10-7 未知との遭遇
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生きた蔓草をより合わせて締め固めた床の上に、リムルセイラは投げ出された。
『あうっ! ……いったぁ……』
後ろ手に縛られているせいでバランスが取れず、強かに体を打ち付けてしまう。
地を這うイモムシのように無様な姿で顔を上げれば、そこにはベッドに身を起こした顔面蒼白の母の姿。ここは彼女の病室だ。
カリンシーレと数人の兵士が、離ればなれだった親子を取り囲んでいる。
捕獲されていたリムルセイラは、何事かタイミングを見てここへ持ち出された。
『抵抗するであれば、ご息女の命は保証できぬものとご認識くださいますよう』
苦しげなカリンシーレの言葉で、リムルセイラは状況を察した。
なんだか知らないがカリンシーレ達は、ニエラシャーンに言う事を聞かせるため自分を人質に使う気なのだ。
兵士の持つ獣骨の剣がリムルセイラの首筋にぴたりと当てられた。
手足の先から順に血の気が引いていく。
恐ろしくて震えると言うよりも、全身がガチガチになると表現する方が近かった。
もしニエラシャーンがカリンシーレの要求を突っぱねたら、このまま首を刎ねられてしまうのだろうか。
そう考えたところでリムルセイラは、自分に人質としての価値があるのか疑問に思った。
なにしろ自分はニエラシャーンにとって、気が付けば出来ていた子どもでしかない。生んだ記憶すら無いのだから、と。
とにかくリムルセイラは祈る以外に何もできなかった。
命だけは助けて! と。
何に祈っているのかももう分からないが、とにかく誰か助けて! と。
ニエラシャーンが返事をするまでに、それほど間は無かった。
『……分かりました、あなた方に従います』
その瞬間、張り詰めていた空気が緩んだような気がした。
首筋に当てられていた剣が引っ込み、リムルセイラはやっと息を吸うことができた。
助かった! とほっとする反面、差し迫った危機が無くなると、今度はニエラシャーンの考えが気になった。
初めて会ったばかりの子どもだろうに、それでも自分のことが大切なのだろうかと。
『では、ご足労願います』
カリンシーレが言うと、兵士達はニエラシャーンをリムルセイラと同じように拘束した。
転がっていたリムルセイラも再び引きずり起こされ、歩かされる。
先に病室を出て行くその一瞬、振り返りざま、リムルセイラは母と目が合った。
* * *
狼ゾリで荷物のように運ばれた後、もはや森の中のどこかも分からない即席の蔓草小屋にふたりは閉じ込められた。
かまくら状の部屋の中にはマナの流れを遮断する紋様が描かれ、たとえ杖を持っていても内部で魔法を行使することは難しい。そこにはリムルセイラら親子の他にも、巫女とその老母が捕らえられている。
入り口を見張る数人の兵士はギラギラとした恐ろしい目つきで、辺りを見回しては小屋の中を見て、という動きを繰り返していた。
カリンシーレ達がニエラシャーンに命じたのは、ただ『付いて来い』という事であり、『何もするな』という事だった。
リムルセイラには状況がさっぱり分からない。しかし何か大変なことが起きているのだけは分かる。
カリンシーレの演説の通りだとしたら、彼女達はヘルトエイザを殺そうとしているのだ。
ひとまず命の危機は脱した(はずだ)が、いつ兵士の気が変わって殺されるやら分かったものではない。
冬ごもりをするリスのようにリムルセイラはじっとしていた。
聞こえるのは呼吸の音。兵士達が身動きする度に鳴る装備の擦れ合う音。風による木々のざわめき。それから、雨音。
……雨音だ。
ぽつりぽつりと雨だれの音が鳴って、やがてそれは豪雨となった。
通り雨だ。夏場のカイリ領では珍しくない。
ハルシェーナの森は鬱蒼と茂った森だが、その緑の屋根すら貫いて雨粒が叩き付けてくる。辺り一面騒がしく、やがて、それ以外の音は聞こえなくなった。
