9-5 有袋上目双前歯目
翌日、改めて試験を受けるべく工房に出向いたアルテミシアが聞いたのは、材料の在庫に混入は見られなかったという話だった。
「え、じゃあ試験に使う薬草だけに、わざと混ぜられたって事? それ酷くない?」
試験を終えて帰ってきたアルテミシアが顛末を語ると、リビングのソファで弓の弦を張り替えながら、アリアンナは盛大に同情してくれた。
「たぶん、そうなるよね。
開発班の班長とかいう人が怪しいんだけど……確証があるわけじゃないしなあ」
「ねえ、アルテミシア。その話、レベッカさんには……」
「してない。首とか取りに行きそうだから」
「……ごめんその未来否定できない」
レベッカが夕飯の買いだしに出ている隙の会話だった。
「それで、もしその混ぜられた毒草? に気がつかなかったらどうなるの?」
「んー、いくらなんでも毒としての効果が出るほどは入ってなかったけど、毒草に邪魔されて治癒の効果が発現しなかったはず。つまり失敗作になる」
「これが商家や職人の奉公人なんかにあるって言う、新人いびり……」
「いやそれは違うかも」
ぱたぱたと手を振って、アリアンナの見立てを否定するアルテミシア。
「閉鎖的な環境じゃ、よくある事……なんだろうけど、この場合って新人いびりって言うより門前払いじゃん」
「アルテミシアに来て欲しくないって事?」
「かも知れない、し……そうじゃないかも知れない」
少なくとも、敵意や悪意を感じる状況ではあるのだけれど、理由が分からない。
材料に別の物を混ぜるというのは、『アルテミシアが正しいレシピで調合しても失敗するようにした』という事だ。
つまり、『アルテミシアに試験を突破する実力があったとしても要らない』という意味であって。
正直言えば、そこまで誰かから疎まれる覚えが無いし、そうする理由もちょっと分からない。
「まあ、再試験は普通にパスしたよ。明日からでも来てくれって」
「へーっ、もう明日からか」
「うん。受け入れの態勢とかは問題ないって。そもそも、席が空いてるから」
確かに、何か怪しい雰囲気はあるけれど、それでもなんとかなったのだから、まあこれからもなんとかなるだろうと、アルテミシアは割と気楽に考えていた。
――悪意ある上司でも、児島よりマシな奴だったら、まあ構わないし。
……前世の経験が経験だから、我ながら期待値低いなあ。
最悪、独立するまでの付き合いだ。
そう思えば耐えられるだろう。
* * *
「……と言うわけで、彼女には明日から来てもらう。よろしく頼むぞ、ダニエル」
「はっ……」
相変わらず素敵な趣味の所長室で、真鍮管や歯車が奔放に飛び出しているスチームパンクな椅子(昨日までは無かったはずだ)に深く身を沈め、エルネストは言った。
「君の希望通り、紹介状付きでありながら特例的に調合試験を課したわけだが、彼女は完璧にやってのけた。それどころか、昨日は薬草に混じった異物すら見抜いたのだ。
文句なしの人材だろう」
「それは、そうですが……
混乱しているのに、子どものお守りをしている余裕はありませんよ」
「その点は余計に心配ないだろう。あれは根の部分が、歳よりもよっぽど大人だ。手が掛かるようには思えないがね」
それは確かに客観的な評価だと、ダニエルも思った。
エルネストの言葉は、聞きようによっては、エルネストを『大人げないぞ』と咎めているようでもあった。
ダニエルは何も言わなかった。
エルネストがダニエルのした事に……試験に使う山ねじまきにコウモリゴロシを混ぜた事に、気付いているかは分からない。
だがそれ以前に、断片的な情報でアルテミシアを頭ごなしに拒否しようとしたダニエルは、この場で責められても仕方の無い立場だった。
「では……私は準備に掛かりますので」
「よろしく頼んだぞ」
這々の体、という調子でダニエルは所長室を後にする。
アルテミシアは、試験を妨害した目的が分からないと分析したが、ひとつ大きな見落としをしていた。
人は、一度腹を立ててしまえば、合理的な判断ができなくなることが往々にしてあるものだ。
ダニエルは、最初からアルテミシアが気にくわなかった。
何かひとつ気に入らないのではなく、気に入らない要素がたくさんあった。
ダニエルは、研鑽と勉学の果てにこの場へ至ったという強烈な自負がある。そんな、職人の聖域である仕事の世界に、家族の七光りで飛び込んでくるガキなんて気にくわないにもほどがある。
しかも、調合の技術など無いのに工房に入ってこようとしている(とダニエルは思っていた)のだから、尚更だ。だからちょっと、憂さ晴らしに嫌がらせを仕掛けたのだ。
ダニエルは、最初からアルテミシアが試験を突破するなんて思っていなかった。まともにポーションを作れるとは思っていなかった。
その上で、『薬草に異物を混ぜてやったら愉快だろう』とだけ考えて、見えない嫌がらせのつもりでコウモリゴロシを混入したのだった。
試験によって、アルテミシアの調合能力が嘘ではないと証明されてしまったが、はっきり言って、アルテミシアが気にくわないのは変わらない。
試薬を使わず、薬草を潰しただけで混入を見抜くなんて!
