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満月日和  作者: 海月 星
第一章 生と死と
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鳥籠の鳥

 セツナはいなくなった。“勝った”ではない。“立ち去った”でもない。

 ユヅキに訳もわからぬ“契約”とやらを押し付けてどこかへ消え去ったのだ。

 ユヅキは震える手を見つめる。

 血は、付いていない。

 しかし、肉の切り裂く感覚は生々しく手にこびり付いている。鼻腔を通り抜けて血生臭い異臭が記憶を呼び起こすように留まっている。セツナの邪悪な声が頭の中で反響され、忘れる事を許さない。

 あの紺色のふわふわした髪も、落ち着いた黒いドレスコードも、足の爪に塗られた赤いペディキュアも、滑るように滑らかな細い手足も、透き通るような壊れるような純白の肌も。

 全て、記憶として残っている。

 残ってしまっている。

 セツナがこの場にいた証拠などどこにもない。しかし、感覚が全てを覚えていた。畏怖を、憎悪を、怒りを、憎しみを、恐怖を、覚えていた。


「ゅ、っ …」


 苦し紛れの小さな声に意識が戻される。

 掠れるような声は幻聴のように曖昧で、自分が聞き間違えたのかと思うほど弱々しかった。

 ユヅキは誰かに助けを求めるように、この状況を説明してくれる何かを求めるように辺りをゆっくりと見渡した。

 鬱蒼と生い茂る木々の間に一つ。薙ぎ倒された木に飛び散る赤。その中心に腹を抑えて体を前に倒すリネアがいた。

 表情は苦痛で満ちており、それでもユヅキに手を伸ばしていた。

 リネアは腹部を切り裂かれても尚、呼吸をしていた。意識を保てていた。命の灯が消えていなかった。

 ユヅキはリネアの名を呼びながら無我夢中で駆けつける。

 肩を掴み体を仰向けへと回転させる。上下に動く胸が見え、その生を感じた。

 リネアが生きてる。そう実感する。

 傷口に目を向ければ腹が三本の切り傷によって中の血塗れな内臓が見え隠れする。

 白と赤が基調のコートは大部分を紅色に染め上げられ白い生地は消え去った。とめどなく流れる生暖かい血液は土にも吸収されて黒々とした円を作っている。

 消えるか消えないかの命の灯火。それがセツナの計算通りだったのならこの上なく憎たらしい。

 何を考えて生かしたのか。何を考えた行動なのか。

 あの怪物の考えていることなど、ユヅキにわかるはずがなかった。

 処置の仕方がわからず、その手を掴んで涙を流す事しかできない。

 無力でごめんなさい。何もできなくてごめんなさい。無知でごめんなさい。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 手を伸ばしてくれるなら誰でもよかった。それがたまたまリネアで、たまたまリネアがひどく椎名に似ていて、面影をずっと重ねていて、ふとした瞬間リネアは椎名じゃないと実感すると一人で悲しくなって。

