1-34 涙は女の武器らしいので相手は死ぬ
仮執務室を出たところで一気に肩の力が抜けて、タクトは溜息をついた。
レグリスに対して、怖い人という印象は無いのだが、そういう問題ではない。にじみ出る圧倒的なオーラに負けそうになるのだ。
「関門突破ね」
「はい、なんとか」
祝福するように微笑みかけてくるレベッカ。
タクトの成功を我が事のように喜んでくれる彼女を見上げて、タクトは、ふと大事なことを思い出した。
「あの、レベッカさん。今さらですけど……レベッカさんは、いいんですか?」
微笑んだまま、レベッカがちょっと首をかしげた。
「私のためにレベッカさんも命懸けで戦うことになります。なのにレベッカさんは、当たり前みたいに付いて来てくれて……」
「いいのよ、だってあなたは、私の妹かも知れないんだもの」
決まり文句が返ってくる、と思ったのに、なんだかちょっと違った。
――妹……『かも知れない』?
考えてみるまでもなくレベッカは不思議……いや、言葉を飾らずに言うなら変な人だ。
年齢の件だけでも、タクト(の体)が妹でないのは確実なのに妹だと言い張っている。
妄想が激しい人なのかも知れないと思ったけれど、何か、何か違う。『かも知れない』という言い回しは、ちゃんとタクトが妹ではない可能性も考えている。どこかで彼女なりのラインを引いてタクトを妹候補だと定義している、という気がした。
――もしかして、この人が言ってる『妹』って、単に自分より後に同じ親から生まれた女子って意味じゃなく、何か別の意味が?
残念ながら今はそれどころじゃないが、無事に戦いを生き延びたら、そのうち話し合ってみる必要があるかも知れない。
「もし、この理由が納得できないなら、妹とかそういうの関係無しで、あなたを失うのは惜しいと思ったから、じゃあダメかしら?」
「いえ、ダメとかじゃないんです。ただ……ありがとうございます」
タクトが差しだした手をレベッカが握る。
身長差のせいで、かなり傾斜のあるアーチがふたりの間に架けられた。
確かに彼女は掛け値無しの変人と思えるが、同時に、恐ろしいことにタクトの理解者でもある。
彼女が居てくれて良かったと、タクトは心から思った。
* * *
「あれっ、アリアさん?」
一階に降りたところで、まるで待ち伏せていたように、青ざめた表情のアリアンナが現れた。
「アルテミシア……どう、するの?」
「領兵団の力を借りて、あれと戦うことになりました」
アリアンナもまた、レグリスと同じように、タクトの答えを予想してはいたようだった。
ただし、その反応は正反対だった。
崖っぷちに追い詰められた火サスの犯人みたいな顔になる。
「そんな……! だって、やっと逃げてきたばっかりなのに、そんな危ない……!」
「でも、私が行かないとどうなるか分かりません」
「……ねぇ、何か私にできることは無い? ほら、さっきの弓みたいに!
