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満月日和  作者: 海月 星
第一章 生と死と
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リネアの意思

自分、リネア好きっす

「それからお母さんは自殺した。前から周りの目は冷たかったし、少なからず嫌がらせがあったんだって。それがついに限界超えちゃってさ。私を置いて先逝っちゃったんだよ」


 リネアは思い出すように瞼を閉じる。

 父が帰って来てすぐ埋葬は行われた。

 集落全体で行われた埋葬と黙祷。

 全員がその死を悲しみ、全員でその死を弔う。

 埋葬の儀が終わり、唐紅の少年だけがリネアに言葉をかけた。いつものように上から目線ではあったが、その誠意は本物だった。

 ひどく心に傷を負った母親は埋葬も黙祷も家に篭ってしまい、父の骨を持ち帰ったリネアが見たのはロープを天井から垂らして首を吊る母だった。

 不気味なほど青白い肌。力なく垂れ下がった腕。口も目も、世界の理不尽を泣き叫ぶように開かれていた。

 口元からだらしなく涎が糸を引いて地面に落ちるのと同時に、リネアは力なくその場に座り込んだ。まるで糸が切れた人形のように。

 目を逸らしたくても目を逸らさず、無意識に視線が落ちる。

 冷たく垂れ下がる足を、リネアは今でも覚えていた。


「もう居場所も、何もなくなってさ。成人の儀をさっさと終わらせたらそのまま勢いで飛び出したの。死に物狂いで生きてたらいつの間にか騎士団なんてところに入っててさ。そこは楽しかったんだけど、ね」


 リネアはなんの苦しみも見せず苦笑いを零す。もう吹っ切れていると主張しているようだ。

 話に出て来た円二つとは約二週間のことである。一日が半一つ(はんひとつ)。一週間が円一つ。一ヶ月が暗一つ(あんひとつ)。一年が宙一つ(ちゅうひとつ)となる。

 しかし、元の世界とはまた基準が違い、一週間は八日、一ヶ月は五週、一年は十ヶ月、つまり四百日となる。

 二週間で帰って来ると仕事に出た父親が二日後に死体で帰って来た。会いたいと強く願っていたからこそその変化に絶望しただろう。

 ユヅキは話を聞いている間、俯き、ただ歩いているだけだった。


「この、首飾りが騎士団員の、証。もう抜けちゃったけど、大切なんだ。まぁ魔獣からすれば、貴方を倒しますって言ってるようなものだけど…帰ったら話すよ。騎士団の事も、全部」


 そう言いながら胸にさがるネックレスを握った。町が近くなったお陰か、どこか安心しきった声だった。

 騎士団とは、とある国に対魔獣用に集められた集団のことである。魔獣狩のスペシャリストといった方がわかりやすい。

 彼らは鎧を着飾り集団で魔獣を狩る。近い将来、人間が優位に立てるよう努めていた。

 魔獣撲滅、それが彼らの掲げる目標であり、目的であり、悲願だった。

 ユヅキは消えかかった声で「…答えになってないじゃん」と言う。

 しかしリネアは首を横に振る。「違うよ」と否定をする。


「外に出なければ騎士団に入れなかった。外に出なければユヅキに会えなかった。自分から行動しなくちゃ、何も始まらないよ」

「…そんなの、結果論じゃん」


 リネアの真っ直ぐな言葉を正面から受け取ることができない。

 その熱意から逃げるように地面に視線を落とす。視界に入った汚れた黒い靴。それはまるで内に秘めた想いを表しているようだった。

 醜い想いを。汚い想いを。

 責任を背負う覚悟を持たぬまま人を利用し、人の死を受け止めたくない自分の心を。

 リネアは傷を負いながら、雨に打たれながらその瞳は真っ直ぐ町を見据えていた。


「そうかもしれないね。けど、閉じこもってるだけじゃ、何も変わらないのは断言できる」


 リネアの瞳に炎が宿る。熱い想いが蘇る。


「外に連れ出してくれる人なんてそうそう居ないんだから、自分から行かなくちゃ。怖くても、諦めたくても、これから先の“何か”に、これから先の“誰か”に期待を持つんだよ」


 リネアのまっすぐな言葉に、ユヅキは拳を握りしめた。

 期待だなんて無意味だ。期待だなんて無価値だ。期待をして、裏切られれば全てが終わる。なら初めから期待なんて持たなければ、裏切られることも、傷付けられることはなくなる。

