15-6 パジャマNo.5
柔らかな長椅子にタオルが敷かれ、アルテミシアはその上に寝そべっていた。
一糸まとわず、ただ腰にタオルが掛けられているだけという状態。
そんなアルテミシアを見下ろして、若い従業員が震えていた。
「む、無理です……! 私なんかが、この身体に触ることは……!!」
もし料理人が家一軒分の値段の高級食材を渡されて『好きなように料理してくれ』なんて言われたら、よっぽどの自信過剰か自他共に認める達人でもない限り、喜ぶより先に『迂闊な仕事はできない』と戦慄するだろう。
『大聖堂の天井いっぱいに渾身の宗教画を描いてくれ』なんて言われたら、並大抵の画家は尻込みするはずだろう。
つまり、だいたいそう言う事だった。
『美女神の泉』ではエステのサービスも受けられる。
当然のようにレベッカはアルテミシアを引っ張っていったが、出てきたスタッフはアルテミシアの肉体を整えるという極上の仕事を前にすくみ上がってしまったのだ。
「もういいわ、これは仕方ない。あなたは引っ込んでなさい」
「先輩、お願いしますぅ!」
結局、いかにもオカンパワーの高そうな中年のスタッフにバトンタッチして、ようやく施術は開始された。
オカンパワー。それは動じない力。己を貫く力。賞味期限切れの食品を無言で食卓に並べ、友を突き飛ばしてでもバーゲン品を手に入れる力。すなわちアルテミシアを前にしても普段通りのペースでいられる不動の心。
無造作にすら思える手つきで、しかしある種の指向性をもって、彼女はアルテミシアの身体を揉みしだいていく。
「こうやるとね、筋肉がほぐれて、身体の中で血の巡りも良くなって……
身体に溜まった悪いものが流れて出て行くの。あとついでに肌の保湿もね、このお薬ね」
「おおおおおおおおお」
ビブラートの掛かった声が喉から絞り出された。
若さのせいか、多少の無茶をしても肩が凝ったり腰が痛くなったりしない身体だが、それでも僅かにあった蟠りが消えていくような気がする。
身体に何かが塗り込まれていくのは……ちょっと違和感だが。
「でも、最初っからこれだけ綺麗だとやり甲斐無いわねえ」
「いいのよ、今日はひとまずいろいろ体験させてあげるのが目的だから」
隣で順番待ちをしつつ見物しているレベッカが、ちょっと不満げなオカンエステティシャンに話を振られて応える。
「あーら、英才教育ってこと?
そうよね、こういう子にはちゃんと教えてあげるべきよね。うっかり美貌をドブに捨てるような生き方されたら世界の損失だわ」
「はあ……」
当たり前のようにそんな事を言われるとアルテミシアは反応に困る。
今日という日は、女の子(あるいは女性)としての生き方を学ぶ一日であったが、同時に、自分がどれだけ非現実的なレベルの美貌を持っているのか確認する一日でもあった。
――いっそポーション作りのチートスキルじゃなくって、外見の方を活かすべきだったり?
