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!!
もう戻れない。もう抜け出せない。
例え、その身、その心が生き残ろうとも、
「ああぁぁあぁああああぁあああぁぁあああぁぁあああああ!!!!!!!」
──ミナミ ユヅキという存在は、もうどこにも存在しない。