 ユヅキはいつだって期待に裏切られてきた。

 やめてしまった弓道。

 高校一年の夏。弓道部の中でイジメがあった。ターゲットにされたのは弓道を始めたばかりの同年代の女の子。理由は簡単。八つ当たりだ。

 ユヅキは中学から弓道をやっており、それを面白くないと思った先輩らが下手な子に八つ当たりした。

 言葉では単純なのに人の心情というのは糸のように絡み合う。

 まだ初心者なのだから出来ないのは当然のこと。その初心者に教授するのが先輩の役割であるのに、三年生は彼女の打ち方を笑い、動画に収めSNSで拡散したのだ。

 ユヅキはそれをはっきりダメだと言えなかった。

 良くないことだと。やってて恥ずかしくないのか、と。

 自分より年上という事もあるが、何よりそんな勇気など微塵も持ち合わせて居ない。

 言えなかった。言えなかったからこそ、先生へ助けを求めた。ほとんど来ない顧問に事情を説明して

 これで終わると思った。これで改善できると信じて疑わなかった。

 ──しかし。


『えー。ここ最近部内でいじめがあるって噂立ってるけど、みんな仲良いからそんな事ないはずだ。でも、もしあったのならやめるんだ。部活は己を鍛える場所。他人を蹴落とす場所じゃないんだから』


 実際は部員を集めて軽く注意するだけ。

 証拠の動画は消去され、先生は信じてくれなかった。

 挙げ句の果てに『俺はみんなを信じてるから』なんて馬鹿げた言葉を残して。

 信じてるんじゃない。単に見てないだけだ。信じてるだなんて、なんて無責任な。

 誰が先生に密告したのか、魔女狩りが行われた。

 一番最初に疑われたのは一年生。しかしユヅキは誰にも相談せず先生に言ったおかげか、それともそもそも友人が少なかったからか、疑われたはしたものの確信を持てる何かを持っておらず、その疑いは晴らされた。

 そして間も無くして、ターゲットの少女は部活を辞めた。次のターゲットになるのを恐れ、次々と辞めていった少年少女に紛れ、ユヅキはそのまま部活を辞めてしまった。

 期待したのだ。

 いや、見て見ぬ振りをして居た自分が言うべき事ではないのだろうが、それでも期待していた。

 なのに。それを裏切ったのは世間の大半を占める“大人”だった。

 頼って来いという割には自分の事を一切話さない。相手のことがわからない人に頼ろうとすら思わないのに。

 そして頼らなければ「言ってくれれば良かったのに」と。相談すれば全て上手くいくとでも言うように言葉を紡ぐ大人たち。

 話したいと思える人格がいない。相談したいと思える信頼がない。

 一つも積み上げていない信頼に頼れなど無理なのだ。一度裏切られた後、もう一度信じようと思えるわけがない。

 それでもなお、無力な“子供”は大人に頼ることを迫られる。

 何一つだって知らない大人は、まるで悪魔のような笑みを浮かべる。

 ユヅキが善悪を口にできなかった弱さと、見ている気になっている大人の怠惰が引き起こした事件だった。

 雨音が、静かに鼓膜を震わす。


「ユヅキが私に秘密を持つことはいい。人には言えないことなんて誰だってあるから」


 リネアの力強い言葉が心に突き刺さる。

 ユヅキがリネアに隠している事。

 自分の体のこと。利用していたこと。そして何より、

 ──もう既に帰ることなど諦めていると言うこと。

 もう無理だと諦めた。

 どう足掻いたところで何一つ変わらないんだと、そう思った。

 才能もない。努力も足りない。死に物狂いで生き足掻いて、けれども一人では生きていけない。

 なら、もう諦めてしまった方が良い。

 あと四年。あと四年はなんの努力もせず、なんの才能も見出せず、ただ静かにリネアと暮らしたい。

 ユヅキが四年後死ぬとは知らないリネアに、『帰るのは諦めた。ここで静かに暮らしたい』と言えば了承してくれるだろうか。別段魔獣への殺害衝動はなく、狩人を辞め、どこかで店を開くのも良いだろう。

 もしかしたら『諦めるな』と言うかもしれない。けれどリネアはユヅキの頼みに弱い。普段あまり頼み事をしないからか、何かをねだるとリネアはそれを快く行ってくれた。

 諦める事を簡単に了承してくれるとは思わないが、説得すればどうにかなる。ユヅキは数日前からずっと考えていたのだ。

 リネアは必死に帰らせようとしてくれているのに対し、ユヅキの心はあと四年をどう生きるかという点に置かれていた。そう思ってること自体、ユヅキの心に罪悪感を抱かせていた。

 ユヅキの体に力が篭る。リネアはそれを見計らってか否か、滴る雨を無視して口を開いた。


「けどね。お願い、溜め込まないで。もっと泣いて?もっと叫んで?もっともっと、ユヅキの事教えて?

