11-13 誓い
「わたし、成り行きで『死の影』を見る力を手に入れたんです」
アルテミシアはそう切り出す。
ルウィス救出の経緯を説明する中で、この力のことは説明済みだ。
「ああ、そういう話をしていたな」
「ですが……『死の影』が見えた人を助けられませんでした。
逃げている時に擦れ違った女の人……ドッペルゲンガーに殺されてしまったんです。
それだけじゃない。ルウィス様に会う前も、『死の影』に憑かれている人を見たんですが、どこかへ行ってしまいました。もう死んでるかも知れない。仮に見失っていなくても、わたしはどうすればあの人たちを守れたか、分からないんです」
これから死ぬと分かっていたのに、見捨てるしかなかった。
ほとんどチートスキルみたいな超常的手段によって死の運命を先読みできたのに、手をこまねいているしかなかったのだ。これでは何の意味も無い。
死ぬと分かっている人を放っておくなんてできるわけがない。しかし、しかし……
レグリスは拍子抜けするほど無反応にアルテミシアの話を聞いていた。そして話が終わると、まったく何でもないことのように言い放つ。
「君ですら、どうすればいいか分からないと言う。それは、『どうすればいいか分からない』ではなくて『無理』ではないのかね」
「そんな……何か、やりようがあったはずです」
「そうさな。例えば街中全ての人が君を知り、君の力を知っていれば、いついかなる時、君が『死の影』を見て警告を発しようと聞き届けてくれるだろう。それなら領兵団も協力させられる。
簡単なことだ。君が隠していた功績を公にして、『死の影』を見る力についても話を広めればいい。
この街で不慮の死を遂げる人は、いくらか減ることだろう。君はこの街を動かす軸のひとつ、あるいは要の歯車となる」
レグリスは、心の奥底まで見通すような目をしてアルテミシアを見ていた。
剣を突きつけられているような緊張感だった。
レグリスの言葉は、アルテミシア自身も一瞬考えたことだった。
もし、レグリスの言う通りにすればどうなるだろうか。
身の丈に合った静かな生活をするなんて人生設計はご破算だ。アルテミシアはこのゲインズバーグにおいて、レグリスに勝るとも劣らない尊き命として扱われるだろう。
道行けば自らの運命を知ろうと縋る人々が群れを成す。『死の影』が無いと知った人々は安堵して日常へ戻って行くだろう。そうでなかった人は領兵が守ってくれる。事故か、事件か、いずれにせよ死ぬ確率は何もしないよりよほど下がるだろう。
だが……この力は、あくまでもアルテミシアの視覚に依った力だ。
可能な限り多くの人を救おうと思ったらどうなる?
日がな一日、領城のてっぺんから街を見るだけの人生になるのだろうか。あるいは『死の影』を探して街を歩き続ける日々を送るのだろうか。のんびりくつろいでも居られない。おちおち寝ても居られない。そんな生き方を人々はアルテミシアに期待するだろうし、アルテミシア自身も自然とそうするだろう。
レグリスは『要の歯車』と言った。なるほど、その通りだ。替えが効かない存在だけれど、それでも歯車だ。そこにアルテミシアという個人が存在する余地は無い。ひとりでも多くの人を生かすための機能として存在することになる……
「それで救える人が居るのならば、わたしは……」
スカートの裾を握りしめてアルテミシアは言った。
救える人が居る。救う力がある。それでも見殺しにできるだろうか。いや、できない。
レグリスはアルテミシアが答えた後も、じっと変わらない目でアルテミシアを見続けていた。
猶予を与えられているという気がした。翻意を促されているような気がした。『やめると言うなら今のうちだぞ』と。
アルテミシアは黙ってその視線に耐えた。そんな生半可な覚悟ではないのだと言うように。
時間の流れが凍り付いているような、とてつもなく長い数秒間だった。
壁際に控えている近衛兵も、ロランやグレッグも、固唾を呑んで成り行きを見守っている。背後のレベッカすら身じろぎひとつしない。
やがてレグリスは、悲しげに溜息をついた。
「これで『はい』と言うなら、やはり君にそんな事はさせられないな。
気負いすぎだ、少女よ」
「気負い……」
「ああ。君は危うい」
こつりこつりと床を鳴らし、レグリスがアルテミシアのすぐ近くにまで来た。
長身のレグリスと、ちっぽけな少女であるアルテミシアだ。見上げるほどに大きく感じた。
「君のその正義感は、何かに裏付けられた信念と言うよりも、自然に心の中から湧き出てくる衝動。
すなわち、性格だ」
「それだとダメなんですか?」
「ダメではない。心から自然にそうした気持ちが溢れてくるというのは素晴らしいことだとも。
だが脆い。きっと多くの人の未来を背負い続けることに、君は耐えられない。……自分でもそんな気はしているのではないかね。私の提案に、ほんの少しでも尻込みしなかったかい?
