12 天地始之事 小麦異聞譚
アルテミシアは、眼前の難敵と睨み合っていた。
その緑色を『鮮やか』と言うか『毒々しい』と表現するかは意見が分かれるところだろう。
数十枚の甲殻を無造作に積み重ねたような偉容は、砦のように堅牢で他を拒む。
ひときわ緑の濃いヒゲのような部分は、柔らかく弾力に満ちた冒涜的質感。
所々には、炯々と赤く不気味に輝く箇所もある。
……即ち、サラダである。
「どしたのー、アルテミシア」
窓の外は既に薄暗いが、魔力灯のサーチライトがまばらに輝き、復興のための工事が始まっている。どこからか職人の声が聞こえ、通りを駆ける馬車の車輪の音が時折響く。
高級ホテルのスイートで食卓を囲む女三人。シェフが領城に出向しているとかで、本日の夕飯はレベッカがどこかで買ってきたもの中心だ。なにしろ今は他に宿泊客が居ない。
メニューは満腹度が50くらい回復しそうな丸いパンと、正体不明の卵料理(卵とチーズを混ぜて団子状にしてフライしたカロリーの暴力)と、問題のグリーンモンスターだ。レタスと、インゲン豆のようだが微妙に違う何か、プチトマトに見えるが葉の形が違う何か。
ちなみにレベッカはこれに加えて、ゼンマイのようなものを唐辛子(この世界に『唐』は存在しないはずだが翻訳を介してそう聞こえるので同じ植物なのだろう)で味付けしたものをツマミに、アルコールそのものに限りなく近いと思しき謎の酒を飲んでいた。
「……なんでもない」
サラダは趣味の良い木製の小鉢に盛られ、ひとり分ずつ取り分けてある。
アルテミシアは、先程の一口を思い出して慄然としながらも、おそるおそるフォークを突き下ろし、瑞々しいレタスの葉を取り上げた。こちらに来てから初めてのサラダだ。
あの地獄のような一瞬、先程の一口が何かの間違いでありますようにと祈りながら、思い切ってそれを口に含む。
――……!?
想像を遥かに超える青臭さが口の中に広がり、脳を貫いて頭のてっぺんから突き抜けた。
シャキシャキとした新鮮な食感と共に、死に到る毒のごとき苦みが押し寄せてくる。
それ以上噛めずに無理やり呑み込んだアルテミシアは、慌てて卵チーズフライで口直しをした。
――うえぇ……転生前と味覚が変わってる。
これって年齢? 性別? それとも個人差……?
アルテミシアは転生以来、『やっぱり料理の味が日本とは違うなあ』とか呑気に考えていた。同じ地球上でも、他所の地方や国へ行けば、まったく味の違う料理があるのだから。
だが、事ここに到ってアルテミシアは遂に確信した。確かに味も違うかも知れないが、それ以上に自分自身の味覚が変化しているのだと。
転生によって、食欲はかなりアップした。
一日三食たっぷり食べても、ご飯の1時間前には既に耐えがたいほどお腹が減っている。カ●リーメイト一箱で徹夜を乗り切った社畜時代の自分が信じられない。
だが、それだけお腹が空いているというのに、目の前の食べ物が美味しく感じられないのはどういうわけか。
「おのれ、葉物野菜……許しがたい青臭さ」
ただのレタスが、吐き出してしまいそうなくらい青臭い。
食卓についたふたりを見れば、レベッカもアリアンナも平然とした顔で緑の悪魔を口に運んでいる。
「……もしかして野菜嫌い? ダメよ、ちゃんと食べないと。こんな新鮮な生野菜が食べられるなんて贅沢じゃない」
最大の偏食要員であるレベッカにそれを言われるのは釈然としないアルテミシアだったが、確かにレベッカの偏食に比べると、『野菜が食べられない』というのはいかにも子どもっぽくて格好が付かないのも確か。
「うちの村で取れた野菜は、領城の料理にだって使われてるんだから!」
アリアンナがドヤ顔で胸を張った。シャツのボタンが弾け飛ばないか心配だ。
この野菜はコルム村の者が野菜を売りに来たついでに、アリアンナにお裾分けしてくれたものだ。
ゲインズバーグシティの周辺には、近郊農業を行う衛星農村がいくつかあり、コルム村もそのひとつだった。
ありがたいことも分かっている。大切な栄養になることも分かっている。
だが、どうしようもなくマズイ!