 言ってくれなきゃわかんない。教えてくれなきゃ理解できないよ。言わないでもわかるなんて、私、そんな特技持ってないよ」


 心に訴えかけるように言葉を紡ぐ。

 深層に届くように言葉を選ぶ。

 自分は不出来だから教えて欲しいと頼み込む。

 リネアが初めてユヅキの本質に問いたのだ。


「教えて、もっとちゃんと。苦しいのか、楽しいのか、悲しいのか、辛いのか。怖がったっていい。無様に這いつくばってもいい。もう生きたくない、もう死んでしまいたい、って思ってもいいから」


 一つ一つを許していく。

 一つ一つが許されていく。

 惨めな自分を認めてくれる。

 汚れた自分を受け止めてくれる。

 醜く穢れた大っ嫌いな自分を、自分すら目を逸らした本質を。

 一つ、一つ丁寧に外装を剥ぎ取って、寄り添って。土足で入るなんて乱暴はしない。心の境界線を壊す横暴はしない。

 境界線の内側で暗闇の中蹲る本質を、外側からノックする。『大丈夫ですか?』と声をかける。

 反応がなくとも声をかける。変化がなくとも話し続ける。自分のことは包み隠さず話し、相手のことは一つも聞かない。

 相手が話したいと思える人間になれるまで、リネアはそこで待っていた。


「それをこれからの希望に繋がれば、どんなに見苦しい事でも私は許す。どんなにユヅキが立ち止まっても、私は必ず応援し続ける。どんなに周りから笑われても、私は見捨てない。…もし、私のことが鬱陶しくなったって」


