1-1 九死に概ね一生
最初に感じたのは冷たさ。
「う……あ……?」
体中が冷たい。服が冷たい水で濡れている。
――体が、ある……
何か大きなものが、体の正面から迫ってきている気がした。しかしようやく平衡感覚が掴めてくると、単に自分がうつぶせで倒れているだけだと気付いた。
顔を持ち上げてみる。
見えたのは、闇に沈む森だった。どこかでフクロウか何かの鳴く、不気味な声が聞こえる。月明かりによって辛うじて視界は確保されているものの、無限の闇に包まれているという感覚はぬぐいがたい。
まばらな木の陰から侵入した月光は、木肌や下生え、そしてわずかに露出した地面の上に、複雑な影を描いていた。かすかな夜風が木々の間を吹き抜け、さざめきを生み出している。
ここが天国や地獄でなければ、転生は成功しているように思える。
しかし。
――ちょっと、待てよ。なんで俺、こんな所に居るんだ……?
間違ってもここは、領主の館ではない。
どう控えめに見ても森の中だ。
おまけにもう一つ問題がある。
――立てない、し、腹減った……まさかこれ、行き倒れって状態なのか?
極度の空腹で動くことすらできず、森の中にひとり倒れている。
完全に行き倒れだった。
これがローグライクゲームだったら、空腹のせいでHPがゼロになっても街へ戻されるだけなのだが、まったくもって残念な事に、普通の人間は飢えたら死ぬ。
――おかしい。これはおかしい。俺はあの、地球での滅茶苦茶な人生を捨てて、こっちの世界でもっとマシな人生を生き直すはずだったんだ。
なんで死にかけてんだ。おい、どうなってるんだよ。このまま死んだらどうなるんだ?
天国とか地獄とか行くの? それともそこら辺で化けて出て、偶然通りかかった冒険者とエンカウントして経験値20ポイントとかになるの? その前に肉体の方は、狼とかクマに食べられてウンコになるの? 俺のウンコみたいな人生、ウンコになって終わるわけ?
空腹のせいか、どうでもいい事ばかり思いつき、どうすれば今の窮地を脱せるか、まったく考えが及ばない。
――なんで、なんでこんな事になっちまったんだ……
タクトは這いずって進んだ。自分の頭が向いている方向に、何か……この状況を改善できる何かがあると信じて。
今の体が、何のためにどこを目指して歩いていたかは全く分からないが、前を向いて倒れていると言う事は、この先に向かっていたはずなのだ。進めば何かがあるかも知れない。
と言うか、あってほしい。他に解決策が何も思い浮かばない。止まったら死ぬと思って必死で這い進んだ。
――死んで、たまるか!
あの地球での暮らしより! マシな生き方がしたいんだ!
死・ん・で・た・ま・る・かっ!
歯を食いしばってタクトは進もうとしたが、徐々に、気力で体を動かすのも限界になってきた。
頭を持ち上げて周囲を見るのもおっくうになり、そして、ついに手の力が、体と地面の摩擦力に勝てなくなった。
――……嘘だろ。
どうやって手を動かそうが、もう体は前に進まない。頭を上げていられなくなって、再び突っ伏す。
体が冷たい。
空腹だった。
自分の呼吸がうるさかった。
力が出ない。
死ぬかも知れない。
手を伸ばし、そこにあったなんだか分からない野草を掴んでみた。
これを食べればまた動けるだろうか。いや、しかし毒草だったりしたらそれこそ取り返しが付かない。
そもそも手に力が入らず、そいつを毟って口に入れる事すらできなかった。
どうすれば生き延びられるのか、エネルギー不足で回らない頭で必死に考えて、タクトは動くのをやめた。
こうなったら体力の消耗を少しでも抑えるのが上策であるはずだ。死ぬまでに誰かが発見してくれるかも知れない。一分一秒でも長く生きながらえるには、余計な体力を使ってはダメだ。
タクトが動くのをやめてすぐだったかも知れないし、結構な時間が経った後だったかも知れない。
ガサガサと、草を踏み分ける足音が聞こえてきた。遠くから聞こえるのか、近くから聞こえるのかも分からない。
狼だろうか。盗賊だろうか。魔物だろうか。それとも、助けてくれる親切な人だろうか。
――頼むから、最後の一つであってくれ……!