と言ってもなー。巧く使えば武器になるでしょうけど、暴発事故も怖いしなー。
外見が美しいというのは、一般的に言えば良い事なのだろう。
だが、ここまで人目を引くとなると両刃の剣だ。大人しくしていても目立ってしまうし、そのせいで碌でもないトラブルに巻き込まれるかも知れない。誘拐とか嫉妬とかその他諸々。
詰まるところ、自分を知らなければならない。今の自分はどうすれば少しでもイージーに生きていけるのか。自分の美貌の適切な使い方を知り、伸ばしていかなければ……
「えと、それじゃ私はお連れ様の方を……」
「次、私です。よろしくお願いします!」
アルテミシアの相手を辞退した若い従業員が言うと、アリアンナが勢いよく手を上げた。
だがそのアリアンナ(の一部)を見て、レベッカは本気で心配そうな声を掛ける。
「…………アリア、あなたうつ伏せになれるの?」
「なーれーまーすっ!!」
* * *
ちなみにその後。
「わ、わ、私がこの髪を切ってしまっていいんでしょうかあああああ!?」
さっきと同じような事が理容室でももう一度起こった。
「ねえ、お姉ちゃん。もしかしてわたしの人生、ずっとこういう事が続くの?」
「諦めなさい」
* * *
「メイク教室は……今日もう終わり? うーん、間が悪いわね。先に時間見とけばよかった」
「そんなあ。私、楽しみにしてたのに」
アリアンナが思いっきり落胆の溜息を吐いた。
ロビーには長机を並べて衝立で仕切った一郭がある。今はがらんとして誰も居ない。
近くの立て札に書かれた文字は、おそらく『本日のメイク教室は終了しました』。どうやら1日3回でやっているようで、開催時間が併記されている。
「しょうがないから売店の化粧品だけ見ていきましょうか」
「うう……そうですね」
一行は仕方なく、すぐ隣の売店に向かった。
専用の部屋というわけでもなく、ロビーに直接棚を並べた、博物館やホテルの売店でよくありそうな形式だ。棚にはガラスの小瓶や小さな壺が並んでいて、その間を客が行き交って商品を物色していた。
何やら札の立った棚もある。『ひとり1本』や『売り切れ』と思われる。
「すごい……なんだか凄そうな化粧品がいっぱい……」
アリアンナは目を輝かせていたが、レベッカはざっと見て回って首を振る。
「凄そうなものばっかりよ、ここ。ひと味違う高級品とか、珍品とか。
その辺で市販されてるようなのはわざわざ置くまでもないってことかしら。初心者向けじゃないわね」
「そ、そうですか……」
今の自分が買っても仕方ないらしいと察したか、アリアンナはちょっと残念そうだ。
言われてみればこんな場所に来る人は、それなりの経験値を持つ歴戦の戦士に違いない。愛用の得物くらい持っているだろうし、その上でさらなるステップアップを図るための逸品を探しに来ているのだ。
手持ちの武器や自分の素質との兼ね合い。長所を伸ばすのか短所を補うのか。そしてお財布はそれを許すのか。そこまで考えての買い物だ。
レベッカに連れられてパワーレベリングをしに来たヒヨッコふたりは場違いだった。
「高レベルな装備を買ったところで、実力が付いていかなきゃ扱いきれないでしょ? それと同じよ」
「確かに普通の化粧品と何が違うのかよく分からないです……」
「アリアの歳じゃ、まだ化粧品自体あんまり使わない方がいいと思うけどね。
でもま、香水とか口紅とか爪紅なら、試しにひとつくらい買ってもいいんじゃない?」
「うーん、どうしようかな……」
セールストークが書かれているらしいポップが商品毎に立ててあって、アリアンナは真剣にそれを読み始めた。レベッカも続いて商品を物色し始めたが、アリアンナほどがっついていない。ここに置いてあるレベルの品はとっくに全部知っていて、もちろんその効き目も把握していて、後は選ぶだけといった風情だ。
化粧品を選ぶ女ふたり。字が読めないアルテミシアにはちょっと退屈な時間だった。いや、レベッカに頼めば読んでくれるだろうけれど……
「えーっと、流石にわたしはこれいいよね? 子どものうちからお化粧って……」
いくらなんでもお化粧は自分には早いという気がした。
