10-9 願ったこと全てが叶う世界ではない
自然魔法で蔓草を固めた壁は、人間が造る石の建物にも負けないほどの強度がある。
それが、あっさりと。乾いた木の葉を破るように破壊された。
『あ……あああ……』
リムルセイラは、それを見て、床に座ったままで後ずさった。
喉の奥が震えて、上手く呼吸ができない。
汚らしく冒涜的な、カビのような黒色の巨体。
イモのようにゴツゴツした頭にいくつものスリットが開き、そこから獣めいた呼気が漏れる。
叩き潰されたように醜く不格好な胴体から伸びる細い腕には、槍のように鋭い十本ずつの指。
……『歪みの獣』。遙か昔から部族が戦い続けてきた怪物。
リムルセイラは一度だけ、『獣』を見た事がある。
巫女の訓練生として『獣』を見ておくべきだと、他の者達と一緒に戦いの場に連れ出されたのだ。
とは言え、その時に見たのは、既に戦士達に肉体を破壊され、巫女によって消滅させられる直前の、闇色のスライムのような残骸だけだった。
今は違う。自分の前にいるのは万全の状態の『獣』。
こいつが腕を振るい、自分を串刺しにすれば、その時自分はあっけなく死ぬのだとリムルセイラは理解した。
逃げなければ、と思った。
次に、逃げられるのか疑問に思った。
『獣』が腕を引いた。致命的な一撃のために。
すべてがゆっくりと動いているように見えた。
『≪断流風瀑≫!』
逆巻く風が、リムルセイラのすぐ目の前で爆ぜた。
『獣』の腕が突き出された刹那、暴風の障壁が割って入り、リムルセイラを守ったのだ。『獣』の腕は弾き返され、その指先はへし折れている。
『大丈夫!?』
そう言ったのはもちろん、ニエラシャーンだ。
同じ部屋に捕らえられていた彼女は、いつの間にか戒めを破り、指で印を組んで魔法を使ったのだ。
リムルセイラはハッとした。この部屋にはやはり、魔法を封じるための紋様が壁にも天井にも描かれていた。しかしその陣は、『獣』が物理的に破壊してしまったのだ。
すぐさまリムルセイラも呪文を唱え、自分の手を縛っていた蔓草をカマイタチで掻き切った。
『だ、大丈夫……だけど……』
『早く逃げなさい!』
『え……』
ニエラシャーンは立ち上がり、リムルセイラを庇うように『獣』の前に出た。
建物の外壁にへばりついて壁の穴から覗き込んでくる『獣』は、今の攻撃で一旦退いたが、ひるんだ様子は見せていない。折れた指は既に再生を始めている。
『え、逃げ、でも、待って、その……戦うの?』
混乱して、上手く言葉にできない。しかし何が言いたいかは伝わったようだ。
『私は巫女だもの』
『今は……違うじゃない』
『そうね。でも、そういう問題じゃないの』
『獣』と対峙するニエラシャーンの背中には鬼気迫るものがあった。
『私が戦えば、あなたは生き延びられるかも知れない。それだけで十分よ』
『私のため……?』
『捕まってる間、ずっとあなたのことを考えていたの。
あなたが成長して……今よりも綺麗になって……巫女になるのか、そうでないのかも分からないけど、何百年も生きて……
泣くこともあって、笑うこともあって、恋だってするかも知れない。
そんな、あなたの未来を守るためなら、私は何でもできるって思ったの。
理由は……死んだ妹に似ていたからなんて、ちょっと筋違いなものだけどね』
野原に吹く春風のように優しい言葉だった。
わけもわからぬまま、リムルセイラの目から涙がこぼれた。
こんな風に、自分以上に自分のことを思ってくれる人が居るなんて、リムルセイラは考えた事も無かったのだ。
『でも、それじゃあ……』
心臓が冷たく脈打っていた。
ニエラシャーンが言っている事は明白だ。
リムルセイラを逃がすため、自分はここで『獣』を食い止めるのだと言っているのだ。
いくら巫女と言えど、『獣』にひとりで勝てるわけが無い。
訓練された戦士達が大勢で戦ってようやく打ち倒し、最後にとどめを刺すのが巫女だ。里の防衛体制も、あくまでも集団戦を前提としている。
それなのに今、ニエラシャーンは単身で『獣』に挑もうとしている。死を覚悟していなければ、こんな絶望的な戦いはできないだろう。
『さ、行きなさい、リムルセイラ。どんな時でも、自分を大切にね』
『そんな……!』
まるで今生の別れのような言い方だとリムルセイラは思った。
『もし私に何かあっても…………元気でね』
『あ、あああ! あああああああーっ!』
ありがとうと言いたかったのか、どうか無事でと言いたかったのか。
もう自分でも分からないまま、リムルセイラは叫びながら走り出した。
何かが爆発するような音と、破壊の音が、背後から追いかけて来た。
* * *
『はぁっ……はぁっ……はぁっ……』
どこをどう逃げたかも分からないうち、リムルセイラは砦を抜け出し、森の中を走っていた。
『獣』が追いかけてくる様子は無い。ニエラシャーンが戦っているからかも知れないし、リムルセイラ以外の獲物を狙いに行ったからかも知れない。