私、石を投げて畑の鳥を追い払うのとか、得意なんだよ。だから……」
止めるのは無理と判断したらしく、助力を願い出るアリアンナ。
身を案じてくれるのはタクトとしても嬉しいのだが、こんな申し出は、アリアンナを使い捨てる気でなければ受けられない。
「もし、本当にそれができたとしても、戦いの訓練をしていない人は、身を守れないと……思います」
「だって、戦いの訓練をしてないのは、アルテミシアも同じなんじゃなかった? 私も、ポーションがあれば……」
まるで、自分が一緒に行かなければタクトが死んでしまうかのように、不安げに食い下がるアリアンナ。
そんなアリアンナを迷わせないよう、タクトはきっぱり首を振る。
「アリアさん。私、『私は大丈夫』なんて驕ったことを言う気はないです。私が居なきゃ始まらないから行くだけで……私でさえ、足手まといなんです。足手まといがふたりになったら、さすがに……」
「……そっか」
消沈した様子で、彼女は小さく頷く。
「じゃあ、無事で帰ってきて。それだけは約束して」
真っ直ぐに、強いまなざしでタクトを見つめてくるアリアンナ。
小麦色の瞳の中に、タクトは、決意に満ちた自分の顔を見たような気がした。
「……分かりました」
タクトは静かに、決然と答える。
言われるまでもない。死ぬのは嫌だ。どんなピンチに陥ろうと最後の最後まで足掻いて、絶対に生きて帰るつもりだった。
しかし、タクトが答えを返しても、アリアンナはタクトを見据えたまま動かなかった。
「ねぇ、アルテミシア。気がついていないかも知れないから、ちゃんと言うけれど……私、アルテミシアが居なくなったら寂しいんだからね」
タクトは少し、意表を突かれた。
死なれたら悲しいと言うなら分かるが、寂しいというのは、少し意外な表現だった。
「えっと……まだ会って四日しか経ってないと思うんですけど……」
「そう。それだけしか経ってないの。だから私、まだアルテミシアのこと、全然知らない。
記憶が無いから聞けないって事じゃなくて、あなたを見足りないから。
あなたが好きな色も知らないし、一緒に街のお祭りへ行ったら何を買うのかも知らない、どかした石の下から虫が出て来たときにどんな顔するかも知らない。だからそれを知りたいの。
……そして私にできないことをたくさんできるあなたが、次に何を始めるのか見ていたくなるの!」
一息にそこまで言い切って、アリアンナはやっと息継ぎをした。
またも過分な評価……と、タクトは一瞬思ったが、客観的に自分の行動を振り返ればこの四日間、自分でも信じられないようなことを含めて、山ほどイベントをこなしてきた。とにかく必死で、自分のことを振り返る暇も無かったタクトと違い、隣で見ていたアリアンナからは、そんな風に見えていたとしても不思議ではない。
「情熱的な愛の告白ね。お姉ちゃん妬いちゃうわ」
じっと聞いていたレベッカが、からかうような調子でそう言ったものだから、アリアンナはワンテンポ遅れて真っ赤になった。
「ち、違っ……! そうじゃなくて! だって女の子同士だし!」
「あら、そういう世界もあるのよ。知らなかった?」
「アリアさん、この変なのは無視していいです! つまり、無事に帰って来いって話ですよね」
タクトは無事に帰りたい。
そして、アリアンナはタクトに無事に帰って欲しいのだ。
それは、タクトから抜け落ちていた視点だった。
レベッカのように共に戦う者と命を分かち合うのは、なんとなく感覚的に分かるけれど、自分の帰りを待つ誰かが居るという感覚は無かった。
「私ね、心配なんだ……なんだか、アルテミシアの背中が、お父さんとだぶっちゃって。変だよね、お父さんはあんな筋肉の塊で、アルテミシアはこんなに小っちゃいのに。私なんかには止められないんだって思ったけれど、でも、私……」
アリアンナの視線が、小麦色の瞳が、タクトを見据えたまま離さない。
めいっぱいに見開かれていた彼女の目から、ぽつりと一滴、涙がこぼれた。
「あれ、変だな……お母さんの体が良くなるまでは泣かないって決めてたのに……」
照れたように笑いながら、アリアンナは涙を拭う。
後から後から湧き出してくる涙で、彼女の手の甲はしっとりと濡れた。
「あの……アリアさん、そこに座ってください」
