8-1 吾輩はギルバートである
吾輩は猫である。名前はギルバート。
実態をひとまず脇に置いて社会的な身分を一言で述べるなら、ゲインズバーグ城のネズミ捕り長を拝命し、現領主レグリスに仕える臣下のひとりである。
生まれたばかりの記憶は、とんと曖昧なので正確には分からぬが、そろそろ3つの歳を数える頃だ。
話をこれ以上進めるより前に、まず吾輩がいかに美しいかを知っておいてもらわねばならないだろう。
全体に、猫というのが人よりも美しい生き物であることは議論を待たないが、その中でも吾輩ときたら一等優れた容姿の持ち主である。
手入れを欠かさずにいる毛並みは、ふわりとして艶やか。吾輩の毛皮は黒と白に塗り分けたような色合いなのだが、頭の周りと、胸回りから背中にかけてが黒く、他は白いのだ。人間どもはこの色合いを『めかし込んだ紳士のようだ』と言う。
吾輩の高貴な毛並みを着飾った人間ごときと比較されるのは癪だが、吾輩が紳士であることは疑いようもないのでよしとしておこう。
体は太からず細からずの健康体。ヒゲは張り艶ともによし。長い尻尾は優美にして繊細。
金の右目は鋭く可憐。碧の左目は叡智の泉。
猫こそ完全なる美を誇る生物。そして、その中でも更に完璧なのが吾輩、ギルバートなのである。
* * *
そんな美しい吾輩の一日は、クッションを敷き詰めたバスケットから始まる。
広々とした部屋の片隅に置かれたバスケットが吾輩の寝床なのである。
物音に気がついて身を起こすと、ちょうど、部屋に同居している人間の子どもが、使用人どもに服を替えさせている所だった。
彼の名はルウィス。
城の庭に迷い込んだ、幼き日の吾輩を見出し、父に紹介してこの城のネズミ捕り長に取り立てた傑物である。
この吾輩がやせ衰え泥にまみれたみすぼらしい姿をしていても、吾輩の素晴らしさを見抜いて拾い上げたのであるから、彼に見る目があることは吾輩とて認めねばなるまい。
吾輩の優雅な伸びと欠伸を見て、ルウィスが声を掛けてくる。
「やぁおはよう、ギルバート」
「ニャー(訳:お前こそ早いな、ルウィス)」
「昨夜も仕事だったのか?」
「ニャー(訳:そうとも、馬鹿でかいネズミを二匹ばかり捕まえた)」
律儀に答えてやっている吾輩だが、ボンクラな人間どもは吾輩が言いたいことを半分も理解しない。
「ルウィス様、ギルバートは昨晩もネズミを捕まえたそうですよ。朝から死骸を見つけて、メイド達が騒いでおりました」
「そうか。よくやったぞ、ギルバート」
着替えを手伝っている従僕が吾輩の戦果をルウィスに報告してくれた。
なかなか気が利くやつだ。
お褒めの言葉をくれてやったところでどうせ分からんのだから、代わりに足下に擦り付いて吾輩のニオイをつけてやる事にした。
「わっ、おいギルバート! 毛が付くだろ……」
「はははは、もっとやってやれ、ギルバート」
「ひどいですよ、ルウィス様……落とすの大変なんですから……」
黒いズボンに吾輩のつややかな白毛がたっぷりと付いて、従僕めは慌てふためいていた。
「引っかかれるよりはマシだろう。ギルバートのしっぽを踏んだメイドが、くつしたをダメにされたと嘆いていたぞ」
「そりゃご愁傷様で……あの前足でやられたら、私のズボンだってひとたまりもないでしょう」
誅伐と褒美の区別も付かんとは愚かしい話だが、吾輩を褒めているので許してやろう。
吾輩の前足はそんじょそこらの猫より逞しいもので、レグリスが評して曰く、山猫の血筋ではないかとのことだ。吾輩の力を以てすれば城を荒らす不埒なネズミごとき、ものの数ではない。
そして、強さとはえてして美しいものであり、やっぱり吾輩は美しいのだ。
* * *
中庭で優雅な昼寝に興じていた吾輩に、ルウィスが声を掛けたのは、人間どもの昼食時からほどない刻限だった。
「視察に行くぞ。お前も来い、ギルバート」
どうやらルウィスは今日も街へ視察に出るらしい。
視察とは言うが、城に居れば体よく手伝いをさせられかねないので、早い話が公然とサボっているのである。
まぁ、今は城の中が大忙しだ。勉強をさせようにも馴染みの家庭教師まで殺されている。レグリスとしてもルウィスに構いようがなく、勝手に外へ出て暇を潰してくれるならありがたいというのが本音であろう。
