壊れたのはいつからか
振り回した剣を恐れて飛び退く魔獣。
ユヅキの肩から漏れ出す真っ赤な液体を一つ残らず吸い取るのは切り裂かれた装備だった。追い払いで払うと約束していた商品を破いてしまっては怒られてしまう。
それも、ここを切り抜けられたらの話だ。
噛まれた経験などないユヅキはあまりの痛みに息を詰めた。いや、野良犬がいない現代の日本で、殺意を持って噛み付かれる事などほとんどない。
噛まれたとしても甘噛みだ。骨に到達するほどの痛みは感じた事ある人の方が珍しい。
膝をつきながら状態を起こす。
三体は深々と傷を付けているのにも関わらず、もろともせずに殺気を放ちヨダレを垂らす。なのにユヅキは動けない。
切り裂かれた肉の痛みが神経を犯していく。
脳は憎悪に焼かれているのに、神経はそれを邪魔するように律儀に痛みを運んでいた。
──痛い、痛い。
右から二体同時に飛びつく魔獣。痛みを感じている暇などない。
右手に重みを感じながら無我夢中で剣を振り抜いた。
一体は肩を深く斬り込み、子犬のような鳴き声を上げて倒れていった。しかしもう一体は掠ることすらなくユヅキが反射的に上げた左腕に思いっきり噛み付いた。
魔獣の勢いに押され後ろへ倒れる。
水飛沫の音を立てながら川に上半身を横たえ、狂気含む魔獣の目と憎悪含むユヅキの目が絡み合う。
次に、激痛。
「ぃっつがああぁぁああぁああぁぁ!!!!!!!」
魂が芯から震える。
絶叫と呼ぶに相応しい怒りを含んだ叫びは魔獣にとって美味しいタネでしかない。
脳を狂わすような激痛に思考が犯される。世界が白く点滅する。否、ユヅキ自身の目がそうさせている。
魔獣が肉を引きちぎろうと首を左右に振り回す。その度に何もかもわからなくなってしまいそうな激痛が全身を走り抜けた。
「──!!────!──!!!!───!!!」
声にならない声が木々の間を駆け巡る。
次々に牙を向けて襲いかかってくる魔獣の姿を確認し、ユヅキの剣が左腕に噛み付く魔獣の腹を貫いた。
そのまま横へ振り抜き遠心力で魔獣が剣から抜け落ちる。腹を突かれた魔獣と飛びつく魔獣がぶつかり合い、お互い着地もままならぬ状態で地面へ頭を擦り付けた。
腹を突かれた魔獣は何度か痙攣を起こすと、不意にその動きが止まり瞳から光が奪われたのだった。
ユヅキが剣を杖にして立ち上がる。
ギラギラと光る眼光でまだ息のある魔獣らに目を向けた。
ユヅキを奮い立たせるのは日常を壊した彼らへの憎悪と、困難しか与えない世界へと憤怒であった。
ユヅキ達を襲ったのは目の前にいる彼らかはわからない。けれども同種であることには変わりはなく、もう一度立ちはだかったのも変わらない。
二度も行く手を阻み、狂気に身を沈める生き方は嫌悪しか抱かない。
憎むべき相手がいる。恨むべき相手が目の前にいる。
許すという選択は初めから存在せず、逃げ出すという選択もありはしない。
激痛にのたうちまわろうとも、ユヅキの双眸は彼らを捉えて離さなかった。
「っ──はっ…!」
息が詰まり吐き気がする。
血生臭い匂いはどちらからなのか。ユヅキの頭では判断できない。判断する必要もない。
憎悪に支配された脳は思考を早急に放棄させ、持つ剣を闇雲に振り抜き、斬り裂き、打ち付けた。
動けば痛み。
息をするだけで痛み。
何をしてもしなくても、痛みが幾重にも重なり狂気の歌を歌い出す。
荒れ狂う狂想曲。音もない旋律。
鬱陶しいその痛みをいっそ切り離せたのなら。
全てを切り離して、その憎悪に身も心も捧げられたのなら。
けれどもそれは不可能だ。痛覚は体と同化し、憎悪の合間合間に邪魔をする。
ユヅキは囲まれた敵陣に吶喊したのだった。
──「痛い。痛いねユヅキ。あぁ…あぁ!!まるで生きているようだ!!」
ふと、誰かの声がした。
語りかけられるように紡がれた中性的な声は、憎悪に埋め尽くされていたユヅキの脳を犯すように浸透する。
この声をユヅキは知っている。一度、似たように脳に直接語りかけてきたからではない。それより以前に聞いていた。
どこで聞いたのか、いつ聞いたのか覚えていない。けれども既視感の拭えない声だった。
──そして。二度目の声は世界の時間を剥奪しなかった。
声は脳に直接語りかけ、魔獣は息の根を止めるべく牙を剥いて襲いかかる。
体勢は崩れるも剣を盾にしてそれを防ぐと、再び声は脳に響いた。
──「意志は自分がいる証。感情は自己がある証。恐怖は死にたくない証。憎悪は何かに尽くした証。
そして痛みは生きている証。ユヅキ、君は生きているよ?」
声は黒い霧のようにあっさりと脳内に染み渡る。
声の言うことは正しいかのような感覚に浸り、楽しそうに笑う声に連られ、この状況が恐怖や憎悪からまた別物に捻じ曲がる。
狂い始めた思想はユヅキの顔に悍ましい笑みを浮かばせた。
狂ったように口角を上げたユヅキは誰かを挑発するようにゆっくりと立ち上がる。
「──はは…」
──「生きているのはいい。何でもできる、何でも成せる!ムカつく奴を殺すことも弱者をもろとも蹂躙することも!