いずれにせよ、それを確かめる術は無かった。
枝葉の天井をすり抜けて尚、叩き付けるような勢いのあるスコールが、リムルセイラの全身を打った。水気をはらんだ巫女装束が、重く体にまとわりつく。
進む先は雨に煙り、どちらへ向かっているのかもよく分からない。それでも走り続けていないと気が狂いそうだった。『獣』から逃げているのか、ニエラシャーンを失う恐怖から逃げているのか、もうよく分からなかった。
エルフの三徳とされるもののひとつに『忠孝』がある。
これは悪く言えば、親や年長者を何が何でも敬うよう押しつけるものとして機能している。
意味も無く子どもを殴るような親や、特に何をしてくれるわけでもない長老すらも絶対の存在として敬わなければならない。
だが違う。感謝を説くのは方便であり、本来の形では無いとリムルセイラは思った。
……これは戒めだ。生きているという事が、ただそれだけで奇跡なのだと知るための。
『獣』と相対して、死を間近に感じた瞬間。
人というのは信じられないくらい簡単に死ぬのだと悟った。
自分がこれまで生きていたことすら、とんでもない偶然の果ての奇跡なのだと思った。
『湖畔にて瞑想する蔓草』の里に生まれた自分は、親が居ないのと変わらないような身の上だったにもかかわらず、貧しい人間の子どものように物乞いや盗みをせずとも部族に世話をされて生きてこられた。
戦士や巫女達が命懸けで戦っていたから、たびたび『獣』が現れる森の中で自分は生きてこられた。
大きな事故や病気に遭わず、何かあっても適切な治療を受けられたから生きてこられた。
……今こうして、ニエラシャーンが自分を逃がしてくれたから生きられた。
『忠孝』に限らない。
エルフの三徳……己が大いなる自然の流れの中の一滴でしかないと知る『謙譲』、森を生かし森に生かされる『調和』、祖霊を崇め父祖を敬う『忠孝』。
自分が偶然生かされている、という幸福な巡り合わせを知り、それをもたらした人々と運命の存在を知ること……それが三徳の真髄だ。
正解なのかも分からないし、他のエルフ達の考えに合うかどうかも分からない。だがリムルセイラはそう思った。
『当たり前に自分が生きている明日』が来る保証は無い。
奇跡なんてものは、簡単に起きないから奇跡と言うのだ。
時には代償が要求されたとしてもおかしくない……
――やだよ……やだよ、そんなの。
少女は世界の残酷さを知った。
頬を流れる雨滴が熱い。
『あうっ!』
浮遊感。
リムルセイラは木の根に足を引っかけて、前方へ飛び込むように転倒した。
雨でグズグズになった地面の上にリムルセイラは転がった。
無力感にさいなまれ、立ち上がれなかった。
――ああ、ご先祖様。輪廻の女神様。お願いします、助けてください。
リムルセイラはこれまでの人生で類を見ないほど真剣に、心から祈った。
――良い子にしてます。修行もサボりません。他人の悪口は言いません。清く正しく生きていきます!
だから……お願い、私達を助けて!
泥を握りしめた手に、後から後から雨が叩き付けた。
神や祖霊と語らうのもまた巫女の役目。しかし神も祖霊も、リムルセイラの祈りに応えて囁きはしなかった。
だが、不意に何かが風を遮った。
『お前は、確か……』
エルフとしてあるまじき、金属製の大鎧を身につけた偉丈夫が、リムルセイラの前に立っていた。
少女の世界は、ほんの少しだけ甘い顔を見せた。
* * *
『そこか! ≪刺突風≫!』
砦へ飛び込むなり見えた黒い背中に、カリンシーレは攻撃魔法を浴びせた。
見えざる風の矢が放たれ、つるべ打ちに『獣』の体へと吸い込まれていく。
胴体が抉れ、闇色の粒子が散った。
――……浅い!!
カリンシーレはすぐに失敗を悟る。
生き物であれば体を大きく損ない出血したであろうダメージだが、血管も内臓も骨も無いスライムめいた体質の『獣』に、これっきりの攻撃魔法では有効打と言いがたい。
すぐさま振り返った『獣』は、槍のように指の尖った手を振りかぶる。
『くっ!!』
天井を切り刻み、壁に爪痕を残し、恐るべきビンタが襲いかかる。
もし訓練を受けた戦士であれば、この攻撃を避け切れただろう。
だがカリンシーレには無理だった。
とっさの判断で、カリンシーレは砦の壁を構成していた蔓を魔法で引き剥がし、さらに魔力で固めて『獣』の手を受け止めようとした。
その蔓ごと、『獣』の手は迫ってきた。
『っ……あ!!』
全身が強く揺さぶられ、一瞬、意識が飛んだ。
景色が高速で飛び去っていき、全身が濡れた。
死んでいない。蔓の盾が辛うじて爪をそらし、殴り飛ばされただけで済んだのだ。
カリンシーレは壁をぶち抜いて砦の外に吹き飛んでいた。
一瞬の後、地面に叩き付けられる。
『つ、うっ、がはっ! ごほっ!』
泥水だらけの地面をスライディングするように、カリンシーレは転がって行った。そして、木の根元にぶつかって止まった。
――回復……! 回復を!