なんぞレンダール王国がひっくり返るほどの面倒ごとでも起こってゲインズバーグ領を取り上げられでもしない限り、このルウィスは次期領主なのだ。この機会に街の様子を学ぶのも悪いわけではない。
そしてその視察には吾輩も同行するのが常だった。まぁ、いい気晴らしだ。
吾輩の正式な仕事はネズミ捕り長であるが、吾輩の職務はかなりの部分、吾輩の裁量に任されている。
ルウィスの供という立場で視察について行ったところで咎められはしない。
もちろんルウィスと吾輩だけで行かせてもらえるはずもなく、視察にはハンスなる領兵が随行する。半ば護衛、半ばお目付役という状態だ。
このハンスなる男、先日の事件で領都に駐屯する領兵(当然ながら領主一家の身辺警護をする親衛隊も含まれる)が皆殺しにされた故、領内各地の兵から親衛隊に引き抜かれてきた者のうちひとりなのであるが、何やら立場が弱いらしく面倒な役割を決まって押しつけられている。
元は南方の勤務で、そちらに想う女が居たらしいが、結局その想いを文一通にすらできず領都へ戻ってきたという甲斐性無しだ。何より顔が長いのが気に食わぬが、人材難の領兵団では贅沢も言っておれぬ。
さて、街へ出かけるとして吾輩の障害となるのは、この小さな体だ。
吾輩は賢明であるからして、うすらトンカチな人間どもの足や馬車の車輪にそう簡単に潰されるような愚は犯さないが、それでも万一があり得る。まったく猫すら避けて通れぬとは、人間というのはどいつもこいつもボンクラだ。
人混みは避ける、高いところを歩く……と賢い解決策はいくらでもあるのだが、ルウィスの視察に付いていく時は、護衛の領兵の肩の上が吾輩の定位置である。
甲冑には爪が立たぬが、その下の鎖帷子に爪を立てて、吾輩はハンスの肩によじ登って座り込む。
ハンスの奴めも最初の一度は戸惑ったが、三度目の今日はもう吾輩が飛び乗った程度では眉ひとつ動かさぬ。吾輩の乗り物としてなかなか心得てきたようだ。
まぁ吾輩、形だけはこの城に仕える者であるが、城の住人はことごとく領主一家の下僕であり、そしてルウィスは吾輩の下僕のようなものであるからして、この城の住人全て、吾輩の下僕であると言っても過言ではなかろう。吾輩の乗り物にされるのも光栄であろうよ。
* * *
そんなわけで大通りへ出てみれば、ルウィスはたちまち囲まれる。
「あらルウィス様!」
「ルウィス様、ごきげんよう!」
「ルウィスさまだー」
「ルウィス様、うちの菓子を食っていきませんか?」
「西方から伝わった新製法のパンもどうでしょう!」
挨拶、握手、そして贈り物の嵐。
レグリスは自ら進んで、自身と民の距離を縮めようと努めており、それは街の空気となってルウィスにも受け継がれている。
末子であるためか、街の者からもなかなかの可愛がられっぷりだ。
ちなみに、こういう場で出てくる贈り物は、荷物やルウィスの負担にならないよう、ほとんど一口でつまめる食べ物だ。この辺りは街の衆も心得ているのである。
「皆、ご苦労。それでは頂くとしようか」
さっそく貰い物を頬張るルウィス。
まるで餌付けのような光景だが、実際にこれでルウィスのお気に召せばお城の御用達になれるのだから、差し出す側にも悪い話ではない。
無防備に貰い物を口にするのは、毒でも入っていたらどうする気だと思われそうだが、ルウィスは物を食う前に、台所から拝借してきたミスリル銀の検毒食器で突き刺している。
毒という毒に反応して変色する、便利な逸品、貴族のたしなみ。繊細な装飾が施されており、ミスリル銀の高貴な輝きが際立つ。毒に反応する加工にずいぶん金が掛かるようで、フォーク一本で庶民の家なら一軒建つような代物だ。
「……さとうをもう少し増やした方がいいな。これは甘い方がうまいやつだ。逆にこっちは甘すぎると下品になる。これはどうやって作った? ……ほう、そんなものが……調理以外に使い道がありそうだな。領兵団の魔術師に話を持ちこんでみよう」
辺り一帯の者が全員押し寄せているというわけでもなく、捌ききれないほどの人手でもないので、ルウィスは丁寧にひとりひとり対応している。この小さな積み重ねが、民からルウィスへの信頼となるのだろう。たとえ王命によって封ぜられる領主であろうとも、領民の支持が無くば立ちゆかぬ。
さて、ここで大人はまず己の立場を慮ってルウィスの方へ声を掛けるのだが、子どもというのは正直なもの。
ルウィスとて風采が上がらないわけではないが、やはり高き座に鎮座まします美の極致たる吾輩に興味を惹かれるのであった。
