5-5 ドリームダイバー
気がつけば、ふたりは薄暗い古書店の床に転がっていた。
身を起こそうと手を突いた先に本の山があって、アルテミシアは慌てて手をどける。
「帰って、来られたの……?」
「そうみたいだね。はぁ、やれやれ」
腰をさすりながら起き上がったフィルロームは、当たり前だが老人の姿に戻っていた。
辺りは嵐が吹き抜けた後のようだった。
陳列してあった本が放埒に飛び散り、中にはページが千切れているものさえある。
そんな中に、事態の元凶となった本も落ちていた。開きっぱなしだが、もう変な光は溢れていない。
「た、助かりました……ありがとうございます、フィルロームさん」
「だから、ありゃあたしの責任だって言ったろう。ありがたがることはないよ。むしろ、あたしが助けてもらったさ。ありがとうよ」
「どういたしまして…………あの、ところで、最後のあれ、何が見えたんですか? わたしには光の塊にしか見えなかったんですけど……」
革袋の中身が暴かれた途端、ラスボスは消滅し、世界から脱出できた。
アルテミシアが睨んだ通り、あの光は何らかの鍵となる存在だったようだ。
が、アルテミシアには、まだそれが何だったのかまで分かっていない。
「あれは……」
フィルロームはあからさまに言いよどんだ。
「……ちょっと、その本の事を調べさせてくれないかい? あまり不確かなことは言いたくないんだ」
その言葉は、たぶん本当だけれど、それだけではないなとアルテミシアは察した。
心の準備をする時間が少し欲しい、という意味かも知れない。
「分かりました」
「済まないね。また後日来ておくれ。……ああ、そうだ」
散らばった本の中から、一冊の本をフィルロームが抜き出した。
「あんたが探してた教本だ。迷惑料には安いかも知れないけど、持ってってくんな」
「いいんですか? ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。迷惑料って言ったろ」
「いえ、そうじゃなくって……」
アルテミシアは言葉を探す。
……あんなものを見せられて、黙って立ち去る気にはなれなかった。
「フィルロームさんが、ここでお店を開いていたから、わたしは今日、この教科書が手に入りました。ありがとうございます」
教科書を抱えて、彼女を真っ直ぐ見つめてそう言うと、虚を突かれた様子だった。
「バカタレ。そんなもんあたしじゃなくても、あたしの店じゃなくてもよかったじゃないか」
「でも、この店で悪い理由も無いと思います」
そういうものだろうと、アルテミシアは思う。
フィルロームは、彼女自身の言葉を借りるなら、『金も名誉も』手に入らなかった。
だけど、それは彼女の人生が、ひいては彼女という存在が、無意味である事には当たらない。
彼女自身が開き直っているように。
――こんな人生の大先輩に、わたしの言葉なんて、今さら必要無いかも。
でも、それを言っちゃいけないって事もないはず、かな。
果たして。
「……ありがとうね」
フィルロームは柔らかく、花が咲いたように微笑んだのだった。
「それにしても……散らかっちゃいましたね。お片付け、手伝いましょうか?」
「いいよいいよ! 本代をツケてる奴がいるんで、そいつを呼んでやらせるよ!」
早くも本を重ね始めたアルテミシアを、フィルロームが止めた。
「あぁ、疲れたよ。この歳になって、冒険なんてするもんじゃないね。悪いが今日は臨時休業だ。帰っとくれ」
「はい、ありがとうございました!」
アルテミシアは散らばった本を踏まないよう、つま先立ちで店を抜け出す。
そんなアルテミシアの背中を見送ったフィルロームは、小さく呟いた。
「……人生諦めるにゃ、早かったかねぇ」
* * *
翌日、再び店を訪れたアルテミシアは、店奥のカウンターを挟んでフィルロームと向かい合っていた。
机の上には湯気を立てる薬草茶と、騒動の火種となった謎の本。
店の中は、ツケていた誰かさんがしっかり労働させられたらしく、早くも片付いていた。
「調べてみたが、かなり古いもんだ。あれはどうも、中に入った奴が抱えてる傷や、負の感情を形にする世界みたいだけど、面白……いや、恐ろしいことに、目的は『修行』だったらしい」
「あれが修行ですか!?」
「そう。大昔のどこかの国の戦士が使ったようだ。精神修練にね」