リムルセイラは、雨音に紛れるようにしてちょっと姿勢を変えた。ずっと同じ座り方をしていたせいで腰が痛くなりかけていた。見張りの兵士に音を聞きとがめられるのが怖くて、ずっと我慢していたのだ。
少しバランスを崩したリムルセイラは、何か柔らかなものに当たった。隣に座っているニエラシャーンと、肩が触れあっていた。暖かかった。
ふたりは同時に振り向いて、顔を見合わせた。
リムルセイラはその時初めて、ニエラシャーンの顔をちゃんと見た。
『巫女』と言うと雲の上の存在にも思えるが、どこにでも居る普通の女の人という印象だ。
自分に似ているかどうかは……正直分からない。ただ、湖面に広がった波紋のように波打つ緑の髪は、似ている気がした。
見張りの兵士は部屋の外で周囲を警戒している。雨宿りをする気は無いらしい。それよりも、雨に乗じて敵か何かが来ることを警戒している。
話し声がしたところで、雨音に遮られて聞こえないだろう……
そう考えた瞬間、リムルセイラの口はもう動いていた。
『どうして……私を助けたの』
どんな聞き方をするのが適当か分からなくて、リムルセイラはそう言った。
ニエラシャーンはちらりと兵士の方を見て、彼らが会話に気付いてないのを確かめてから、寂しげに微笑んだ。
『こんな時、本当は、親子だからって言う方が正しいのかも知れない。
でもね、そうじゃないの。正直に言うわ。我が子を守ろうなんて気持ちでこうしているわけじゃないの』
『じゃあ、どうして……』
『たとえあなたが見知らぬ誰かの子どもだったとしても、人質に取られたら私は無視できなかった』
雨音に紛れたひそひそ話。
当然のようにニエラシャーンは言ったけれど、果たして自分ならそうできるだろうかとリムルセイラは自問した。
誰かが人質に取られ命の危機にさらされていたら、それは酷いと思うし助けたいとも思う。でもそのために、こんな得体の知れない連中の手の中へみすみす飛び込んでいけるだろうか。
『あとね、あなたは……妹に似ていたの。大人になる前に、魔物に襲われて死んでしまった妹に。
もう200年くらい前の事なのに、顔すら忘れかけていたのに、あなたを見て思い出した。
だから守らなくちゃって、思って……
ごめんなさい、こんなこと言われても困ると思うけれど、こんな時だから嘘はつきたくなくて』
ニエラシャーンは申し訳なさそうだったけれど、ああそうか、とリムルセイラはむしろ納得した。
それはそうだ。狂気の世界から戻って来たばかりのニエラシャーンが、我が子に対して実感を持てないのは当然だ。
『うん……正直に言ってくれて、ありがとう』
『……こんな母で幻滅したかしら?』
『全然! おかげで私は助かったと思うし……じゃなくて、その……』
『母親が嫌な奴じゃなくてよかった』なんてエゴ丸出しの正直な感想は、さすがに呑み込んだ。
考えてみればリムルセイラの方も、ただ母親の存在を認識していただけで、ニエラシャーンがどのような人物か全く知らなかったのだ。それくらい分かっていたはずなのに、今リムルセイラは初めて実感した。自分にとってもニエラシャーンは『はじめまして』なのだと。
『助けてくれて、ありがとう』
本当なら手を握りたかったけれど、手は後ろに拘束されていたから、代わりに肩をぎゅっと押しつけた。
何故か心臓がドキドキしていた。
『あのね……』
その先を言おうとした時、ニエラシャーンが鋭く肩をぶつけ返してきた。
視線で彼女は外を見るよう促す。
見張りとは別の兵士がやって来たところだった。二言三言、雨音に負けないように大声で見張りと会話した後で、部屋に入ってくる。
『移動だ、立て!』
尻に火が付いたように焦った様子だった。
* * *
『……で、あんたはなんでこの一大事にこんなとこに来てんだい?』