 それが嫌でまるで椎名と接しているように、ずっとずっとリネアという存在を見ずにいて、


「ごめんなさい…!」


 大きな雫が目から零れ落ち、地面へと消えていく。

 無力さを恨み、後悔を憎み、現実を悲観し。混ざり合った思考はそれでもはっきり伝えていた。

 本当の思いを。

 殺し続けた真実を。

 隠し通した感情を。

 涙を流すユヅキをリネアは静かに笑う。やっと泣いてくれたと、そう言いたいように。


「ゆ、づき…かえ、ろう。…宿舎の近くに、ちりょうじょが、ある、から…」


 途切れ途切れの言葉にユヅキは涙ながらに頷きリネアを起き上がらせ腕を自身の肩へかける。

 息を合わせてゆっくりと立ち上がる。動くたびに苦痛に歪むリネアの表情は何よりも心苦しかった。

 置いていった事の後悔と、しかしその場に残ったところで自分は何もできない事実と。

 これでよかったとは思わないが、これが最善だったのかもしれない。そう思ってしまう自分がどこかに存在し、ユヅキは思考を振り払うように歩き出した。

 明るかった空は暗く分厚い雲で覆われ、ポツポツと透明な雫を落としていった。



 ーーーーーーーー



 降り出した雨。

 視界を邪魔するように落ちる雫たちは行く手をも阻む。

 リネアは腹の傷を抑える。水滴が傷口に入り込んで突き刺すような痛みが朦朧とする意識を保たせる刺激となっていた。

 傷は熱いのに体は冷たい。眠ってしまいたいのに痛みがそれを遮る。

 雨で冷やされている所為もあるが、血液が足りていないのが大半だろう。治療所に行って、治療を受けて。それで助かるのかと問われれば四分六分で助からないと言うだろう。

 だが可能性が低い訳ではない。生きる可能性が0.1でもあるなら手を伸ばす。成功した後を思い描き、その結果を掴み取る。必ず、そうする。

 強欲だと言われても構わない。必ず掴み取ってやるという覚悟は心に強く結ばれた。

 隣で涙を拭うユヅキをそっと見つめる。

 目は腫れて、眉を下げている顔は初めてみる。ずっと泣かなかったユヅキが弾けたように泣き出した。水を溜めていた水槽が粉々に崩れ去ったという表現が正しい。

 自分でも底が見えぬような水槽に、感情、思考を、その全てを溜め込んで、誰にも見えぬように、他ならぬ自分にすら見えぬ深層へとしまいこんでしまった。

 前触れもなく弾けたそれらをまとめ上げるのも難しい。ユヅキはそれを涙に変換し、ゆっくりと自分の感情の思考を理解しようとしていた。

 だからだろうか。

 今なら。今なら少し口が滑っても許してもらえるだろうと思ったのは。

 リネアは静かに囁くような口調で話し出した。


「あのね…ユヅキ。ユヅキは一回、私の髪色が好きだって言ってくれたよね?」

「…言った。言ったから今はもう喋らないで」

「あ、はは…別に遺言じゃないよ。ただ…私のこと知ってほしいって、思っただけ」


 ユヅキは怖がった様子で足を進める。リネアに合わせている所為でゆっくりだが、先ほどよりも早くなった気がした。

 地面へと視線を落としたユヅキを見て、リネアは瞼を下ろして言葉を紡ぐ。


「赤系統の髪色は、とある一族の特徴でね。その血族以外、赤は産まれないんだってさ…おかしな、話しだよね」


 力無く笑う。

 赤い髪。自分を苦しめ、尚も縛り付ける消えない呪縛。

 鳥籠に入れられた鳥はいつも外に出たがる。外は危険だと伝えられても、誰もがその青空を求めて羽ばたいていく。

 それが苦難の前触れだと知らずにだ。

 何も知らずに飛び立ち、何も知らず地へ落とされる真っ赤な鳥。

 羽を失った鳥はその細い足で歩くしかない。歩くために作られていない足で前に進むしかない。諦めて仕舞えば籠から出た意味が何一つなくなってしまうのだから。

 鳥をやめた真っ赤な鳥。

 鳥が鳥であるためは鳥籠へ舞い戻るしか道はない。

 戻った鳥は一生その籠から出ないのだろう。もう一度出ていく彼らを見たことがなかった。

 青空を知った鳥は、またその地を知ることとなる。

 血に濡れた地面を。醜悪な欲の塊を。その目で捉えなくてはならない。

 こんな話、遺言のような話などユヅキは聞きたくないだろうなと、わかっていながらもゆっくりと話を続けた。


「だから、赤って言う、だけで珍しいんだって。外を歩けば、物珍しそうに見てくる人、友人になって他人に自慢しようとする人、売ってやろうと下心丸出しで近づいてくる人。まぁ、いい人はいなかったってことだね」


 リネアは昔のことを思い出す。

 思い返せばその通りだ。一族の住む集落から外に出れば最後、“普通”に接してくれる人は誰一人だっていない。

 “普通”が何と問われれば、その赤髪を見ないでくれる事だった。

 赤髪がなくても自分に価値があると言ってくれる。赤髪を抜きにして人格を見てくれる人を、居場所を立場を。リネアが欲したのはそういう“普通”だった。

 一度。そう一度だけリネアを“普通”だと言ってくれる居場所はあった。そう言ってくれる人たちがいた。その場所はリネアに光を与え、そして全ての闇を与えた。

 瞬く間に奪われた光。それも自分のせいで。自分の手で。

 雨が次第に強くなる。

 体温が奪われ視界がぼやけるのがわかる。町までもうすぐ、治療所までもうすぐ。

 その前に、伝えなければ。

 リネアが口を開く前に、俯いていたユヅキが口を開く。


「…なら、外に出なければよかったじゃん。外に出なければ嫌な思いだってしなかった。外に出なければ変なことに巻き込まれる事なんてなかった。鳥籠の鳥は可哀想とか言うけど、そっちの方が圧倒的安全で何も起こらないじゃん」