「ねこさんだー」
「ニャーがいるー」
「ねーねー、その子、へいたいさんのねこ?」
大人が取り巻いていてルウィスにはどうせ近づけぬからと、子供らはハンスの方へ寄ってくる。吾輩に手を伸ばそうとする不埒者まで現れる始末だ。
「こちらはゲインズバーグ城のネズミ取り長にしてルウィス様の愛猫、ギルバートにございます。みだりにお手を触れませぬよう」
基本的には口をきかず影のようにルウィスに付き従うハンスだが、さすがに子ども達を牽制する。
うむ。よきにはからえ。
やはり大人たちも吾輩が気になっていたようで、吾輩がハンスの紹介を受けると、あれまあとか、そうなんだとか、納得の声を漏らしている。
吾輩はこのところ、急速に街での知名度を高めつつあった。
「ぎるばーとー」
しかしそれでも手を伸ばしてくる子どもが居て、それを子どもの兄らしい少年が引き戻すという一幕もあった。
「弟がすいません、ルウィス様っ」
「よい、気にするな」
平身低頭した兄は、まだ吾輩に未練があるらしい小さな弟を引っ張って去って行く。
そんな姿を見たルウィスが、ぽつりと一言。
「兄弟か……」
その言葉を、吾輩のとんがり耳は聞き逃さなかった。
ルウィスは先年、母を亡くしたばかりだ。ルウィスは難産だったようで、その時に体調を崩して後、寝たり起きたりの生活が続いていたそうだが、ついに身罷った。
そこへ来て先頃の『悪魔災害』だ。ルウィスは兄たちまで失ってしまった。
貴族であるルウィスにとって兄弟とは、決して仔犬のように戯れ合う相手ではなく、切磋琢磨する好敵手のような存在だった様子だが、それでも兄たちとの関係は良好で、母亡き後の心の支えでもあった様子。
気丈に振る舞っては居るが、吾輩を撫でる回数が一日あたり平均して1.85倍ほどに増加している。辛いのには間違いなかろう。
まぁ、頭を痛めているのは父であるレグリスも同じ事だ。
この国の貴族どもの間では、側室や愛人を持つことは特に禁じられておらず、むしろ世継ぎのためには推奨されている面もある。
にもかかわらず、あのレグリスなる男はひとりの妻だけを頑固に愛していて他の女には目もくれなかったそうだ。
幸いにも男ばかり3人生まれたことで、レグリスは己の選択を正当化できていたのだが、これでついに己の血を継ぐ者はルウィスひとりだ。
もっとも、そのためにルウィスは家督を争う相手もおらず、自動的に嫡子となり、安穏としていられるわけなのだが。
生まれたなら生まれた、生まれないなら生まれないで面倒があるのだから、人の世というのはどうしようもないものだ。吾輩たち猫のように、あるがままに生きると言うことが人にはとても難しいらしい。
ふと屋根の上を見ると、ルウィスを取り巻く騒ぎを聞きつけたか、白黒ぶち模様の若い娘が居た。吾輩を見ている彼女が見覚えのある顔だったもので、ちらりと尻尾を振って挨拶してやる。
城に住むほどの身分、そして才覚を持つ吾輩は、城下の娘たちからも熱い視線を集めるものだ。
未だ子宝に恵まれた経験は無いのだが、どうせ生まれた所で育児は雌猫任せが猫の作法。子の有る無しを特に気にしてはいない。世継ぎが生まれたのなんので、下手をすれば国ぐるみの大騒ぎとなる人間とは違うのである。
まぁ、また発情期が来たらその時は相手をしてやろう。
「ルウィス様。このところ水道の水の味がおかしいのです。何かご存じありませんか」
ようやく人の波を抜け出そうかという所で、どうも他人の茶の飲み方に文句を付けそうな老婆がルウィスに声を掛けてきた。
街中には、浄水の魔動機械なる怪態な絡繰り仕掛けがいくつもあるのだが、庶民が家まで引いている水道はそれを通していないのだ。川から取った水に多少の処理を施しているに過ぎぬ。そのせいで、時折汚れたり味が変わることもあると聞いていた。
もちろん城で使う水は平時すべからく浄水済みであり、城で最も高貴であるべき水……すなわち吾輩の飲料もそうであるからして、水道の味が変わったとて吾輩が其れを知る事は無い。
「水だと? ……ぼくは知らんが官吏にしらべるよう言いつけておこう」
「ありがとうございますぅ!」
ルウィスは実質何も約束していないようなものだが、言うだけ言って満足したのか、他人の茶の飲み方に文句を付けそうな老婆は折れ曲がった腰を振りながら去って行った。