15-4 ヴァルキリー・フロハイル
その建物を一言で言い表すなら、堅牢な石の箱、と言うのが適当だろう。
辺りには水の匂いと、生ぬるく湿った風が漂う。
「お風呂、かあ」
レベッカがアルテミシア達を連れてきた場所は街中の公衆浴場だった。
老若問わず多くの人が出入りしており、意外なほどに賑わっている。そして、よく見ると客は女性ばかりだ。
アルテミシアの聞きかじり知識では、確か地球の中世だかルネサンスだかのヨーロッパでは、入浴が忌避された時期もあるという。病原菌を媒介するという迷信、売春やインモラルな出会いの温床となる事への批判、などなど。裸を見せる事をタブーとする、キリスト教の価値観によるところも大きい。
もっとも、その中世ヨーロッパでも一時期を除けば、ローマ帝国に端を発する入浴文化は庶民にまで浸透していたという説もある。
他の地方に目を移せば、江戸時代に銭湯が社交場となった日本はもちろん、イスラム圏でも公衆浴場は文化の中心地だった。個人で浴場を持つ事が贅沢だった時代、公衆浴場は庶民が集う場所だったのだ。
「もしかして、ここって出来たばっかりだったりする?」
「の、はずよ」
妙に小綺麗な壁を見てアルテミシアが言うと、レベッカが肯定した。
「ここ10年くらい、大陸中で公衆浴場が増えてるらしいのよ。流行みたいなもので。
なんでも、ひとりのカリスマ技師が斬新な発想の公衆浴場を次々作って回ってるらしいの。
特にシャワーヘッドの発明は浴場革命と呼ばれたわ」
「テル●エ・ロマエだ……
テルマエ・ロ●エやってる転生者が居る……絶対居る……」
滞在しているスイートの浴室が、なんか妙に近代的だった理由をアルテミシアは思い知った。
高級旅館が最新の設備を取り入れていてもおかしくない。
「入浴の医学的な効果を宣伝したりとか、イメージアップを図るキャンペーンもあったみたいね。
とにかく、みんな前よりお風呂へ通うようになってるのよ。需要があれば供給も増える、ってね」
「それで新しく建ったのかあ」
「コルム村でも共同管理の浴場を作ろうって話になってるの。領の援助制度もあるそうだったんだけど、こんなことになっちゃったからしばらくお預けかな」
「なるほど、村でお風呂建てるんだ」
「村長さんに聞いたんだけど、国によっては小さな村でも絶対にお風呂があったりするらしいんだって」
なんにせよ風呂狂い民族としては、世の中に風呂が増えるのは非常にありがたい。
「でも、お風呂なら今泊まってる部屋にもあるよね? なんでわざわざここへ?」
「違うの、アルテミシア。ここはただのお風呂屋さんじゃないの」
アリアンナがずいっと進み出る。
「この浴場は美容をテーマにして女性専用でやってるの。
エステはもちろん、美容にいい食べ物を集めた薬膳食堂とか、宮廷で流行のメイクを教えてくれるお化粧講座まで!」
「アリアも知ってたのね」
「そ、そうなんだ……」
解説するアリアンナは鼻息も荒い。
コルム村はゲインズバーグシティから日帰りできるほどの距離。行き来もあるのだから、街の噂も入ってくるだろう。
慎ましい農村暮らしでオシャレの機会に飢えていたアリアンナにとって、今話題の美容空間は、輝くような憧れの場所だったのだ。
日本にもスーパー銭湯というのがあったが、地球の歴史上存在した公衆浴場には、美容に良い食べ物を売ったり散髪をしたり、医者が常駐して医療サービス(瀉血とかだが)を提供する公衆浴場まであったとか。
ちなみに女性専用というのはこの公衆浴場に限った話でなく、施設ごとに『男性専用』か『女性専用』とするのが領の方針らしい。
なんでも以前は曜日によって男湯か女湯を分けていたそうだが、入浴需要の高まりに従って施設で分けることにしたとかなんとか。おかげで男女問わずいつでも入浴できるようになったのだ。
「きっと私なんかがここへ来る機会は無いんだろうなーって思ってた!
