1-5 今だけは優しい世界
3日目。タクトは視線を感じまくっていた。
ふと気が付くと誰かが窓から覗いている。
タクトは上野動物園のパンダの気持ちが少しだけ分かった。
「もー、追っ払っても追っ払ってもみんな来るんだから!」
と、アリアンナは怒ってくれたが、タクトはそこまで気にしていなかった。
「ごめんなさい、私のせいで……」
「アルテミシアが謝らなくてもいいの! って言うか、気にしないの?」
「大丈夫です。盗賊だとか魔物だとか……私を疑ったり怪しんでる人はまだ居るはずです。
こうやって実際に見に来て、ちょっとでもそういうのが無くなればいいなって思います」
「……えっと、見に来てるのはたぶんそういう理由じゃなくて……」
アリアンナは大げさに肩をすくめた。そのポーズは暴力的な胸部をいかんなく強調する。
「まあいっか。窓閉めるからね」
「気にしませんって……」
「じゃなくて、ちょっと覗かれたくない事をするから」
アリアンナが鎧戸を閉めて回ると、途端に部屋の中は薄暗くなった。
アリアンナは火に掛けてあったやかんと鍋から、湯気の立つお湯を桶に入れていった。手を差し入れて温度を確かめ、少し水を混ぜる。
「脱いで、アルテミシア」
「え……えっ!? なんで!?」
唐突なアリアンナの言葉に、思わずタクトは胸元を押さえた。
「ずっとそのまんまで寝かしちゃったけど、不潔なのはダメでしょ。拭いてあげるから」
「あ、そういう……」
「ごめんねー、街へ行けばお風呂屋さんもあるんだけどね」
アリアンナは手ぬぐいを桶に突っ込んで絞りはじめる。
その間にタクトは言われるまま寝間着を脱いだ。
――うわ、ほっそ……
これ俺の身体かよ?
あらためて今の身体を見て、タクトはちょっと呆然とする。違和感がありすぎる。
森の中を這いずった後なので少し汚れてはいたが、それでもなお美しさを損なうには到らない。つるりとした滑らかな身体は雪のように白く、いっそ作り物めいて見えるほどに無垢だった。
腕も足も胴体も指も、何もかもが細くしなやかだ。桜色に染まる小さな爪すら宝石のように美しい。
比較対象が『年上』のアリアンナしか居ないのだが、この身体がカタログの通り11歳であるとしたら、やせっぽちなうえに小柄なせいで、年齢以上に幼くすら見える。
女性的な特徴も薄い。二次性徴前の中性的印象を濃く残している。
脇腹には肋骨の凹凸が浮き出ていた。
アリアンナは手を止めてタクトの方を見て、しみじみと嘆息する。
「すっごい綺麗な身体……」
「え!?」
「あ、ごめんごめん。変な意味じゃなくって。街の噴水広場にある天使様の像みたいだったから」
タクトは返答に窮した。こんな褒められ方をしたのは初めてだ。
褒められたところで、別に今の身体は自分のものと思えないので、嬉しいとか思うよりも困惑する。
「ほら、それも脱いで」
「えっと……はい」
異性に裸を見られるのは男にとっても恥ずかしいものだ。
もっとも、今は女の身体なわけだが……
「恥ずかしがらなくていいでしょ? 女の子同士なんだからぁ」
――……そのセリフは普通、自分が裸になったときに言うものでは?
タクトは躊躇いながらも、胸を覆う短いタンクトップ状の下着を脱ぎ捨て、さらに異様にピッチリと肌にフィットしたパンツを足に伝わせ抜き取った。
このパンツが曲者なのだ。四六時中付きまとう違和感ジェネレーターであり、今の身体が『少女』であると感じさせてくる。
人それぞれに大きさが違う突起物を持っていて、しかもそれが急所で熱にも弱いという業を背負った男の場合、股間をガチガチに固めるのは無理だから、ある程度のマージンを設けるのが普通だ。女性の場合はそうした制限が無い。
下半身を縛り上げられているような拘束感……これにはしばらく慣れそうもない。
裸身を晒したタクトは、湯気を立てる桶の隣におそるおそる腰を下ろした。
するとアリアンナは、手ぬぐいで優しくタクトの身体を拭う。
肌の上を熱が走り、残された水分がすぐに冷えて清涼感が残る。
汗か、泥か、不快なものが拭い去られていく。
「どう? 熱くない?」
「大丈夫です」
暖炉の明かりがぼんやりと闇を払う。
ふわりと立ち上る湯気。手ぬぐいを絞る水音。アリアンナの息づかい。
不思議な時間だった。
「ねぇ、アルテミシア。あなたはどこから来たのかしらね」
子守歌のようなリズムでアリアンナが言う。
「……きっと、ロクでもないところだったと思います。でなきゃ、あんなところで行き倒れたりしなかったはず」
「確かに」
アリアンナはタクトの背後で笑いをこらえている様子だった。
「ねぇ、アルテミシア……」
相づちを待つかのように、すこしだけ間があった。
「私も、お父さんお母さんもね。あなたを助けたからって、見返りを求めたりしないからね?