その一線を『自分はこうしなければならない』と考えて踏み越えてしまうなら、私は止めるしかない」
必死に押し殺したはずの心の揺らぎを、レグリスは容易く見通していた。
アルテミシアはちょっとムキになって言い返す。
「不特定多数、多くの命を背負ったことなら……今までだってあるはずです」
「戦いを決意してから決着が付くまで何時間だったかな?
ハッキリ言おう、その程度は気分だけで突っ走れる」
バッサリと切り捨てるような言い方だった。
領兵団の生き残りを率いてゲインズバーグ城へ攻め込んだあの戦い。
そして、カイリ領での『獣』との戦い。
思えばどちらも、多くの人々の命を背負った時間は長くない。ほとんど自分自身の生存のためだったり、身内のための行動だった。
あの勢いをずっと続けていけるかと言われたら……未経験なので分からない。
「命の重さを知るが故に、君はそれを背負い込もうとする。
だが、その重さに君が耐えられるかどうかは、また別の話なのだよ」
レグリスもまた、多くの命に責任を持ち、守らねばならない立場だ。
だからこそ彼に相談したのだが……
そうだ、そんなレグリスだからこそ分かっているのかも知れない。並大抵の覚悟でできる事ではないのだと。
「領主様は……平気なんですか? だとしたらそれは、どうして……」
「血の責務。来歴。教育。私を信じ、尽くす臣下たち。私を慕い、押し立てる領民たち。
私は領主として日々激務をこなしているが、それを続けられるのはね。私をこの椅子に繋ぎ止めるものがあり、私を勇気づけ元気づけるものが、いくらでもあるからなんだ。
そして私には領主としての実績と経験があり、何よりも権力がある。
そんな私が背負っているものと同じものを、君ごときに背負わせていい道理は無かろう」
ふと、アルテミシアは、レグリスから感じる得体の知れない存在感の意味が分かったような気がした。
彼を作ってきた時間があり、歴史があり、人々が居て、それ故にレグリスはレグリスたり得る。
翻ってアルテミシアはどうだ。
もしこの街の守護者となるのであれば、人望は後から付いてくるだろうけれど……それ以外は、30余年の間地球で平凡に生きてきたという、ちょっと特殊な背景を持つ小娘でしかない。
レグリスと同列であるはずがない!
今更ながらにアルテミシアは、自分がとんでもない自惚れをしていたように思って恥ずかしくなった。
「使命感だけで動けるなら苦労は無いよ。よしんばそれで一時は動けたとしよう。だが、やがて君は倦む。そして正義の心を失うだろう。私はそれを大いなる損失であると思う」
続くレグリスの言葉は、刃物のようにアルテミシアに突き刺さった。
――繰り返す……ところだった!?
アルテミシアは息ができなかった。
正義に倦んだ、善行の奴隷。それはいつか来た道ではなかったか。
「恥じることはない。人の持つ正義の心、義侠心なんてものは有限だ。
狂気的な揺るがぬ信念など、誰でも持てるものではない」
言われてみれば当然のようにも感じる。だが、アルテミシアはそれを忘れていた。あるいは目を逸らしていたのか。超えられない限界を超えようとしてしまった。
魂のあり方……性格の根っこの部分というのは、そう簡単には変わらない。
通野タクトの心の奥底に正義の炎が眠っていたように、アルテミシアにもまた、ひとつの間違いでかつてのように堕ちゆく危うさが眠っていたのだ。
そして、少しだけほっとした。
正義・大義のために全てを捧げきれずにいる今の気持ちを、許されたような気がして。
「君ができる事にもまた、限りがある。
君は、小さい。それを忘れてはいけないよ。私とて、神と世界の前には等しく小さいのだろうがね。
届かぬものに手を伸ばす……大いに結構。だがそれは背伸びをして木の実をもごうとしているだけなのか、星を掴もうと崖から足を踏み出しているのか。自ら知らなければ、待つのは君自身の破滅だ」
レグリスの言葉は優しい。
剣ダコのある逞しい手がふわりと、アルテミシアの頭をずきん越しに撫でた。
小さい。
単純に身長や肉体年齢のことを言ったわけではない。
「……わたしはいつか、目に映る人をみんな助けられるようになりますか?」
「さてな。君はまだ子どもだ。
人は生きる限り可能性を持つ。ことに、まだ子どもである君にとって、未来の可能性は無限大だろう。
大志を抱きたまえ。だがその大きさに惑わされるなよ。今は君の歩幅で進める一歩を踏み出せばいい。さすればやがていつの日か、君の手は星にも届こう。
その心は美しい。枯らすことなく大切に育てたまえ」
レグリスはアルテミシアの未来を否定しなかった。
同時に、楽観的なことも言わなかった。
そして、ただアルテミシアの背中を押した。
それがアルテミシアは泣きたいくらいありがたく嬉しかった。生きてさえいれば人は成長できる可能性がある。確かにその通りだ。
急にアルテミシアは、自分がちっぽけに思えた。
普段あまり気にしていなかったが、この世界はアルテミシアにとって物理的に巨大だ。平均的な体格の30代男性だった頃の感覚に比べたら、かなり違う。道は広いし、天井は高いし、エルフ向けの椅子なんかよじ登らなきゃならなかったし、ドアノブが顔の高さにあったりする。
いつかはそうじゃなくなるのかも知れない。身体的にも、精神的にも。
「……世界、おっきいなぁ……」
「はははは、そうか。そうだろうな」
しみじみと嘆息するアルテミシアを見て、レグリスは笑った。
「ま、私から言えるにはこの程度だ」
「この程度だなんてとんでもないです。
今ので人生変わったかも知れません。良い方に」
「そうか?