転生前はこれと言って好き嫌いが無かったはず。『嫌いな食べ物があるとはこういうことか』と、アルテミシアはしみじみ思う。いや、しみじみなんて思ってられない。ピンチだ。
――今のわたし、身体年齢以上にどうしようもないお子様味覚なのでは……
未就学児(←地球基準)ならまあ仕方ない。
年齢一桁くらいまでなら、まだ野菜がまともに食べられない子どもも居るかも知れない。
しかし、この歳で野菜が食べられないのはちょっと恥ずかしいという気がする。
――苦いのがダメなら、辛いのはどうかな?
もしかしたら青臭く苦いものだけが特別ダメなのかも知れない。
辛いものが食べられるなら多少は面目を保てる! と、ショックで少々混乱した頭で考えるアルテミシア。
「……ねえ、お姉ちゃん。そのおつまみ、一口貰っていい?」
「これ? 別にいいけど」
アルテミシアはちょっと身体を乗り出し、ピリ辛ゼンマイをひとつまみフォークに引っかける。
見たところ、激辛料理というわけでもない。お酒のおつまみとして標準的な味付けのように見える。
思い切って口に入れると……
「むぐ―――!?」
口の中で噴火と爆発が起こり、隕石が2,3個落ちてきた気がした。
「あーあー、やっぱり。水飲みなさい」
「お、お姉ちゃんこういう時に水って逆効果……牛乳あったっけ?」
「ほいほい」
レベッカは原理不明の魔法冷蔵庫から牛乳のピッチャーを出して、コップに注いで差しだした。
それをアルテミシアは貪るように飲む。舌の痛みがちょっとマシになった。
「うー……辛いの全然ダメだ。
4辛カレーとかでも平気だったのに……」
もはや認めるしかない。
アルテミシアは救いがたき味覚の持ち主なのだと。
ふと気が付けば、自分の尻尾を追いかけてる仔猫でも見ているような温かい視線×2。
レベッカとアリアンナが食事の手を止め、とろけるような笑みでアルテミシアの方を見ていた。
「……えっと、どしたの?」
「だってえ、アルテミシア外見はこんなに可愛いのに、どっちかって言うと大人な雰囲気なんだもん。
苦いものも辛いものもダメなんて意外な一面、微笑ましくってもうダメ」
「わたしも今知った……」
トホホな事実の発覚に加え、それをチャームポイントにされてしまったことで、精神的疲労のあまりアルテミシアは食卓に突っ伏してしまいそうだった。
しかし、そこにご飯がある以上、まず食べねばなるまい。
結局、アルテミシアは四苦八苦しながらどうにか緑の強敵に辛勝した。
* * *
翌日、アルテミシアは自らの味覚を知るための旅に出ることを決めた。
目的地は徒歩10分ほどの場所にあるカフェ。果てしない旅だ。
この世界にも、そしてこのゲインズバーグにもコーヒーは存在する。
さすがに自販機に100円入れて買うようなわけにはいかないが、コーヒーをメインの商品として軽食などを提供する、喫茶店という業態は確立されているようだ。市民の憩いの場であり、ちょっぴりハイソな噂話と日曜大工レベルの学問話が集う場所だ。客層は男性中心、しかし女性が来ないわけでもない。
お値段はと言うと……庶民でも手が届く値段ではあるが、そこまで気軽な店ではない。コーヒー一杯がちょっと奮発したランチに相当する。
だが値段が高いと言う事は客層が良い店と言う事でもあり、女の子がひとりで出入りしてもトラブルに遭う可能性は低いだろう。
例の浮かれた服は引っ込めて、アルテミシアはぴしっとしたワイシャツに紺色のジャンパースカート、首元にはスカートとお揃いの色のリボンという、どっかの名門私立小学校の制服にありそうな出で立ち。レベッカが買ってきた服だ。
ちなみに出かける前にこの服をレベッカに見せたところ、『中産階級上流くらいの家庭の育ちの良い女の子が、ちょっと背伸びしたいお年頃になって、普段着レベルのオシャレをしてお小遣い握りしめて、人生で初めてカフェに来てみました的な微笑ましさ』と評された。
そう言われると鏡の中の自分がそうとしか見えなくなって衝動的に鏡をかち割りたくなったがアルテミシアはこらえた。