──恐れるな!怖がるな!さぁユヅキ!己をの全てを差し出してみろ!!」
言葉を芯に刻み込む様に心臓の脈打つ音が木霊する。
ユヅキの痛覚はどこへ行ってしまったのか。
上がる口角は痛みを無視し、ふらつく体は痛覚を感じさせず、それはまるで狂気の姿を体現しているかのようだった。
「ふ、くふふ…ふっははは!!あっはは──っはははははは!!!!はっはっはははははははぁはははは!!!」
狂気の笑いが木霊する。
──痛覚は狂った。
──思考は混ざった。
──憎悪は回った。
己に従え。己を差し出せ。
今、やりたいことだけやり続けろ。
ユヅキがゆっくりと左手を前に突き出す。瞳孔が見開き自然と浮かび上がった笑みはまるで悪魔のようにどす黒く染まっていた。
「──左腕なんざくれてやる!てめぇら全員命をここに置いていけぇ!」
喉がはち切れんばかりに声を張り上げる。喉の違和感を無視して、ギラつく眼光を魔獣に向けた。
魔獣の数はいつの間にか三体になっている。すでに四体の魔獣が贓物を撒き散らしながら川を汚していた。その記憶すら曖昧のまま、ユヅキは己の右手にかかる重みを確かめた。
一体の魔獣が狂気に怯みながらも唸りを上げて左腕に噛みつき鉤爪を立てる。
避ける事なく手首に受ければ、先ほどまで体内に流れていた血液が雫となって飛び散った。
激痛が脳裏をかすめるが、もはやそれは何の意味もなさない。
肉を引きちぎろうと爪を立て身を引く魔獣の首に渾身の一撃を叩き込んだ。
単に力任せな攻撃でも急所に当たれば何の問題もない。
歪んだ思考は敵に手加減をすることを知らない。
首の半分までを切り飛ばされた魔獣は絶叫しながら光を奪われた。
その姿を見て、ユヅキの口角はさらに吊り上がる。
「ふっ、はははは!!!」
力なく垂れ下がった左腕を携えて残り二体の魔獣に吶喊する。
怯んだ魔獣に上から剣を叩き込むが、阿吽の呼吸で左右に分かれた。間髪入れず右に逃げた魔獣を追う。
「──ハっ!!」
大きくなぎ払い追撃する。
無闇矢鱈に振り回される刃が、幾度かの斬撃を経てついに魔獣の顔に深い傷を付けた。弱々しい唸りを発するが、もう立ち上がる気力は少しも残っていない。
ユヅキはそれを確認すると、抵抗もできぬ魔獣の体に剣を突き刺した。
ザクッ、ザクッ、
機械じみた繰り返しの動き。禍々しい笑顔で敵を刺す。
慈悲など、初めから存在しないかの様に刺し殺す。どれだけ鮮血が飛び散ろうともその手を止めることはない。
ユヅキはまるで、悪魔だった。
悪魔がただただ楽しそうに死体を弄んでいると、突如後ろからの衝撃と左首からの激痛が脳を痺れさせた。
「ぁっ───!」
体勢が崩れ死体の上に倒れこむ。
残りの魔獣が復讐とばかりに噛み付いては離さない。背後にいるせいで剣で突き刺すことも叶わない。
痛みだけが全身を駆け巡り四肢を動かしもがこうとも魔獣は少しも離れなかった。
魔獣が首を振り、痛みが倍増する。叫びにも似た悲鳴が腹の奥底から溢れ出した。
「──こっ、のっ!!」
自身の左肩を切り落とす勢いで魔獣の頭を叩き斬る。しかし不利な体制では力が入らない。
死を覚悟した魔獣の渾身の足掻きだった。
群で生きる魔獣の大半は、一つの集団にしか所属しない。もしこの一体の魔獣がユヅキを食い殺したところで、今後一人で生きていくことは叶わない。
ならばここで死のうが生きようが、どうでも良くなった。
目の前の敵を道連れにするか否か。できるか否かの戦いで、今まさに魔獣は圧倒的有利な状況であった。
大量の血が互いに降りかかり血生臭さが充満する。
吐き気を催す匂いが鼻腔を掠め、ユヅキは遠吠えに似た叫びを響かせた。
──「大丈夫。大丈夫さ。君はこの痛みさえあれば“正気”でいられる」
謎の声に再び鼓舞される。
そうだ、大丈夫だ。脳裏を焼き尽くすような痛み、内臓が湧き上がるような痛み。
全てが全て、“正気”でいられる唯一の糧──!!
「はッ──ぁぁああぁあぁぁあああ!!!!」
痛みを無視して身をよじる。
視界にはっきりと捉えられた魔獣の体躯に問答無用の一撃を食らわせた。
子犬のような叫びと共に魔獣の口元が緩み、ユヅキはそれを機に体を起こして魔獣をなぎ払った。
──吹き飛ばされた魔獣は、それ以上動くことはなかった。
憎悪を歪ます謎の声。
敵か、味方か。
それとも───