……ルウィスを救った働きに見合うものになっただろうか」
「今のお言葉は、わたしにとって千金にも勝るものでした。
口だってタダじゃありませんよ。時間を取って、考えてもらって、教えてもらうんですから。
本物のアドバイスっていうのは、それだけの価値があると思います」
――ま、クソ上司の脊椎で生産されたお説教だったら、金払っても聞きたくないけどね。
アドバイスと言う名の暴言を散々浴びせられたかつての記憶。アルテミシアは心の中で舌を出して毒づいた。
なにかと語りたがる奴の言葉なんて、薄っぺらくて何の役にも立たないものだ。自分の言葉の重さを分かっている人ほど、ここぞという時だけ他人に声を掛ける。レグリスはきっとそういう男だ。
「ははは、まったく……
全てを識る賢者のようであり、全てを学ぶ幼子のようであり。これだから君は面白い」
カラカラと笑っていたレグリスだが、軽く手を広げる思わせぶりな所作と共に、執務用の革張りの椅子に腰を下ろした。
そして机の上で手を組み、皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「さて、君への話は終わったが、実は私としてもその特異な力に興味津々だ。
その力、ろくでもない使い道がいくつもありそうだね」
「うぐっ! で、ですよねえ……
やばい、これも割と隠した方がいいやつ……!?」
危険を回避するとか、人を助けるとか、アルテミシアがまず考えたのはそれくらいだ。
だが、人の生き死にが……近い未来の運命が見えるというこの力がどれだけとんでもないものなのかと言えば。
例えば、これで敵の『死の影』を観察すれば、戦いの趨勢を占うなんてこともできる。
「『未来視』と呼ばれるほどの占い師は引く手数多だ。千金万金を積んででも、非道な手段に手を染めてでも手に入れたがる権力者は少なくない。
正直言って私も、君をうまく言いくるめて運用するという欲望には抗いがたい」
「『正直に言うだけ自分はマシだ』とか思ってる?」
レベッカが再びアルテミシアを背後から抱きしめた。
「彼女の意志をねじ曲げてまで私のために働かせようとは思わないよ」
「ふん、まあいいわ」
レグリスは相変わらず皮肉のような、悪戯っぽくもあるような笑い方でアルテミシアを見ていた。
「ヘタをすれば君を巡って戦が起きるかも分からない。
それは、公にしてはならない力だと……私は思う」
なるほど確かに、と思うと同時に、アルテミシアはレグリスの言動の矛盾に気付く。
「じゃあやっぱり最初から無理じゃないですか、街中にわたしのことを知らせるなんて!」
「そうだとも。だが敢えて先に言わなかった。
そういう問題ではないのだよ。世を混乱させるからだとかいう問題ではなく、まず君は自分を大切にしてほしいね」
ぐっと言葉が喉に詰まった。
単に『騒動を避けるため』という理由で力を秘しただけなら、機会さえあればアルテミシアは暴走していただろう。
レグリスはそれを分からせようと、わざとあんな言い方をしたのだ。
「本当に、ありがとうございます……」
「もちろん、『死の影』を持つ者全て無視しろなんて荒っぽい話じゃない。
助けられるなら助ける、という事でいいのではないかね。多少ならこちらからも協力できるし、むしろ協力させてほしい」
「願ってもないことです」
――そしていつかは。
アルテミシアは心に刻む。
――いつかは、この力で、もっと多くの人を助けられるようになりたい。
わたしは成長してみせる。
「君との縁は、私にとっても得がたきものだ。
私に助力を求めたい時は、いつでも言ってほしい。可能な限り力になろう」
アルテミシアはレグリスに向かって、深々と頭を下げた。