人間と魔獣
空気が張り詰める。
先ほどの温かい空間が一瞬にして心臓を締め付けるのに充分な緊迫感を産んだのだった。
頭上からした第三者の声。視線を上に上げれば探さずとも直ぐにわかる。
膝下までの紺色のふわふわした髪。小柄な体つきを目立たせるように着こなされた黒のドレスコードのような服装。右耳には小さな金色の輪っかピアスが刺されている。
少々幼さが残る顔つきなのに対し、彼女の纏う空気は他とは一風違っていた。どう変わっているかを言葉にできるほど、ユヅキの頭は回ってはくれない。鬼気なのか色気なのか狂気なのか。
ただ一つ言えるのは、
──その瞳は紅く染まっていた
「聞くけど、結界を壊すまでここに来るってどういう理由なのかな?それほどまでする理由ってなに?」
リネアは彼女が木から飛び降りるのを確認した後、緊張した趣で問いかける。重心を落とし、いつでも攻撃を繰り出せるように。
敵意を含めた言葉に、相手はただクスリと笑った。
リネアの疑問はもっともだ。
町の回りは大小違えど結界が張られており、魔獣が入って来ることなどほとんどない。
その為ユヅキ達が狩りに行くのは結界の外。休憩の時は結界の中。と、使い分けていたのだ。
そもそもの話、彼女の目は赤い。それも透き通るような真紅だ。
その情報から導き出される答えは、彼女のランクは上際だということ。現世界で認知されている中で最強の一角である。
そんな彼女が人間に興味を持つなどあり得ない。最弱の“人間”は最強の“魔獣”に相手にされない、見向きもしない。人間を“食”とするのは下方までであり、人間に興味を持つ理由など微塵もないのだ。
しかし対峙してしまった。
勝ち目はゼロ。
逃げるのも降参するのも不可能。
相手に気に入られなければこの命、終わると断言できよう。
──つまり、人生の詰みだった。
魔獣の彼女が口元に手を当て妖艶に笑う。そして静かに口を開いた。
「ちょっと興味の湧く話があってね。ほんの少し触れてみたら壊れてしまったんだ」
悪びれもせず「結界って、張るの大変なんだろう?悪い事をしてしまったね」と言葉だけは反省の色を見せる。
しかし声は弾んでおり、結界が破られた事に戸惑っているだろう町を見てもう一度クスリと笑った。
リネアは冷や汗をかきながら彼女を見つめる。いつ動いても反応できるように。いつでも隙を見つけられるように。
目を凝らす。少女のすらりとした足がほんの少し揺れる。
目を凝らす。弧を描いた色の良い口元から真っ赤な舌が見え隠れする。
目を凝らす。長い髪が静かに揺れる。
隙は、ない。
けれどもリネアはその目を逸らす事をしなかった。
ただまっすぐ。臆する事なく一人の異界な少女へと視線を向ける。
リネアは、そう。
──生きることを諦めていなかったのだ。
絶望的な状況で、絶望的なタイミングでも尚その生にしがみついては手放さない。
この異常な少女を前に屈したとしても誰もだって文句は言えまい。仕方がなかったと、視線を逸らして現実を受け止めよう。
けれどもリネアはそれをしない。
現実を受け止め、尚も食らいつくその貪欲さ。
手を伸ばし、自ら光を掴むその様は誰かの手を引くために産まれたような存在だった。
距離は10メートル前後。足の裏から魔力を放射すれば一秒とも掛からぬ距離だ。だが、それを許すほどの相手ではない事も同時に理解していた。
リネアはその状態で彼女にもう一度問う。
「それで?結界を壊してまで人間に干渉するのはどうして?その興味の湧くお話っていうの、私も聞いてみたいな」
「ふむ、そうだね。風の噂で黒髪黒目の人間がいる、と聞いてね。珍しいから見に来たんだ。
後ろに隠れてるお嬢さんでいいかい?」
彼女がユヅキに目線を向ける。合わさった視線は、それだけでユヅキの体に毒を回した。
石化されたように体は動かず、口と鼻を手で塞がれてるかのように息苦しい。手足は無意識に震え、恐怖の色一色に染め上げられた。
ただ、目が合った。それだけのことで格の差を見せつけられる感覚。狂気に染まって暴れられたらどれだけ楽でどれだけ憐れに散れるか。
爆発する感情はどこにもなく、凍りついた結晶のように固く、閉ざされてしまった。
彼女は値踏みをするように頭から足先をじっくりと見つめ、そしてリネアに目線を戻す。
「染めた、ってことじゃなさそうだ。こんな子どこで手に入れたんだい?」
「商品じゃないんで、そう言う言い方はやめてもらっていい?」
「言い方ひとつを気にするのかい?今も昔も人間ってのは面倒だ」
やれやれといった風に肩をすくめる。癖っ毛の髪が彼女の感情を表すようにゆらりと揺れた。
彼女は再び口を開く。
「じゃあここは僕が大人の対応を取るとしよう。
初めましてお二方。僕の名前はセツナ。ただのセツナだ。本当はもう少し長いけどセツナでいい。その名が気に入っているからね」
彼女、もといセツナは左腕を広げ右手を胸に当てると、右足を少し後ろに下げ頭を垂れた。まるでどこぞの国の王子様のような出で立ちであり、それが美しくなせるセツナの存在が理解できなくなった。
魔獣という敵対すべき存在が、人間である自分たちに頭を下げて名を名乗っている。
自分たちを油断させるための罠なのか、それともセツナの言う通りこれがセツナにとっての“大人の対応”というものなのか。
今まで相手をしてきた下方の魔獣とは余りにも違い、ユヅキもそして例外なくリネアも動揺を隠せなかった。
セツナはゆっくりと体を起こすと挑発的な笑みで二人を見据えた。
「それじゃあ交渉だ。
僕は単に後ろの子が気になるだけ。もう少し近くで見たいんだけど、どうかな?手出しはしないし飽きたら帰る。悪くないと思うけど?」
「…それを信じろとでも?もしかしたら近づいた瞬間この子を殺すかもしれない。もしかしたら飽きたら私が殺されるかもしれない。もしかしたら、そもそも噂なんか興味なくて人間を食べに来たのかもしれない」
リネアの揺るがぬ声圧が木々を通り抜ける。絶対に渡さない。そう言い張っていた。
上際にすら怯まぬ態度に尊敬と恐怖が入り混じりユヅキはただその背中を見ているしかない。
セツナが呆れたように口を開く。
「もしもの話を並べたら終わりがない。それに上際と中念は人間を食べない。そうだろう?」
「けど食べれないって訳じゃないよね?」
リネアの警戒は解かれない。目を鋭く光らせ、セツナの些細な動きを逃さず視界に入れる。
このままいけば交渉決裂。運が良ければ相手が立ち去り、運が寄り付かなければ戦闘へと踏み込まれる。
否、運になんか頼ってられない。見えないものに縋ってられない。
見えるもの、聞こえるもの、知ってる事、経験した事。それら全てを糧にしてこの状況を打破しなければならない。
運に頼むな。神に祈るな。
今できる事はただ一つ。
──なりふり構わずこの怪物から逃げ切る事だ。
しかし、どこに?どうやって?どのように?