 リネアはそこで一つ間を開けると、


「──私は何度だってユヅキに手を差し伸べる」


 力強くそう言った。

 真っ暗闇の中に垂れ下がる一筋の光。一度知ってしまったが最後。もう手を伸ばさずにはいられない。

 自分だけを見てくれている、それだけで心の奥底が抱きしめられたように暖かかった。


「戦えって叫んでやる。笑えって喚いてやる。命の重みから逃げるなって、怒ってやる。

 生きることは背負うこと。誰かを殺すと言うことは、同時に自分の命を天秤にかけなきゃいけないんだよ。それを背負わなきゃいけない。それだけは、逃げてはいけないんだよ」

「リネア…」


 ユヅキの顔がゆっくりと上がる。

 今にも泣きそうな顔に、リネアはいつもの笑顔を返した。

 傷ついても尚、リネアは上を向いていた。先を見据えていた。 希望を持って、明日に期待して。前へ前へと進んでいる。それは、今も尚変わらずに。

 ユヅキの背中がそっと、押された気がした。


「リネア、ごめん…あたし──」


 言葉を紡ぐ。

 声を発する。

 言っていい事。言わなくてもいい事。言わなきゃいけない事。全てを伝えるために。

 しかし──


「っ!?」

「なっ!?」


 ざわめく木々と、打ち付けられる雨。草の陰から重々しく現れる、影。

 黒みがかった赤い瞳に狂気を輝かせ、姿を現したのは四足歩行の魔獣だった。

 数は複数。ドーベルマンのような筋肉質の体と灰色の毛。だらしなく垂れた涎は空腹を表していた。

 ユヅキ達を取り囲むように一斉に現れた彼らは血の匂いによって引き寄せられたのか。

 リネアを掴んでいる腕に力を込める。

 そして一度深呼吸をした。


「ユヅキ…?」


 リネアの声を無視して地面へ下ろす。

 そして柄を握ると迷いなく剣を鞘から抜き出した。蒼銀の刀身が降り注ぐ雨の中、輝きを放っている。

 ゆっくりと、教えられた通りの構え方で敵と相対す。

 その手はガタガタと震えており、気迫も覚悟も足りていなかった。

 ユヅキはそれでもリネアの前に立ち、その背を初めて向けたのだった。

 ユヅキは震える声で口を開く。


「死ぬのは怖い。痛いのも嫌い。面倒ごとはもっと嫌い。やらなくていいなら、こんなの絶対やりたくない」


 降り続く雨に声が見え隠れする。

 どちらかが動けば戦闘は開始する。その緊張感の中、それでもユヅキは口を開いた。


「けど、ここで逃げるのはもっと嫌だ。リネアに沢山謝りたいから。だから──」


 ユヅキが全てを言う前に目の前の魔獣が飛び出してくる。

 それを剣で受け止める。ずっしりとした重みを感じながら勢いよく押し返した。魔獣は空中で回転すると、膝を使って地面へ着地する。

 後ろで水飛沫の音がした。

 ユヅキが剣を回す。実力上、全力で剣を振るって早いだなんてことはない。乱雑に振り回しただけだったが剣先は魔獣の足を浅く切り裂いた。

 続けざまに左右から一体ずつ牙を剥く。ユヅキは歯を食いしばりながら右から迫る魔獣に剣を突き出した。

 ただただ飛びついてきた魔獣は、自ら刺さりに行っているようなもの。勢いのまま腹を突かれた魔獣の感覚が手に浸透し、真っ赤な鮮血がユヅキの頬を濡らす。

 痛みに唸る魔獣を無視して、その体躯をもう一体の魔獣に勢いよくぶつけた。

 剣から離れた魔獣の重みがまだ残っている。

 その手に付いた血液が、自ら行ったものだと証明しており、今更ながら心が震えた。

 しかし、迷いが生じる前に敵が行動を起こす。

 後ろからもう二体。

 振り向きざまに切り裂くと、口をあんぐり開けた二体のうち一体がその肩と足に刃が当たりその場に血液を垂れ流す。足を切られた魔獣は着地が失敗し、泥を頭から被るように地面に突っ込む。