 ユヅキの呟きは雨音で邪魔されている。それでもリネアの耳にはしっかりと届いていた。

 ユヅキの表情が見れない。泣いているのか、苦しんでいるのか、怒っているのか、呆れているのか。

 リネアはユヅキの感情を汲み取らぬまま、ほんの少し笑った。


「…ほんと、そうだよね。身の程知らずなんだよ。鳥なんて、みんなそう…私が知ってる鳥は、みんないなくなっちゃった…みんな私を置いて消えちゃった…」


 もし身の程を弁えていれば。もし彼と彼女と笑い合っていなければ。もし別の道を歩んで居たら。もし警戒を怠っていなかったら。もし自分の意見を貫いていたら。

 もし、あの日あの時、リネアと出会わなければ。

 彼らはきっと、もっと生きて──


「赤だけじゃないよ…色んな、色んな鳥がいた…沢山、本当に沢山いたんだ…本当に本当だよ?地を知っても尚鳥でいようとした人がちゃんといた…彼らも、鳥籠に居られれば、ずっといればよかったんだけどね…」


 リネアが静かに言葉を紡ぐ。

 その手は無意識に胸の首飾りを掴んであり、頭の中では見知った顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。

 部隊の士気を最後まで上げていたいつまでたっても鎧の似合わない童顔で筋肉質な短髪の彼。リネアを慕い、赤髪に文句を言う人を悉く床に伏した三つ編みのくりくりとした藍色の瞳の彼女。いつまでたっても彼女に結婚を申し込めず、いつも酒場で泣きながら相談してきた年上の垂れた瞳の彼。物事をはっきりと指摘し、どれだけ地位の高い人間でも臆する事なくばっさりと切り捨てる丸眼鏡の小さな強気な彼女。


 ──『先輩!ちょっと稽古に付き合ってくれませんか!ちょっと!ほんのちょっとでいいから!ね!』


 ──『あんたねぇ…!リネアさんは事務仕事で疲れてんの!脳筋と一緒にすんなバーカ!』


 ──『はっはっは!若いっていいねぇ。とっても元気だ。その元気を私にもちょっぴり欲しいものだよ』


 ──『たとえ貰えても婚約申し込めないんですから年寄りは一人隅っこで若い者に嫉妬しておきなさい。そう思いますよね?リネアさん?』


 ──この手で奪った命の数々を。

 今でも覚えている。

 笑い声。叫び声。喧嘩声。逃げ惑う声。

 記憶が思い起こされる。記録には【死亡者4名】の文字だけ。たったそれだけで済まされてしまった彼らの死を、他でもないリネアが覚えている。

 声も、態度も、口調も、口癖も。最後の言葉だって。つい昨日のように思い出すことができる。


 ──『仕方ない。仕方がなかったんだよ…例えそこにリネアちゃんじゃない誰かがいても結果は変わらなかった…』


 紳士で誰にでも優しく、けれども天然で人の気持ちを全く汲めない癖っ毛な金髪の美しい緑色の目を持つ彼がそう言った。

 悲しそうに、労わるように。

 その言葉が一番辛かった。


 ──『仕方がない?彼らの死が仕方がなかったって?君はそう言うの?君は、君は彼らの死は起こってよかったって、そう言うの!?』


 責めてくれれば。誰もが責めて、縛り付けてくれれば。楽だった。こんな苦しみ続けなくてよかった。

 金髪の彼の優しさに甘え、あの時は彼に強く当たった。八つ当たりだと自覚していてもそれを止めることはできなかった。


 ──『笑ってた、さっきまで彼らは笑ってた!イスラとチャールは喧嘩して、それを呑気に見ているダリィがいて、みんなをバカにするミリアがいた…!笑ってた彼らが今いない事が最善だって言うな!もう二度とそんな事…!」


 ──『言ってない…言ってないけど…僕は…君だけは生きててよかったって思っちゃいけないの?』


 ──『関係ない!今私が生きてようが関係ないよ!私が生きてても何にも変わんない!なに一つだって変わりはしない!』


 辛い思い出が思い起こされる。

 泣き喚いたあの日が蘇る。

 後悔をそのままに、リネアは現実から目を背け逃げ出した。

 しかしその事実を口にするのはまだ早い。ユヅキに伝えるのはまだ早い気がした。

 だからそれまでの話をしよう。

 それまでにあった原点の話を。

 まだ青空を求めていた真っ赤な鳥の紡いだ物語を。


「青空を求めなければ地を知らなかった鳥は、だけど空を求める事を後悔しなかったと思うんだ」


 笑みをこぼし息を吐く。

 雨音が静かに響き渡り、冷たい現実を突き詰めていた。

 ゆっくりと、透き通る雨のように言葉を紡ぐ。


「答えになるかわからないけど、私の話を聞いてよ」


 ──私の、昔話をさ。

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