子どもが化粧をする文化も確かに存在する。が、アルテミシアが見る限りでは、このゲインズバーグではそうではない。おそらくレンダール全体でも。
「そりゃレンダールじゃお貴族様の娘でさえ、子どもはお化粧やらないけど……
化粧品ってね、顔を飾るためのものとは限らないのよ。お肌のケアに使うためのものもあるわ」
「あ……そっか、なるほど、それも化粧品なんだ」
レベッカに言われて気が付いた。ハンドクリームだって化粧品なのだ。
かつて男性として生きていた頃は、肌が荒れようと吹き出物が出来ようと全く気にしていなかった。お肌のケアと言えば、手の甲にあかぎれが出来てしまってからようやくオ●ナインという程度。いや、これは化粧品ではなかった。
もうそんな適当な生き方をしているわけにはいかないのだ。
「そうね、アルテミシアにはここの売り物より、こういうのが良いかしら」
そう言いながらレベッカは、自分の手荷物からガラスの小瓶を取り出した。
「これって……」
「肌の保湿に使う液体。私も使ってるやつね。
冒険中はお化粧なんてしてられないけど、最低限の肌ケアはしてるの。
あなたはまだお化粧するような歳でもないし、これを付けとけば十分じゃないかしら」
ポーション容器のようでもあるが、中身は薄青く粘性のある液体だった。
肌の保湿はケアの基本。乾燥した肌は荒れ、ダメージを蓄積していくのだ。
「私も使ってみていいでしょうか」
「いいわよー。高いものでもないし、じゃんじゃん使って」
売店の化粧品を見ていたアリアンナも興味津々で寄ってきた。
レベッカは瓶を景気よくひっくり返し、謎の化粧品をアリアンナの手にぶちまける。
それをアリアンナは手をすりあわせて伸ばし、顔に塗り込んだ。
「わ、なんか本当にお肌によさそう。これって何なんですか?」
「アクアスライムの粘液を中和して希釈したやつ」
「ひい!?」
悲鳴を上げたアリアンナは総毛立ち、手を止める。
そして、脅える小動物のように震えながら顔を拭いた。
「無害よ」
「気分的な問題です!」
「安くて効くのに……
アルテミシアはこれどう?」
「えっと……じゃあやってみる」
「うわ、平気なの? すっごい……」
アルテミシアも手を出して、怪しげなスライム液をいただいた。垂らされた液体はゲルのような感触で、ひんやりと冷たい。
手の中で伸ばして顔に塗ると、水で濡れた時のような清涼感があった。
「変な感じ。でもウルオイってのは来そう」
「そうそう。
あなたの玉のお肌、今はまだこんなもの付けなくても無敵だけど、人が人として生きている以上、老いからも衰えからも逃げられない。今からこうして努力していれば、あなたの美しさは長く長く保たれるわ」
アルテミシアの外見について義務感を持っているらしいレベッカは、天然由来100%の化粧水を付けるアルテミシアを見てご満悦だ。
そこへ、水を差すようにコツリと響くヒールの音。
「長く長く……本当にそれでいいのでしょうか。
老いたくない、衰えたくない。それは人にとって根源的欲求でございましょう。
もしかしたら、それを実現する究極の美容法が世界のどこかにあるかも知れない……」
愁いを帯びた艶めく声。
例によって4人の取り巻きを魚鱗の陣で引き連れ、ジュリエッタがやってくる。
「レベッカ様、『美女神の泉』をお楽しみいただいておりますでしょうか」
「これでタダなら最高」
「それはようございました。
お値段に関しましては……フフ、浮き世は何をするにも先立つ物が必要になりますゆえ。
これでも種々のコストを思えば、良心的な価格でご提供させていただいているのですよ」
上品に笑うジュリエッタの背後で、取り巻き4人は無表情でスタイリッシュなポーズを取る。
何をしているのかよく分からないがジュリエッタの背景としては絵になる眺めだった。5人合わせてひとつの芸術品のようだ。タイトルを付けるなら『美、もしくはバカの肖像』。
「ま、いいわ。ちょうどよかった。
……ここ、ハチミツって置いてない?」
「ハチミツですか? 料理用でしたらあると思いますが……あっ」