町に降りればリネアと同じ狩人がいるだろうが、被害は壮絶なものとなる。
どこか物陰に隠れてやり過ごせば何の被害もないが、この森一帯破壊されて仕舞えば意味がない。
この怪物に重傷を負わせ動けない内に逃げる。
これだ。
それができるかは別だが。それしか思いつかないのもまた事実だった。
知識も経験も何もないユヅキも、知識も経験も豊富なリネアでも同じ考えに至っていた。
ただ一つ、違うとすれば。
ユヅキはもう一つの方法に辿り着いていた事だった。
──私が言えば…
──私が大丈夫だって言えば…もしかしたら…
ユヅキが一言リネアに『大丈夫だ』と言えば状況は一変するだろう。
セツナを完全に信じる訳ではないが、信じなければ待っているのは【死】だ。
そう考えるだけで何よりも恐ろしくて。恐怖は毒となり、茨となり、ユヅキの体にと張り付き口は開いたり閉じたり。その繰り返しを行うだけで、本来の役割を一向に果たしてくれなかった。
──怖い。
だがこのままでは。
最悪の状況は目の前で。
──怖い。
自分が言わなくては。
張り詰めた空気が息苦しくて。
──怖い。
誰も、助けてくれない。
いつも助けられていた。いつも誰かに助けてもらっていて。
──怖い。
自分がやらなくては。
腕を引いてくれる人の後ろに隠れて何一つ選択してこなかった。今回も選択できずにいる。
──怖い。
恐怖が巡る。
焦りが貫く。
焦燥感は何をするわけでもなくただそこにあるだけ。背を押す事も脳を麻痺させる事もない。ただあるだけの不安が何よりも鬱陶しかった。
リネアの影がゆらりと動く。
そして、
──キィィィィィンッ──
「あははっ!酷いなぁ。君は人を信じるのに恐怖でも感じているのかい?」
「お生憎様っ、貴方は人間じゃないんでねっ!」
挑発じみた声と共に戦闘が開始された。
リネアは剣を抜くと同時に振り上げており、それをいとも容易くセツナは薄い短剣で押さえつける様に受け止めていたのだ。
その短剣は美しく太陽の光を反射させている。水晶でできたかの刀身と柄。一つの水晶から一本の短剣が産まれたような美しさは見るものを魅了する魔の短剣だった。
主人同様妖美な短剣をセツナは楽しそうに下へ押し込む。
リネアの表情が苦痛に染まった。
ただほんの少しセツナが力を入れただけでリネアの膝が地面へとつく。そうしてなければ到底受け切れない。
「さすが首飾りの持ち主だ。紅騎士の名は伊達ではないね」
「っ、褒められても嬉しくないよ…!」
リネアは逃げるように剣を押し上げ、その反動で間合いを開く。再び腰を抜かすユヅキの前まで戻って来た時にはもう息が切れていた。
圧倒的な差。
リネアですら到底届かない高み。
それは安価な剣だからではない。
それは後ろに守るべき対象がいるからではない。
──それは比べる事すら烏滸がましい格の違いであった。
セツナはそれを見てただただ陽気に笑う。
「り、リネア…」
ユヅキは不安のあまりリネアに声をかける。
できることなど何も無い。むしろ声をかけること自体が邪魔な気がしてしまい、か細い声となってしまう。
リネアは視線はセツナのまま、ユヅキに声をかけた。
「ユヅキ、シールさんの所に助けをもらいに行ってくれないかな。大通りの四つ目の角を左。一回行ったからわかると思うけど」
「あ、の…」
「大丈夫。シールさんだって前まで結構強い狩人やってたんだから心配ないよ。ね?」
口角を上げ、チラリと合った視線は有無を言わさない力強さがあった。
つまりリネアは逃げろと言っているのだ。自分を置いて先に行け、と。
自分が無力な事くらい自分が一番わかっている。どれだけ剣を振るっても、魔力の存在を認知しようとも、半人前すらならぬ半端者。
努力も才能も少しも足りない。覚悟だって未だ決まらない。
声を発することもままならない状態でユヅキが出来ることはリネアの指示に従い、応援を呼ぶこと。
それが最適。
それが最善。
わかっている。わかってはいるのに──
「──…うん」
嫌だ、なんて綺麗事、喉の奥に詰まって吐き出されることなどなかった。