「えっ? は、はい」
なんだかよく分からないという顔のアリアンナを、脇道の廊下に引っ張り込んで、置いてあった椅子に座らせる。
今のタクトより背が高いアリアンナだけれど、こうして座れば、立っているタクトとだいたい視線が合った。
そしてタクトはちょっと背伸びして、アリアンナの頭を、平べったい胸に無理やり抱き寄せた。豊かで柔らかな彼女の胸部が、タクトのお腹に押しつけられた。
「私は、どこにも行かないです。アリアさんの所へ帰ってきます。だから……待っててください。私は大丈夫、です」
戸惑った様子のアリアンナに、タクトは静かな声で囁きかけた。
目の前で肉親がむごたらしく死んだのだから、普通の感性をしていれば、まず耐えられはすまい。この上、身近なところで人を亡くすのは恐ろしいだろう。
ましてアリアンナは、まだ15歳の女の子。体格差のせいで忘れてしまいそうになるが、タクトが生きてきた年月の半分の歳。心細くて当然だ。
「アルテミシア……私……うっ、うあああああああ!」
ぎゅっと腕に力を込めると、まるで涙が絞り出されたみたいに、アリアンナは泣き出した。
タクトに縋り付いて、吠えるような鳴き声を上げた。
服にしみこんだ涙の温みがタクトに伝わる。
「あ、あああ……やだよ、なんで……どうしてこんな……お父さんも、アルテミシアも……!」
「うん……大丈夫、もう大丈夫だから……」
前傾姿勢だったせいで、アリアンナは椅子から滑り落ちる。
いつしか、跪いて泣き暮れるアリアンナをタクトが抱擁するような体勢になっていた。泣き声に気付いて寄ってきた野次馬を、何気なくレベッカが追い払っている。
――辛い思いしてる子どもひとり慰められなかったら……三十二年も生きた意味があるものか。
タクトは自分の未熟さを思い知ったばかりだ。そんな自分自身に反発して『大人とは、かくあれ』と思う気持ちからの行動だった。
記憶を残して転生、強くてニューゲーム、そのアドバンテージは何だ?
出直すだけなら何の意味も無い。それまで生きてきた経験をフルに使ってこそだ。
たとえ肉体年齢でアリアンナより下だったとしても、親に代わって彼女を慰めるくらい許されよう。
そして、タクトはあらためて決意を固めた。
――死んだらいけないんだ。俺は、無事に帰らなきゃならない。
まぁ泣いてくれたのは父親のついでかも知れないとは思うが、自分のために本気で泣いてくれるような人を残して死ぬわけにはいかないだろう。
* * *
「……泣いたら、楽になっちゃったけど……なんだか、アルテミシア、お父さんかお母さんみたいだった。えへへ、変だね」
雨上がりの空みたいに綺麗な笑顔。
照れたようにアリアンナは笑って、頬に残る涙の跡を拭った。
うろ覚えの雑学知識だが、たしか涙には体に溜まったストレス物質が含まれていて、泣くと気持ちが楽になるのはそのためらしい。
泣いて楽になれたのなら、胸を貸した甲斐があった。
「ねぇ、アルテミシア……怒るのって、限界を超えると、気持ち悪くなってくるんだね」
「え?」
急に変なことを言い出すアリアンナ。
その表情は、怒りよりも悲しみに近かった。
「私、あいつを見て、すごく腹が立った。あんな自分勝手な奴が、自分勝手な理由でお父さんを殺したんだって……吐きそうなくらい腹が立った」
「アリアさん……」
「あなたを信じて送り出すから……だから……私の代わりに、お父さんの仇を討って、アルテミシア! そして、無事に帰ってきて。あんな奴のせいでアルテミシアが死んだら、私、悔しくて悔しくてしょうがないから」
「分かりました。絶対に……生きて帰ります」
タクトは精一杯、力強く頷いた。
『復讐は何も生まない』なんて言い回しもあるし、実際それは場合によっては正しいのだろう。
だけど、アリアンナにあんな顔をさせないためなら、あのクソ上司を泣いたり笑ったりできない状態に変えるのはやぶさかではない(ただしそれを実行するのは一緒に攻め込んだ皆さんの予定)。
何より、やらなきゃやられる。
「私はこれから、工房で作戦の準備です。……じゃあ、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい!」