唐突なレベッカの言葉にジュリエッタは首をかしげたが、すぐに何か思い当たったようで手を打った。
「パックでしょうか」
「正解」
「え? パックって顔に塗ったりするやつ?」
当たり前のように話が通じているレベッカとジュリエッタだが、そんな健康法はさすがに聞いた事が無いアルテミシア。アリアンナもピンと来ない様子だ。
「アリアがスライムやだって言うから、代わりにパックを教えてあげようと思って。
意外に思う? ハチミツってお肌に塗っても効くの」
「お使いになるのでしたら、調理用のものを持ってこさせましょう」
「ごめんなさいね。用意してあると思ったから聞いたんだけど、手間取らせちゃったみたいで」
「いえいえ、これは私どもの不徳の致すところ。
調理用のハチミツがあるのですから、パック用にも準備しておくべきでした」
取り巻きのひとりがその辺の従業員を捕まえて命じ、ハチミツを取りに走らせた。
4人も似たようなのが居るんだからひとりくらい居なくなっても支障は無いような気がしたアルテミシアだが、取り巻き自身はジュリエッタを離れないらしい。
「ところでレベッカ様、貴女様はアルテグラドのご出身で?」
唐突な問い。
レベッカの双眸がすっと細められた。
「どうして?」
「ハチミツパックなんて珍しい美容法ですが、あちらの王侯貴族の間では近年流行したと聞き及んでおります」
「詳しいのね」
「それはもう、美に関する知識は世界中から掻き集めておりますので」
レベッカは、あまり愉快ではなさそうだった。
「そーよ、私はあっちの出身だわ」
「遠方の情報というのは、なかなか手に入らない貴重なもの。
あちらの美容法などご存知でしたらご教授いただけませんか?」
「こっちとそんな変わらないわよ。美の基準が違うところとかは真似してもしょうがないし、子ども向けの化粧法なんかは聞いてもしょうがないでしょ」
あからさまにあしらうような物言いをするレベッカだったが、ジュリエッタは微笑むだけだ。
「そうですね……ハチミツパックも試してみましょうかしら。効果が確認できたら、お客様にも提供させていただこうと思います。
世に知られていない有効な美容法があるなら、それをお伝えするのが私の使命」
「気合い入ってるわね。良さそうだと思ったら、なんでも貪欲にやってみるワケね。しかも自分自身で試してから」
「それはもちろん。皆様に美を提供する以上、私自身が美しくあらねば説得力に欠けますもの」
ジュリエッタは優雅な決めポーズで胸を張る。
確かに自分で言うだけあって、ジュリエッタは美しい。磨き上げた大理石のように美しく艶やかな肌。身体はまるで著名な彫刻家が作った人物像のように、肉の付き方が1グラム単位で完全に管理されているという印象を受ける。表情にも隙がない。いつどこから見ても完璧な淑女として微笑んでいる。
人間の身体にこんな表現をするのは変かも知れないが、人工的造形美の極致だ。
そんな彼女を、レベッカは感情の無い目で見ていた。
「普段はどんな美容法を?」
「この施設のサービスと同じ事ですわ。私が培ったノウハウは、余さず皆様にご提供させていただいております。
後はそれを、日々決して絶やさず行っているというだけのこと」
「なるほどね。毎日こんな事してりゃ……」
「左様でございます。
冒険者であるレベッカ様はままならぬものとお察し致しますが、せめてこちらへお越しになった際は、普段できずにいる分までお身体のお手入れをなさっていただければ」
何気ない普通の会話。だが、何かが不穏だった。
レベッカとジュリエッタ。それぞれの目に稲妻が閃いている。
レベッカが純粋な興味とか、参考にするためとかの理由で聞いているわけではないのだとアルテミシアは気付いてしまった。
レベッカは何かを探っている。そしてジュリエッタは、それを薄々察して、はぐらかすような答えをしている。
「ハチミツをお持ちしました」
空気を読まない従業員が間に割って入り、睨み合いは水入りとなる。
「ご苦労様。オーナーさん、こっちの教室スペース借りていい?」
「どうぞどうぞ」
お互いに意味ありげな視線を投げ交わし、何事も無かったかのようにふたりは別れた。