「一緒に行きたいけどやめとくわ。ひとりでカフェに入るあなたを想像すると可愛すぎて、その姿を汚したくないの」
「お姉ちゃん倒錯しすぎ」
かくしてアルテミシアはカフェにやってきた。
アルテミシアには読めないが、木彫りの看板には『カフェ・ふくろうの巣』と書いてあるらしい。
そこは表通りに面した、東屋のようなオープンカフェ。パラソル付きのテーブルと簡素な椅子が溢れ出して歩道を圧迫している。営業時間中は通り側の戸を取り払っているらしく、植木鉢が吊された店内でくつろぐ客の姿も外からも丸見えだ。
優雅に新聞を読む紳士。顔を突き合わせて商談をしているらしい商人風の男たち。紙に何かを書き付けては破り捨てている芸術家風の男。バーテンのようにカウンターに立つ、品の良い初老のマスター。時間が時間だからか、まだ客足はまばらだった。
そして……異様に高いタバコ率。
「……この世界に分煙の光を」
キセル、きせる、煙管。立ち並ぶ煙突からの大気汚染。
もはや分煙がどうこう言うレベルではなく、煙草を吸っている方が普通と言えるほどに男性の喫煙率は高い。日本だってほんのつい最近までこうだったそうなのだから、仕方ないのかも知れないが。
オープンカフェを狙った理由はこれだ。風通しが良いおかげで、多少は煙害がマシになる。
――たのもー。
心を決めて、アルテミシアは店に足を踏み入れる。
日に焼けた床板がキシリと鳴いた。
常連らしい男性客とカウンターで話をしていたマスターは、アルテミシアの姿を認めて軽く会釈する。
「やあ、いらっしゃい。これはまた可愛いお客さんだ。
ちょうど今日から店を開けだしたんだ。もしかして待っててくれたのかな?」
100点満点のロマンスグレー・ボイス。だいたい外見通りの声だ。
マスターの挨拶はさすがに如才ない。しかし、周囲の客の反応は別だった。
マスターと話していた男はぽかんとした様子で口を開けてアルテミシアの方を見ている。新聞を読んでいた紳士はちらりとアルテミシアの方を見た後、新聞に目を戻しかけてアルテミシアを二度見。商人風の男たちの商談は止まり、芸術家風の男の筆が当社比1.75倍ほどの速度で動き始めた。
こういう反応はなんとなくこそばゆい。そして、ちょっと鬱陶しい。
今日はひとり静かにコーヒーと向き合い、一対一の果たし合いをするつもりだったのに、ただそこに居るだけで注目の的になってしまう。
アルテミシアは周囲からの視線をなるべく気にしないようにして、まっすぐカウンターに向かった。カウンターの高さはアルテミシアの首くらいまであり、アルテミシアはちょっと背伸びした。
「コーヒーを一杯いただけますか」
「いいとも。何かお好みはあるかい」
「えと……銘柄とかは分からないので、スタンダードなのがあれば」
「分かった。砂糖とミルクは?」
――さぁ、来たぞ。
熟練のコーヒー使いたるマスターが繰り出すは、荒ぶる黒き獣。
こいつに鼻薬を嗅がせて弱らせてやろうというのだ。
弱ったコーヒーに勝つのは容易い。だがしかし、そんな軟弱な真似をするためにカフェ・コロシアムに足を運んだわけではない! 今日のアルテミシアは己が誇りを賭けて戦うグラディエーターなのだ!
なぜベストを尽くさないのか!!
「……ひとまず、ナシでお願いします」
「ふむ、了解した」
マスターは穏やかに微笑み、コーヒーミルでゴリゴリと豆を挽き始めた。
すぐに良い香りが漂ってくる。
ガラス製の瓢箪みたいなコーヒーメイカーにフィルターが敷かれ、そこにお湯が注がれると、黒き獣がその姿を現した。
「はい、お待ちどう」
ごくりと緊張に息を呑み、アルテミシアは差し出されたカップを受け取った。
そっとテーブルまで運び、敵を観察する。
なみなみと注がれたコーヒーが湯気を立てている。かぐわしい香りが鼻腔をくすぐった。
さて、これを飲めるのか。
ダメな気はする。
しかしこの苦さは、野菜の青臭さとは趣が異なる。
――コーヒーなら残業社畜には馴染んだ味、魂の友。たとえ身体が変わろうとも、きっと友情は変わらないはず!