もしそれで、損をしたって良いの」
タクトの考えを見透かしたような言葉だった。
「……私を助けたせいで迷惑が掛かったりしないですか?」
「しないしない! こう言っちゃなんだけど、私たちは村人同士だから」
「それでも……」
タクトがさらに問いを投げかけようとした、その時だった。
「おいなんだアリア、昼間っから締め切……」
いきなり明かりが差した。
グスタフが外から窓を開け、部屋を覗き込んだのだ。
そして時間が凍り付いた。
「…………済まない」
「きゃーっ!!」
ちなみにこれはアリアンナの悲鳴である。
カラッポのやかんがグスタフに向かって投げつけられ、スキンヘッドにぶち当たって『カーン!』といい音を立てた。
* * *
「お母さんは?」
「今日も種芋の選別だよ、まだ終わらんらしい」
頭のたんこぶを時折さすりながら、グスタフは斧を砥石に滑らせる。
斧を研ぎに帰ってきたところ、最悪のタイミングで中を覗いてしまったようだ。
タクトは身を拭い終え、アリアンナが持ってきた別の寝間着に着替えていた。処分し損ねていたマリアの古着だそうで、裾をめくり上げて腰で縛らないとずり落ちてしまうサイズだった。もちろん袖からは手が出ない。
『こんなのでごめんね』と言われたが、とんでもない。着るものがあるだけでもありがたいという状況だ。
「あの、グスタフさん」
太い指で器用に斧を研ぐグスタフに声を掛けると、その手がぴたりと止まった。
そして斧を研ぐポーズのまま風前のプリンのごとくプルプル震え始めた。
「さっきは本当に済まない……」
「じゃなくて! あの、ちょっと聞きたい事があるんです」
まだ気にしていたらしいグスタフに向かって慌てて手を振った。
中身は男なんだから大丈夫ですよー! と、心の中でタクトは叫ぶ。何が大丈夫なのかは自分でも分からないが。
「聞きたい事……何だ?」
「どうして私を助けたんですか?」
タクトは直球で聞いた。
グスタフは訝しげな顔で、ファンタジー木こり系のヒゲを撫でる。
「なんでってな……だってお前、助けなきゃ死んでただろ」
「私が死んだとしても、グスタフさんに損は無いはずです」
「俺がそんな薄情に見えるか?」
「そうじゃないんです! ごめんなさい!」
頭をぶんぶん振ってタクトは否定する。
アリアンナは口元を覆い、固唾を飲んでふたりの会話を見守っていた。
「私は……自分が、誰かに助けてもらえるような価値のある人間だと思えないんです」
「それは違うぞ、アルテミシア」
グスタフは斧を放り出し、どっかりと座り直して言った。
「人を助けるときに損だの得だの、価値が有るだの無いだの考えるものじゃあない。
誰かが傷付いたり倒れようとしているとき、それを見て心を痛めるのが、人の良心だ。
そしたら後は助けるだろ? 普通」
「そういう……ものですか」
「ああ、そういうもんだ。
助けた恩を仇で返されたりしたらそりゃ悲しいがな、その時はその時だ。別にそれが人助けをしない理由にはならんだろ」
頭をぼりぼりとかきながら、まったく事も無げにグスタフは言ってのける。
頭の芯が痺れたような気分だった。異世界だからとかいう話ではなくて、世界が違う。
こんな風に一方的に助けられる日が来るなんて思ってもいなかった。
そしてグスタフの、人助けに対する単純明快な信念。
ああそうか、と思った。善人、ヒーロー、正義の味方。人を助けるってこういうことだ。
真似はできない。できなかった。それだけにグスタフの信念が眩しかった。
「だからさ、気にすんな。ガキがそんなスレた事言ってんのは、見てて辛いもんだぜ」
「……ありがとうございます」
歯を剥いてニカッと笑ったグスタフの顔は、熊でも恐れを成して逃げ出しそうなものだったけれど、もはや大仏級に尊かった。たぶん拝んだら凶作とか地震が静まる。
タクトも、こんな人に助けられて黙っていられるほど無情な人間ではない。
礼儀とか、自分の立場とか、そういうの抜きで恩を返したいと思った。
「あの、グスタフさん。お願いしたい事があるんです。
……薬草が欲しいんです。それと何か、すり鉢みたいなものはありますか?」