でも! 今日の私にはお小遣いがあるっ!!」
お財布を握りしめてアリアンナはガッツポーズ。
「私も、街に居る間に一回くらい行ってみようと思ってたんだけどねー。その矢先にあの大事件でしょ。
クソガキに建物ぶっ壊されてなくて良かったわ」
幸いにもこの辺りの区画に破壊は及んで居らず、あの事件から日も浅いというのに絶賛営業中の大入り満員という様子だ。
「一カ所でいろいろと美容サービスが受けられるんだもの、今日はフルコースでやっちゃいましょ」
「お、お手柔らかにお願いします……」
――って、要するにこれから女湯に入るんだよね、わたし。
アルテミシアはふと足を止める。ほっぺの辺りが引きつっている。
なんだかもう、三十余年男として生きて築き上げたものを片っ端からへし折って踏み躙っていく一日という気がする。
女湯……ある種のスケベ男どもには夢の花園だ。まあ通野タクトは三次元の女湯なんぞには興味を示さない男だったが、だからと言って平気で女湯に入れるわけではない。
いや、今のアルテミシアは紛う事なき女の子なのだからして、女湯に立ち入ったところで全然全くこれっぽっちも問題無いのだが。
「思ったより混んでたわね。早く入りましょ。
お風呂はいいとして、他の待ち時間長かったら帰りが遅くなっちゃうかも知れないわ」
「うん……」
――問題無いのは分かってるのに……この無駄な背徳感!
アルテミシアは心持ち、身を縮めながら男子禁制の世界へ足を踏み入れた。
* * *
そんなアルテミシア達を待っていたのは、煮え立つ湯船にも負けない、人々の熱気だった。
……主にレベッカに対して。
「いやぁーっ! レベッカ様! レベッカ様よ!」
「わ、私たちをお救いくださいまして、うわっ、わあああああん!」
「こっち向いてー!」
周囲に同性しか居ないという状況において、だいたいの人はノリの良さに強化が掛かり、理性に弱体が掛かる。
一行がロビーへ足を踏み入れるなり、その場に居た人々が一斉に襲いかかってきた。
なにしろレベッカは、内実はどうあれ外見的にはクールで逞しいお姉様なので、男子禁制の空間においてはアイドル扱いだ。
「素敵ー! 抱いてー!」
「犯してー!!」
ドサクサ紛れにとんでもない叫びまで上がる。
「ちょ、ちょっとどいて! 動けないわ!」
流石のレベッカも動けないどころか、アルテミシアを抱き寄せて守ったまま人だかりによって徐々に押し流されていく。
全員殴り飛ばしていいなら、このスクラムを抜ける事はレベッカには容易だろう。だが、そうもいかない。
「お客様方、どうかご静粛に!」
いよいよ進退窮まって剣を抜くか迷い始めた様子だったレベッカを救った(と言うか群がる人々を救った)のは、柔らかくとも圧を持つ、女の声だった。
石造りのロビーに、カッ、カッ、と鋭いヒールの音が響く。それも複数。
濃緑色をした揃いのアフタヌーンドレスを着た5人の女性が、『く』の字型の陣形を取って歩いてきた。
同じ服を着ているとは言え、5人の中に主従の関係があるのは明らかだった。先頭に立つ女は、身に纏う空気だけで人目を引く。残り4人はあえて影に徹しているような物腰だ。
「私どもは、全てのお客様に等しくサービスを受けていただくことをポリシーとしております。
どうか、他のお客様のご迷惑となりませぬよう」
艶やかな唇が動き、睦言にも似た響きの言葉を紡ぐ。その言葉は『お願い』の体裁を取ってこそいたが、全く有無を言わさぬ雰囲気だった。さもなくば自分が相手になる、と言わんばかりの。
集まった人々の波がようやく引いていく。
みんなレベッカに興味津々なようだが、最低限の理性と節度を取り戻したようだ。
「ありがと、お陰で助かったわ」
「どういたしまして。
そしてレベッカ様、ようこそいらっしゃいました。貴女様のように強く美しい御方にご利用いただけまして、とても嬉しく思っております」
先頭の女がにっこりと微笑むと、付き従う4人がレベッカに礼をする。
「申し遅れました……
私は当施設『美女神の泉』オーナー兼支配人。ジュリエッタと申します」
そしてジュリエッタも優雅な所作でドレスをつまみ、軽く膝を折った。
若い女、かどうかは分からない。だが若々しい美貌の女だった。
美しい黒髪を上品にアップにまとめている。
体型はどちらかといえばスレンダー。華やかなドレスも露出は少ない。飾った雰囲気の無いナチュラルメイク。媚びたような仕草も無し。
だが、彼女を形容する言葉は『性的』以外にあり得なかった。
指先の動きひとつさえ艶めかしく、溜息ひとつが辺りを染める。
後ろに控える4人も、それぞれに美しい容姿をしている。
方向性はひとりひとり微妙に違うが、総じて言える事は、生まれ持った資質としての美しさと言うより、血の滲むような努力の果てに作り上げられた美貌、という雰囲気。
――えっと、ジュリエッタさんはオーナー支配人で良いとして……この4人の仕事って何?