『言わんでくださいよ。俺は長老会議に加わる権限も無いし、まして人を集める権限も無いんで。
それに、今は誰が敵か分かりません。ここに居るのが一番安全なんです』
ヘルトエイザはフィルロームに小突かれて、大げさに溜息をついた。
客間の入り口には数人の兵士が立ち、豪雨の中で毅然と立ち続けて警戒している。彼らは部隊長であるヘルトエイザの部下で、族長暗殺未遂の際にも帯同した腹心だ。
『まったく、親父殿が居ない時に限って……じゃねぇや、絶対にこのタイミングを狙ったな』
ヘルトエイザは、無精ヒゲが浮いた顎を撫でて顔をしかめる。
ヘルトエイザを誅するとぶち上げた連中が、里のあちこちで物騒な演説をぶったのはつい先程。熱に浮かされたような顔で付いていった者も居るらしい。
彼らが何をしたかと言えば、まず、巫女を狙った。
賛同と協力を要求し、従わなければ人質にした家族を盾にして捕らえたのだ。
そして長老会議に届けられたメッセージ。
それは、『捕らえられた巫女の命と引き替えにヘルトエイザを差し出せ』というものだった。
『分からんのは、よりによって巫女と引き替えにってのだよ。
巫女を害しかけた、とありゃ印象は最悪だろ。それじゃ目的を達成……まあつまり俺を殺したとしてもだ! その後で糾弾されるのは確実だ』
『協力しない巫女は敵と見なすんだろ。ついでに人質として使っちまおうって話だよ。
どうせ後で言い出すはずだよ。こいつらは『改革派』の潜在的シンパだから敬うに値しないってね』
『……そこまでバカじゃねぇ、と思いたいが……』
ヘルトエイザは唸ってしまった。
もしかしたら裏にものすごい陰謀があるのかも知れないと思いつつ、単に何も考えていないだけという恐ろしい可能性を否定できない様子。
『表で動いてる連中はそんなもんだろうさ。
そいつらが責められても、裏で糸引いてる裂け蔓野郎は泥を被らない。どんだけ馬鹿なことをしようが、実際に行動を起こした連中が処罰されて終わりだ。あんたさえ殺してくれりゃ、後はどうでもいいんだろうよ』
『ああ、そうか、くそっ……』
傍で聞いていたアルテミシアも同じ意見だった。
ヘルトエイザはやるせなさをぶつけるように虚空を殴りつける。
『……とにかく、巫女を匿ってくれたのは感謝します』
『こんな時だってのに自分の命より巫女の心配かい?
礼ならアルテミシアにするんだね。あたしとマナんとこに来た連中を騙し討ちにしてふん縛ったのも、機転を利かせて手近な巫女を匿ったのもあの子だ』
客間の壁際にはふたりの巫女が座っており、長椅子にはエルマシャリスが寝かされ、共に緊張した様子でヘルトエイザの話を聞いている。
さらに奥の部屋には、あれやこれやのポーションで無力化された数人の兵士が縛られて転がされていた。全てアルテミシアの仕業だった。
『だ、騙し討ちは酷くないですか? わたしはこう、人畜無害を装って可能な限りのカワイイムーブで油断を誘っただけであって』
『世間ではそういうのを騙し討ちって言うんだ』
『……何から何まで済まない』
ヘルトエイザはアルテミシアに頭を下げる。
『お礼には及びません。でも私はこれ以上危ないことしませんからね!』
『分かってる。そこまで君に甘える気は無い。と言いたいところだが……危なくない事ならして貰えるか?』
『安全性と報酬次第です。何か考えがあるんですか?』
『クソみてーな手ならひとつ思いついた。それも状況次第だが……』
ヘルトエイザがそう言った所で、入り口の番をしていた兵士が道を空けた。
先んじて、甲冑姿の青白い人影が部屋の壁を抜けてひょっこりと姿を現し、続いて濡れ鼠状態の女達が入ってくる。
様子を探りに行っていたレベッカ、アリアンナ、サフィルアーナ、カルロスが戻って来たのだ。
『状況、動いたわよ』
濡れた髪を絞りながら、前置きも何も無くレベッカがそう言う。ヘルトエイザの目が光った気がした。