命懸けのトレーニングをするトンデモスポ根マンガじゃあるまいし、と思ったが、地球の史実においてもメチャクチャなトレーニングを兵士に課していた実例はあるわけで。
魔法が存在する世界なら、そこに魔法的な手段が用いられるとしてもおかしくはないのかも知れない。
「あれは心を映す世界。あの世界に敵として出てくるのは、怒りや悲しみ、後悔の記憶……ってのは、まあ分かってるよね」
「はい」
「本来は、それと戦って打ち勝たなければ出て来られない仕組みらしいんだが……じゃ、もしも嫌な記憶があったとして、そいつが急激にどうでもよくなっちまったら、どうなると思う?」
「ど、どうって……もしかして敵が消えるとか?」
フィルロームは頷いた。
アルテミシアは、車に轢かれた記憶を思い出し、あの時の感情を思い起こした途端、鉄のイノシシに襲われた。
だとしたら、それと全く逆で、目の前の嫌な記憶が『どうでもよく』なれば、敵は消えてしまうのではないだろうか。普通だったら、そんな事はなかなか起こらないだろうけど。
「つまり、最後に起こったのはそれだったんだ。空間の核だった記憶が寄る辺を失って、世界そのものが崩壊しちまった」
「その鍵が……あの光だったんですか?」
「ああ」
間を取るように、フィルロームは一口、薬草茶を啜った。
「あたしが見たのは、獣の牙と玉を使った、首飾りだったんだ。
なんであいつが持ってたか知らないが……二百年ほど前に一緒に冒険者をしてた人間から、あたしに贈られたものさ。本来は、あたしが生まれた部族で、婚礼の儀に男が女に贈るもんだった」
「えっと、つまり……その人間さんって、フィルロームさんと」
「ふふふ、長く生きてりゃ、そういう事もあったのさ」
したり顔で、フィルロームは笑う。
「ま、そいつは人間だから、とっくの昔に死んだがね。
その時、首飾りは体と一緒に埋めたんだ。
……あぁ、人間の流儀じゃこういう場合、形見として持っておくもんだってのは知ってるよ。でも、牙と玉の首飾りは、伴侶が死んだ時に返さないと、魂を迷わせちまうって言われてるんだ。それで、あたしは首飾りを返したのさ」
「その首飾りが出て来たことと、最後に森で戦ったエルフさんが消えたことの関係は?」
「んー、そうさね。あのエルフが、『森を出てしまった後悔』の具現だとしたら、分かるんだ。あたしはね、首飾りを返すまでの時間は……森を出たこと、後悔せずに済んだ」
何百年と続く後悔。
『森を出たせいで後悔したこと』の全てが、あの男に紐付けられていたのだろう。
森を出ていなければこんな思いはしなかったのに、と考えてしまう度、自分を止めた彼の顔がちらついたに違いない。だからこそ、あのエルフがラスボスだったのだろう。
だけど逆に、森を出たからこそフィルロームは愛する人に出会えた。
あの光はきっと、心の傷の中に埋もれていた『光』。闇のような記憶を照らす輝き。
そう、たとえ後悔を伴う選択だったとしても、その結果の全てが絶望にまみれているとは限らないのだ。
森を出てからの後悔と共に、森を出たために手に入れた光も、あの男のもとへ収斂した、という事か。
「その気持ちを思い出したらね。森を出た後悔が、すうっと薄れていったのさ。だからあの敵は、存在を維持できなくなった」
「そう、だったんですか……」
「感謝するよ、アルテミシア。あんたが気付いてくれたおかげで、本の世界を出られただけじゃなく、あたしは懐かしい気持ちを思い出せた」
ある意味壮絶な話だとアルテミシアは思った。
フィルロームが煎れた薬草茶を一口、飲み下す。
薬草茶は、渋みが強くて、だけどどこかほっとするような味わいだった。
* * *
「なんだ、買い物もして行くのかい」
「はい。お姉ちゃんから頼まれたものがありまして」
とは言え、まだ読み書きの方は怪しいので、アルテミシアは自分で見て回らず、レベッカから預かったメモをフィルロームに渡した。
しばらく店内を巡ったフィルロームは、五冊の本を持ってきてカウンターに積み上げる。
「これなら……千だね。千グランで売ろう」
「……えっと、もしかして安くないですか?」
本の相場は分からない。
が、『これくらいで足りるでしょ』とレベッカに渡された金の半分にも満たない金額だったので、なんとなくアルテミシアは聞いてみる。
するとフィルロームは、鼻を鳴らした。
「まけとくよ。昨日の詫びと……同じ緑の髪のよしみだ。耳はとんがってないけどね!」