だけど、もうタクトには、それを確かめるだけの気力すらなかった。
* * *
「う……」
何かが弾けるような音で、タクトは再び目を覚ました。
今度は体が温かい。特に右頬が。
なんだか明るい、と思ってそちらを見ると、レンガを組んで作られた暖炉の中に炎が揺れていた。暖炉には鍋がかけられていて、何かがグツグツ煮えている。
埃っぽい長いすの上に、毛布にくるまれてタクトは寝かされていた。
暖炉の明かりを頼りに辺りを見回すと、そこはいかにも、小さな村の小さな家のリビングルームだった。
それも、リアルな中世ヨーロッパよりはファンタジー寄りの。
ネットで囓ったタクトのうろ覚えの知識だと、中世ヨーロッパの農民はほとんど暖炉なんて持っていなかったし、囲炉裏を中心とした土間だけの家に、わら布団の寝床というのが基本だったはずだ。
しかし、この部屋はそうではない。リゾート地にありそうな小洒落たログハウスという印象だ。
粗末といえ、暖炉の前にはタクトの寝ている長いすが置かれていて、奥の部屋に通じているらしい開けっ放しの扉も確認できる。ぼんやり照らされた天井には、木材が綺麗な模様を描いている。
壁には農具や帽子がかけられ、雑貨類を載せる棚が作り付けてあった。何故か長いすの上、タクトが寝ていた足下の辺りには、布のかたまりみたいな物が乗っかっている。
どうやらまだ夜であるらしく、暖炉に照らされる部屋の中は薄暗い。
――助かった……? いや、助けてもらったのか?
そうに違いない。毛布にくるんで、暖炉で体を温めてくれた。
相変わらず気が遠くなるほど空腹だったが、暖められて体に体温が戻ると、動くことくらいはできるようになった。
ひとまず毛布を剥ぎ取ってみると、タクトの体はワンピース状の粗末な寝間着を着ていた。ごわごわとした感触で、色すら染められていない。なんちゃって中世な雰囲気の漂うパジャマだった。
よく覚えていないが、さっき着ていた服とは違う気がする。どうやら、体温を奪ってしまう濡れた服を着替えさせられたらしい。
チカリ、と何かが光を照り返し、思わずタクトは目を細めた。
と、そこでタクトはようやく、長いすの上にある布のかたまりが、毛布にくるまって眠っている人間だと気付いた。
年若い少女だった。年齢は14,5だろうか。いかにも朴訥そうな雰囲気の顔にはそばかすが散っていて、背中ぐらいまでの長さの金髪を長い三つ編みにしたままで眠っていた。
彼女は、何故か手鏡を持ったままだった。ここに暖炉の火が映り込んだのだ。
――この子が助けてくれたんだろうか。
起こして話を聞くべきか、そしてお礼を言うべきか、とタクトは迷った。
その瞬間、タクトは手鏡に写り込んだ自分の姿を見てしまった。
信じられないものが鏡の中に居た気がして、タクトは眠っている少女の手から鏡を奪い取り、まじまじと覗き込んだ。
10歳くらいの少女が、鏡の中に居た。
やつれた様子ではあったが、目鼻立ちがはっきりしており、血色の悪い唇も形は整っている。
痩せた顔の中で、深く深く深い色をした深藍色の双眸が大きく存在を主張している。
肩の辺りまである、緑がかった不思議な色の髪は、ふんわりとクセがかかって首の周りを包んでいた。
「……え?」
鏡に映った少女が、驚いた顔になる。
その時タクトはやっと、自分の声をまともに聞いた。
高い。
それでいて変声期前の少年が発するボーイソプラノともまた違う。力なくかすれた声であっても、それが女性……さらに言うなら、か弱い少女のものであることは聞き間違えようもなかった。
自分の手のひらを見れば、細く白く小さく、柔らかくきめ細かい。
そこから、筋肉の気配が薄い腕へと繋がり、そして……
「え? え? え?」
もしこの姿を誰かが見ていたら下品なお笑いでしかないだろうが、思わず、反射的に、他にどうしようもなく、タクトは自分の股間を服越しに押さえつけた。
無い。
「え、えぇぇぇぇぇ――――!?」
タクトは思わず絶叫した。絹と言うよりティッシュでも引き裂いたような、かわいらしい悲鳴がタクトの喉から吹き出した。
「きゃあっ!」
そして、長いすで眠っていた少女はタクトの悲鳴に跳ね起きて、いすから転げ落ちた。
★『ポーションドランカー マテリアル集』にマテリアルを追加。
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・[1-1]転生屋 転生カタログ2 <憑依>行き倒れの少女(簡易版)