治癒能力を活性化させ、体に負った傷を治す。
だが、このまま立ち上がってもう一度『獣』に挑むことはできなかった。
あまりにも圧倒的な強さ。
たまに森に出る普通の魔物とは全く比べものにならない。
当然だ。『歪みの獣』と戦う中で、過去にどれだけの戦士が殺されてきたか。
巫女ですらないカリンシーレがひとりで戦ってかなう相手ではない……
――何もできないの、私は……!?
やがて巫女となるはずの私が……!
『ご無事ですか!?』
『お怪我は!?』
声を掛けられて周りを見れば、辛うじて踏みとどまった戦士達が砦に向けて弓を構えている。『獣』が出て来たら攻撃する気でいるのだ。
だが、砦に飛び込んでニエラシャーンとその娘を救おうとする者は居ない。それが自殺行為だと分かっているからだ。
……次代の巫女としての誇りに突き動かされ、ただひとり『獣』に向かって行ったカリンシーレもようやく理解した。
――無力……!
絶望が、じわりとカリンシーレの心を染め始めた。
その時だった。
『そこの4人、グループを組め! 20歩下がって樹上より矢を射掛けろ! 『獣』が反対側から出て来そうなら回り込めよ。砦に閉じ込める気でやれ!』
雷に撃たれたようにカリンシーレは震えた。
朗々と響く声が、場の空気を塗り替えた。
老若男女問わず痩身が多いエルフにおいて規格外の堂々たる体躯。
冒険者時代から使っていたという大ぶりな金属鎧、重厚な大剣。
ヘルトエイザがそこに立っていた。
『残りは俺に付いて来い。怖がるなよ、あの手のデカブツは狭い場所なら力を発揮しきれない。ショートボウはいつでも撃てるようにしておけ』
まさかヘルトエイザも、この戦士達が何を企んでここに集まったのか知らないわけではあるまい。
だが、それでもヘルトエイザは問答無用で命令し、勢いに押されたように、にわかに戦士達は動き始めた。
軽率にヘルトエイザの命を狙おうとした者は大剣の峰で殴り飛ばされた。骨が2,3本折れているかも知れないが死んではいない。
『カリンシーレ!』
『はいっ!』
反射的に返事をしていた。
無視するには、迫力がありすぎた。
返事をしてしまってから、ヘルトエイザが自分の名を知っているという事に気が付いた。巫女ならともかく『星』の顔と名前まで把握している者はそう多くない。
『その有様は? 『獣』にやられたか?』
『は……ニ、ニエラシャーン様をお救いせんと、砦へ……しかし、攻撃を受け……』
『それはお前の仕事ではないだろう!!』
ヘルトエイザは大げさなほどに声を張り上げた。
そして、戦士達を睨め付ける。
『おい、よく聞け腰抜けども! 最後の詰めであるべき巫女が体を張っているのに、お前達は何をしていた!?
救わなければならない者がそこに居る! ならば『獣』と戦え!
その矢が我らの爪であり、その剣が我らの牙であるぞ!!』
『『お……オオ―――ッ!!』』
戦士達が鬨の声を上げた。
『……利用したみたいで悪いな。だが本音だ』
ヘルトエイザはちょっと済まなそうに小さく囁く。
魔法のような手際だった。確かに数は少し減ったが、先程までどうやってヘルトエイザを殺すか考えていた者達が、彼の指揮下で『獣』と戦おうとしているのだ。間近で見ていてもカリンシーレは信じられなかった。
人心掌握の力もさることながら、ヘルトエイザは『獣』との戦いを恐れていない。勝つための算段があり、それを実行するだけの勇気がある。
その心持ちが言外に伝わり、戦士達を奮い立たせているのだ。
『カリンシーレ、来れるか!』
『は、はいっ!』
カリンシーレは立ち上がった。
ヘルトエイザのことを、優柔不断で、真昼のホタルのようにハッキリしない男だと思っていた。だが、この毅然とした姿は、まるで……
カリンシーレは震える手を握りしめていた。
ヘルトエイザの主張には全く同意できない。だが、だからと言って、この男が愚かであるとは限らないのだった。
じわじわと伸び続けたブックマークがついに1000件に到達しました!
皆さんありがとうございます!
これからも頑張っていきます!