「いいんでしょうか……」
「いいさ、後ろめたいならまた買い物に来な。
ついでに薬草茶を煎れて、思い出話のひとつもしてやるよ。なに、だいたいはつまらん話だろうけど、年寄りの話は聞くもんだ。そのうちどこかで役に立つだろうからね」
皺深い顔を笑み崩れさせるフィルローム。
その顔には、本の中の世界で見た在りし日のフィルロームの姿が……気風良く豪快な、女海賊みたいな雰囲気の彼女が、確かに存在していた。
「では、ありがたく頂戴します」
「ああ、そうだ……オマケにこの本、持ってくかい? もう悪い気は抜けちまったみたいだから害は無いはずだよ」
オマケと言ってフィルロームが持ち出したのは、まさしくアレ。
ふたりが閉じ込められた呪いの本だった。
「む、無害なら貰います……」
――どこかで物好きに売れるかも知れないし。
結局合わせて、荷物は六冊。
この世界の古本屋は、便利な紙袋もビニール袋も出してくれないので、アルテミシアはレベッカから借りた背負い袋に本を詰め込んだ。
「それじゃ、今日はこれで」
「あいよ、また来な。茶飲み話を用意して待ってるよ」
手を振るフィルロームに、アルテミシアはちょっと悪戯心を出した。
「その時は、首飾りをくれたって言う男の人の話、聞かせてくださいね」
半分本気の軽い冗談、くらいのつもりだったのだけど、フィルロームは目をぱちくりさせていた。
「何言ってんだい。首飾りをくれたのは女だよ。……おや、言ってなかったかい?」
「ええええっ!?」
キリスト教の価値観でガチガチだったどこかの地球と比べて、こっちの世界は案外おおらかだった。
* * *
その夜、アルテミシアは夢を見た。
いや、それが本当に夢であるかは分からない。
ただ眠りについたと思ったら、あの終わりが見えない大通りに立っていたのだ。
「あれ!? あの本、安全になったんじゃ……」
うろたえたが、あの時とは様子が少し違う。
空は変な色に暗くなっていたりしないし、周りの建物で記憶の上演会が行われてもいないし、敵も現れない。
人の気配が無いことを除けば、そこは穏やかな街の中だった。
どこからか鳥の歌声さえ聞こえてくる。安全になってはいるようだ。
ふと、後ろを振り返れば、大通りは途中から変化していた。
左右に建ち並ぶ建物は、石や漆喰の中世ファンタジー建築が、徐々に、ビルの建ち並ぶコンクリートジャングルへと変わっている。
地面さえ、タイルを敷き詰めた石畳から、歩道と舗装道路にすり替わっていた。
日本の都会の景色の中に、いくつもの光が、チカリ、チカリと瞬いていた。
良い思い出と悪い思い出を比べるなら、間違いなく後者の方が多かった、得より損が多かった前世の生活。そんな中にも確かにあった、輝く思い出の光。
道の真ん中には、そこに人が居ると言うことを感じないほどの静けさで、数人分の人影が佇んでいた。
アルテミシアの背中を見送るように、輪郭さえおぼろな、水彩画のような人影が佇んでいた。
それは通野拓人に関わりのある人々だった。
仲が悪く疎遠になっていたふたりの兄。
時折会うことがあった親戚のおじさん。
クソ上司について愚痴り合った職場の同僚。
数少ない、大学時代からの友人……
全てを失い逃げるように、こちらの世界へやってきたと思っていたけれど、捨ててきたものはあったのだ。
兄たちとさえ、どこかでボタンを掛け違えていなければきっと良い関係を築けていただろうし、なんならやり直すことだってできたはず。
しかしそれは、もはや叶わぬ願いだ。
通野拓人は、転生したのだから。
「そっか、そうだね。ごめんねみんな、さよなら地球。“コルムの森の”アルテミシアは、この世界で生きていくの」
アルテミシアは手を振って、日本の景色と、残してきた人々に別れを告げた。
どこかで不慮の死でも遂げない限り、これから、自分の人生も長いはずだ。
その間に、自分はいくつの後悔を抱えるのだろう。
そして、これなら転生しない方が良かったと思う日も……来るのかも知れない。
――それでも、生きていくしかないんだから。
ちゃんと頑張ろう。
行く先の街並みは、背後の景色に比べると、落書きのようにハッキリせず、未だ判然としない。
だけどその中に待つ者の姿もある。
アルテミシアより大きな人影がふたつ。
次第に駆け足に、そして弾むように、アルテミシアは飛び込んでいった。
エルフは緑の髪の人間に甘い