コーヒーは友達! 怖くない!
戦うべきなのか仲良くなるべきなのかなんかもうよく分からない。
軽く吹いて冷ましてから、おそるおそるアルテミシアは、舌の先でちょっと触れる程度、ブラックコーヒーを口にした。
「苦っ!?」
思わず声を上げてしまった。
マズイとか苦手という話ではなく、飲めない。本当に飲めない。
ただ口に入れただけで、鼻面を殴り続けられているような強烈な苦痛に襲われる。
もしこれを無理やり飲んだら、内臓ごと吐いてしまいそうだ。
はっと気が付くと、辺りは優しい空気に包まれていた。
――やめて……!
揃いも揃ってその仔猫を観察するみたいな目、やめて……!!
店中から暖かなまなざしを集中放火され、アルテミシアは顔から火が出るかと思った。
机に半ば突っ伏し、アルテミシアは頭を抱える。
「コーヒーの美味しさが分からない人生なんて……っ。
でも分からない。わーかーらーなーいー。
ブルーマウンテン、お前もか……」
ちなみに多分銘柄はブルーマウンテンではない。ましてやユリウス・カエサルを裏切ったブルータスではない。
「薬草茶は平気なんだけどなぁ。
…………もしかしてアレ、かなりマイルド?」
アルテミシア自身、調合用の薬草をよくお茶にしている。ほろ苦くて美味しいと自分では思っていたのだが……言うまでもなく、味を調整しているのはアルテミシア自身であり、アルテミシアの味覚に合わせた味に仕上がっているのだった。
アルテミシアは敗北を悟った。ブラックコーヒーは強敵だった。と言うか自分が弱かった。
「ごめんなさい、お砂糖と……ミルクもお願いします」
「ははは、いいとも」
マスターはにこやかに敗者を出迎えた。こうなるのは予想済みとでも言うように。
「どれくらい欲しい?」
「ええと……分からないんで、ちょっと自分でやれます?」
「分かった。こっちが砂糖で、これが牛乳だ」
マスターはふた付きのアルミ容器的な砂糖入れと、小洒落た醤油差しみたいなミルクピッチャーを出してくる。
過程は省略して結論だけ言うと、最終的に黒よりは白に近い液体ができあがった。
「……コーヒー牛乳だこれ」
味見を繰り返しつつ作業をしたにも関わらず、追加されたもののせいでコーヒーは溢れそうになり、途中でひとまわり大きいカップに入れ替えてもらった。
もはやコーヒー牛乳すら通り越して、コーヒー風味のホットミルクと言うべきかも知れない。
「甘い……」
荒ぶる黒き獣も、こうなってはジャンガリアンハムスター以下の脅威だ。
敗北の味は、甘くて、少ししょっぱい。
そしてアルテミシアは、ふと思い立つ。
――苦いもの、辛いものはダメになった……
じゃあ……甘いものはどうなんだろ?
甘いものは元々好きだったし、子どもが喜ぶ食べ物と言えばやっぱりお菓子類だ。
こちらに関しても、味覚の変化はあるのだろうか。
さすがにこの世界は地球よりも砂糖が貴重だ。さっきの砂糖も一匙いくらで料金が発生している。
転生以後、ちゃんとスイーツを食したことは無かった。甘いものと言えば、領城の宴会で出た果物くらいしか食べていなかったかも知れない。
――んー、スイーツはメニューにあるかな?