中和剤も使わず、適当にぶち込んだ薬草を、フィーリングで調整していくなんて!
目の前で見ていたはずのダニエルにすら、悪魔の所行としか思えない。
アルテミシアはダニエルの世界を壊す存在であり、そんな相手に好感を抱くのはダニエルにとって無理な話だった。
才能の暴力……
そんな表現がダニエルの頭に浮かんでいた。
全く秩序的ではない。ダニエルが信じていた調合とは、ポーションメイカーの仕事とは、違う。
ましてそんな力を持っているのが、まともな修行も勉強もしていない、あんな小娘だなんて。
アルテミシアを追い返す大義名分は消えてしまった。
しかし、その事実が余計にダニエルを苛立たせていた。
「ガキがっ……!」
廊下に誰も居ないのを確認してから、床を蹴りつけ、ダニエルは毒づいた。
* * *
* * *
工房で働き始めてしばらくは、意外なくらい平和に過ぎていった。
ただし、それが順調だったと言えるかは、また別の話だった。
適性からして当然ではあるのだが、アルテミシアは調合班で仕事をする事になった。
レシピを教えてもらい、ただその通りに材料を混ぜるだけ。
こんな仕事なら、やり方さえ分かっていれば誰でもできそう……と思ったが、話はそう簡単でもなく、早く的確である事が求められる。
早さは言うまでもなく、的確さとは調合に失敗しない事だ。レシピを誠実に踏襲する事は当然として、調合時の、薬液の色の変わり方から失敗の予兆を見極めるなんていう、アルテミシアのチートスキルみたいな技術を長年の勘で身につけている人まで居た(もちろんチェックには試薬が必要だし、調合には中和剤を使っていたが)。
その点、アルテミシアはレシピを無視したところで最終的に帳尻を合わせられるので、調合に絶対失敗しない。
それはかなりの強みであったが、逆に言えばそれだけだった。中和剤を使わなくても調合ができるのはかなりのコストダウンで、それは工房に貢献しているとも言えるのだが、あくまでアルテミシアが自分で調合した分にしか効果が無い。
では、新レシピの開発の仕事はどうなのかと言えば、アルテミシアはほんの1ヶ月(うち、新レシピの開発に当たったのは四日間だけである)で、工房にある既存のレシピより材料消費が少なくて済む調合法を七つは発見した。
しかし問題は、そのどれもアルテミシア以外に真似できなかったという事だ。
ポーションは、材料による効果のばらつき、そしてアルテミシアのようなカンニングができない調合師によって作成されるため、『多少ズレても目的の効果が出る』という性質が必要になる。
アルテミシアの見つけたレシピは、ことごとく、それが不可能だったのだ。
「規格外……」
調合法をうまくレシピに落とし込めないか四苦八苦したあげく失敗し、疲れ果てて机に突っ伏したアルテミシアは、悄然と呟いた。
定時にはみんな帰ってしまう職場。独り居残った調合室は夕日が眩しかった(あまり光に当たると変質するのではないかと思ったが、魔法の薬だけあって、そこまでヤワではないらしい)。
アリアンナへ言った言葉が、そのまま自分にも返ってきた。
チートスキルという規格外の才能は、定型の枠に収まらない。中和剤無しでの100%成功も、他人には再現できない改良レシピも、ひとりで商売をしているなら文字通りチート級の強みだが、工房という箱の中ではせいぜい『優秀な人』だった。
領兵の道を避けてアリアンナが冒険者になったように、自由に動けてこそ力を発揮するのだろうけれど……
そのためには、工房に勤めてギルドに認めて貰わなければならないという矛盾。
再試験の日、アルテミシアはエルネストから、簡単な面接のようなやりとりをしていた。
自分の店を持ちたいというアルテミシアに、エルネストはこう言った。
『なるほど、確かに店を持とうと言うなら、ギルドへの貢献が無ければ認可は出せないな。
そのための第一歩として工房に潜り込んだのは大正解だ。
特別な功績を挙げずとも、真面目に勤めてさえくれたら、いつかは認可も下りるだろうけれど、折角だ。君の才能を有効に使って、何かやらかしてくれる事を期待するよ』
――ご期待に応えたいのですが、どうすりゃええねーん。
気長にやるっきゃないのか……
上司であるダニエルから、新しい薬の調合を命じられる度にレシピ閲覧の許可を不自然に遅らされるという遠回しな嫌がらせを受けた以外、現状にそこまで不満は無い。
(ちなみに、放っておくとアルテミシアは勝手に我流レシピで解決してしまうので最終的にダニエルは諦めた模様)
有事の際は際限なく忙しくなる職場だそうだが、普段はホワイト極まるし、賃金も悪くない。
腰を据えて挑んでやろうと、アルテミシアは考えていた。
それどころじゃなくなる事件が起きたのは、最初の1ヶ月が過ぎた時だった。