まさかジュリエッタの装飾品代わりの取り巻き、というわけではないと思いたいがアルテミシアは否定しきれなかった。
聞いてみてもいいのだが、なんか答えを聞くのが怖い。
「あなたが……ここを作ったんですか?」
アリアンナは、憧れていた美の殿堂の女主人と向かい合い、目を輝かせていた。
「ええ、そうですよ、リトル・レディ。
近年の公衆浴場ブームは誠に結構なものと思いますが……やはり、身体を清潔にするだけでは物足りません。さらに一歩進んで、女性が美を追究するための場所を作りたいと考えたのです。
……お越しになるのは今日が初めて?」
「はい!」
「そう。どうぞごゆっくりお楽しみください。今より美しくなってお帰りいただけると確信しておりますわ」
「あ、ありがとうございます!」
立て板に水とはこのことだ。
一見するとお高くとまった雰囲気にも思えるが、ジュリエッタはお登りさんモード全開のアリアンナにも丁寧に応対している。
丁寧と言うより、定型句的なセールストークのようでもあったが……
「にしても、またずいぶん大繁盛みたいね」
レベッカがロビーを見渡して言った。
遠巻きに様子を見ている人も居るが、それでも入っていく客と出て行く客がひっきりなしに流れている。
夏休み中のレジャー施設のような活気と賑わいだ。
「未だ『悪魔災害』の爪痕が残る中です。
燃料の流通は領の管理下にあり、公衆浴場の営業に十分なだけの燃料を確保する事が難しいのです。
サウナのみの縮小営業をする浴場が多い中、私どもは独自のルートから燃料を入手し、通常営業を行っておりますので……」
「あら、そゆことだったの?」
「ええ。ですがそれだけでなく、サービスの質にも絶対の自信を持っております」
そこでジュリエッタはちょっと言葉を切って、辺りをはばかるように一瞬視線を泳がせる。
「不謹慎かも知れませんが、お越しくださいました皆様には、この機会に私どもの美の城の素晴らしさを知っていただければ、とも思います」
そして彼女は、誘惑するサキュバスのようにいたずらっぽく微笑んだ。
同業他社を出し抜いたフル稼働営業。
普段は来てくれない客もここへ来ているのだ。
この機会にサービスを味わわせてリピーターにしようというのは、商売人として当然の思考だろう。
「中でもお勧めするのは『若返りの薬湯』です。
特別に手に入れた魔法薬を用いた薬湯でして、ひと味違う美肌効果がございます」
「私らが若返ったら赤ん坊じゃない?」
「それはもう、赤ちゃんのようなピチピチのお肌をお約束いたしますとも」
皮肉っぽいレベッカの言葉にも、ジュリエッタはクソ真面目に切り返し、満開のバラのような笑顔で応じた。むしろこれは彼女なりのウィットだ。
「まずはロビーで受付を済ませ、入湯料をお支払いください。入浴衣とタオルの貸し出しは無料となっております」
「分かったわ」
「どうぞ、ごゆっくり……」
またも優雅に礼をしてジュリエッタが踵を返すと、背後に控えていた取り巻き4人は道を空ける。
そして再びジュリエッタの背後に付き、来た時と同じ逆鶴翼の陣で帰って行った。
「ふわぁ……すっごい綺麗な人だった。
やっぱり、こんな場所を作るんだもん。心がけも違ったね!」
アリアンナは感心しきりだった。
誰もが知る有名人というわけでもなさそうだが、それでもジュリエッタがある種のカリスマ的人物であることはアルテミシアにも分かった。ジュリエッタはアリアンナにとって憧れの具現であり……そしてそんな人物に『リトル・レディ』と呼ばれたことで舞い上がってしまったようだ。アリアンナはどちらかと言うと単純だった。
「……どうにも胡散臭い女どもね」
呟いたレベッカの義眼は、うっすらと赤く輝いていた。