カウンター奥の壁に掛かったメニューを眺めて……アルテミシアはそれが読めないことに気付く。
だが数字くらいは分かる。払えないほどのメニューは無い。
「あのー、何か甘いお菓子……オススメってありますか?」
「そうさな、これなんかどうだ」
マスターは棚から何かを取り出す。
ガラスのケースを被せたホールケーキだ。少しずつ切り分けて客に供しているようで、その切り口を見るに、何かの木の実を混ぜて焼いたスポンジにホイップクリームをたっぷり塗りつけた代物。
「それください!」
「毎度あり」
マスターはケーキを手早く切り分け、小皿に移して手渡した。
そっとフォークを突き刺すと、スポンジは柔らかく、クリームは滑らか。21世紀の日本で市販されているケーキほど洗練された外見ではないが、味は十分に期待できそう。
「こっち来てからケーキ食べるのって初めてかも。
いただきまーす」
軽く手を合わせて、そしてアルテミシアはケーキをほおばった。
アルテミシアは宇宙の真理を識った。
原始、人は、死の国からあふれ出るコーヒーの苦さの中に生きており、それを救いたもうたのが宙より飛来した三柱の御使い。すなわち、小麦粉と卵と砂糖である。
小麦粉は大地を創り、卵は海を創り、砂糖は天を創り、そして最後に協力してケーキを創った。
人々を苛んでいたコーヒーも、ケーキの甘さの前に敗れ去った。ケーキの誕生により人々は永遠の苦痛から解放され、やがて楽園へと到る契約を神と交わしたのである。
人は畏れ多いがために禁断の食物たるケーキを口にする事を躊躇したが、悪魔の化身たるヘビに唆されてついにケーキを食べてしまい、人があまりにも美味しそうにケーキを食べているのでヘビもケーキを食べ始めた。
そして人はケーキに含まれた糖分により脳が活性化して知恵を手に入れた。ケーキを食べるためにはどうすればいいか知ったのである。お小遣いを持ってケーキ屋さんに行けばいいのだ。
人はお小遣いのために働くようになり、ケーキ屋さんのために文明を築いた。こうして人は野を駆ける獣から万物の霊長へと進化したのである。なお、ヘビは太ってツチノコになった。
しかし人はまだ気付いていなかった。ケーキを手にしたその時、人は永遠の呪いさえも手にしてしまったのだと言う事に……
第二部 ミュータンス菌の逆襲 今夏ロードショー
「…………はっ」
幸福の余り、頭が超次元にぶっ飛んで悟りを得ていたような気がする。
食べている最中の記憶がほとんど無いが、未だに甘味の余韻が口の中に漂っていた。皿の上にはもはやスポンジとクリームのクズが残るのみ。さすがにそれを行儀悪く舐めるようなことはしない。
――ケーキ……恐ろしい子。
胸のときめきを抑えるかのように、アルテミシアは胸元に手を当てた。
甘いものひとつでこんなに幸せになれるなんて!
ますます酷いお子様味覚である事が分かっただけだが、それで幸せになれるなら悪くはない。……と、自分に言い聞かせた。
――もうひとつ……もうひとつだけ食べて帰ろう……
どうせ昼食までにはお腹が空くんだからと自分に言い訳をして、決然とアルテミシアは立ち上がる。
「さっきのケーキ、もうひとつ……」
言いかけてアルテミシアは、ある絶望的な事実に気が付く。
慌ててお財布を取り出して中を見たら、もはやケーキどころかコーヒーすら頼めない残額だった。
この悲しみは何に例えるべきだろうか。
救いの道は閉ざされた。金を出せないなら背教者として蹴り出される定め。おお、ケーキと和解せよ!
「ご、ごめんなさい、なんでもないです……
ごちそうさまでした」
失意と共に食器を返却しようとするアルテミシア。
だがそれを見てマスターは、棚から更なるケーキケースを取り出した。切り分ける前のホールケーキがスタンバイしている。
「もう一切れ、サービスしとくよ」
あまりのことにアルテミシアは何を言われたか一瞬分からなかった。
サービス。もう一切れ。ケーキ。タダで。ケーキ。
つまりは幸せになれるのだ。アゲイン!
「いいんですか!?」
「うん、でも、ひとつお願い。テラス席に移って食べてくれるかな。良い宣伝になる」
「……え?」
気が付けば店内は満席。テラス席まで埋まりかけていた。
客のほとんどはアルテミシアが注文したものと同じケーキを食べていた。
「……えぇ?」
「おかげさまで大繁盛だ」
通行人たちは、花に集う虫のように、アルテミシアがケーキを食べる姿に引き寄せられていた。