 が、もう一体。

 迫り来る一体の魔獣が牙を剥く。

 反応できず、左腕で顔を覆った。

 開かれた口から覗く鋭い牙が妙に煌びやかに見え、ユヅキがその牙に肉を食い千切られるのは想像に難しくない。

 ユヅキは次に来るであろう痛みを覚悟し、いつでも反撃できるよう愛剣の柄を握りしめた。


 ──が、それは真っ赤な宝石によって遮られた。


「──フォルス!」

「っ!?」


 宝石は声に反応し、瞬きした瞬間、大きな炎へと変わり魔獣の体躯を薙ぎ払う。

 子犬のような声を上げて引き下がった魔獣の半分は焼け焦げたが、雨のせいもあり、死に追いやるまでは不可能だったが、


 ──怯んだ


 ユヅキはそう直感した。

 結界が解け、町の人を襲おうとしたであろう彼らはユヅキ達に戦闘能力があると思っていなかったのか、その身を強張らせたのだ。

 その隙を見逃すほど、ユヅキも甘くない。

 ユヅキはリネアの腕を強引に引っ掛けると無理やり駆け出した。

 隣でリネアが唸っていたが気にしている暇はない。このままどうにか逃げ切れば、いや逃げ切らなければリネアの命はもうない。


「無理、しすぎ!」

「お互い様、ね」


 ユヅキの言葉にリネアが答える。

 宝石を投げたのは紛れもなくリネアであり、声を聞いた瞬間何が起こったのか理解していた。

 けれどもあの場で戦い続けて勝てたかと問われると素直に頷けない。

 魔獣がユヅキ達を甘く見ていたからこそ突く隙が多くあり、今はもう完全に油断してはならない敵だと認識されてしまっている。

 勝てる確率はゼロではないにしろ、逃げられるのならそれが最善だった。

 雨は激しさを増し視界を邪魔する。けれど何度も通った道を忘れる事はなく、ユヅキはその足を懸命に動かした。

 ユヅキは走る。雨音で聞こえるはずのない魔獣の吐息を感じながら。

 ユヅキは逃げる。橋を渡れば町はもう目と鼻の先である。

 その時、ユヅキの中には不安と恐怖と焦りと、ほんの少しの安心感が芽生えていた。


「──っづ!?」


 足を持っていかれる感覚に認識が遅れる。

 視界は回り、上下左右がわからない。

 打ち付けられる痛みが全身に響く。

 そして回転が収まるのと同時に、右手にのしかかる重心と突き刺す痛み。何かがユヅキの肩に深い傷をつけていた。

 眉をひそめながら無意識に閉じていた瞼を持ち上げる。

 視界に入るのは流れる川と、自分の右手に掴まれ宙に浮くリネアの体だった。

 そうして現状を理解する。

 道の端から滑り落ちたのだ。雨で視界が悪く、落ち葉は滑る手助けをした。

 そして運悪く坂の下は崖となり大きな川が流れている。リネアとユヅキは勢いのまま坂から投げ出されたのだ。崖の横から生えていた木にユヅキは引っかかり、リネアをコート一枚で繋ぎとめていた。

 ユヅキと川は十数メートル。手を離せば水へと叩きつけられる。雨音と川の激流が騒音を響かせていた。

 不幸中の幸いか魔獣はこちらを見失ったようで、近づいてくる気配はなにもない。

 ユヅキはリネアの服を掴み直す。ユヅキの右腕には木の枝が刺さり顔は苦しそうに歪んでいた。


「ユヅキ」


 リネアは痛みを耐えるように言葉をかける。ユヅキの掴んでいる右手は、セツナとの戦闘で痛めていたらしい。

 血は滲み、息が詰まるような感覚にリネアは苦痛の色を見せた。


「川を上流に渡れば橋がある、から。そこを渡ればもうすぐロナフトだ」

「知ってる、っよ!」


 徐々にリネアの体が上へ上へと上がって来る。

 右腕の枝は抜く余裕などなく、痛みを無視してリネアを掴んでいた。

 火事場の底力とはよく言ったもので、ユヅキの体は限界を優に越し、雨の冷たさも、傷の痛みも、生死の緊張も全てを背負っていた。麻痺していた。

 木が急かすようにギシギシと音を鳴らす。ユヅキの腕から流れる血は雨に打ち消されていった。


 ──一歩間違えればそこには【死】が待ち構えている。

 ──一歩間違えれば二人共々死滅する。


 ──そんな一歩だって間違えられない状況をユヅキに押し付けて。


 リネアは静かに笑っていた。



「ごめんねユヅキ。私がもっと強ければ」

「もしもの話なんてキリがない!今現在の力を出し切った!そうでしょ!?」


 気合いでこの場を乗り越えようとするかの如く大声を出す。ユヅキの上体も徐々に上がって行く。

 リネアはそれを見て、ただただ笑う。


「ユヅキはすごいよ。本当すごい。ユヅキに降り注ぐものは全部理不尽なのに。それなのにユヅキは泣かないなんてさ。泣かないのがすごいんじゃない。壊れないで立っていられるのがすごい」

「っ!泣きたいに決まってんだろ!巫山戯んなって言って投げ出したいに決まってる!実際心の中では投げ出してましたー!!すいませんー!」


 投げやりのような言い方だが、これはユヅキの本心だった。

 リネアは本気だったのに、当の本人のやる気は皆無。そんな状況を謝って再スタートを切る為に、今を生きたいと思えた。

 リネアが眉をハの字にして困ったような笑みを見せる。


「そんな堂々と言っちゃうんだね」

「そうだよ!帰ったら怒っていいよ!笑っていいよ!そんで全部話すから!リネアも話して!リネアの昔話を聞かせてよ!」


 ユヅキは叫ぶ。

 肩に刺さる木の枝が邪魔をして、一定以上上に行かない。

 だった一本の枝が全てを邪魔する。

 生きることを、助けることを、足掻くことを邪魔してくる。


「──やっぱり私じゃだめだったのかな」


 リネアの声が雨に紛れて呟かれる。

 聞こえるか聞こえないかの声に反応し、ユヅキは聞き返そうとしてやめた。

 リネアの表情はまるで陽だまりの中で穏やかな日々を過ごす一人の少女のように。まるで心安らぐ桃源郷で笑顔を向ける一人ぼっちの聖女のように。

 その場にそぐわぬ笑顔で、リネアは口を開くのだ。


「ねぇ…ユヅキにとって、私は──」


 言葉を止め、目をより一層細める。

 リネアは静かに懐にしまってあった短剣を取り出し、そして──



「──私はどうだった?」


 自らのコートを切り裂いた──

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