10-5 そこに私は行けません
謎の金切り声を聞いて何事かと出て行ったリムルセイラ達は、広場を出てすぐの場所でふたつの人影を発見した。
こちらに背中を向けているのはザンガディファ。そして、必死の様子で彼にくってかかるのは、『星』のひとり、カリンシーレだ。
一分の隙も無く巫女装束を着こなしたカリンシーレは、気高く美しい狼のような顔を焦燥にゆがめ、何事か必死に訴えているところだった。
『ご再考を、族長様! 実の親に弓を引くような不孝者に里を委ねるというのですか!』
対するザンガディファは石のように動じない。
『『秘宝』を持つ者が決めることだ。私とてその決定に異議は差し挟めぬ。ましてその選定はまだ先のことではないか』
『それは……確かにそうですが……』
このザンガディファの言い方が欺瞞であることはリムルセイラにも分かった。
誰に『森の秘宝』を与えるかの裁量は族長にあり、そうして『秘宝』を賜った者が族長の意向に影響を受けることは想像に難くない。たとえ造反者が出るにしても、それが過半に達するとまでは思えない。
後はザンガディファの意向次第という所だが……
――本当に族長様は、ヘルトエイザ様に族長の座を譲るの……?
それは夏場の羽虫のように、ふわふわと里を漂い始めた噂だった。
巣作りする鳥が枝を集めるように噂を拾い集めてくるマーレシャルンのおかげで、別に知ろうともしていないのに最新の噂はリムルセイラの耳に飛び込んでくる。
それによればザンガディファは、一度は勘当したうえに政治的に対立していたヘルトエイザを後継者と考えているらしい……との事だ。
リムルセイラにしてみれば、どこか遠い世界の話だ。
だが、そんな風に思う者ばかりではない。
立ち話をしている場所から察するに、ザンガディファは広場を出てすぐにカリンシーレに捕まったようだ。そして、アルテミシアがあの冒険のことをリムルセイラに語って聞かせるのと同じくらいの時間、ふたりは話し合っていた事になる。
近寄ってくるふたりにカリンシーレが気づき、彼女の反応を見てザンガディファも振り返った。
『リムルセイラ……と、その子は』
『客人だ』
ザンガディファの一言ではっとした表情になったカリンシーレは、すぐに居住まいを正して印を切り、拝礼する。
『お見苦しいところをお見せしました、お客人』
『い、いえ、お構いなく』
『……エルフ語?』
小さく呟いてカリンシーレは軽く首をかしげる。
カリンシーレは人間語が分からないからエルフ語で言っただけで、アルテミシアにエルフ語が分かるとは思っていなかったのだ。
言葉が通じるとなれば、型どおりの挨拶だけで済ませるだけでは足りない。彼女はそう考えたようだ。
『私はカリンシーレ。
あなたが画期的なポーションをもたらしたこと、里の者は皆喜びに打ち震えております。やがて巫女となる身として、この私も有り難く思います。
地駆けるあなたの前途を太陽が照らしますよう』
『どういたしまして。皆さんを助けることができるなら、わたしもポーションを作った甲斐がありました』
カリンシーレは客人に対する態度も堂々として、しかし主張しすぎることはない。
巫女予備軍としての地位は実力だけでもぎ取れるものではないのだ。作法の訓練も積んで積んで、さらに積んでいることは想像に難くない。
苦手な相手ではあるが、それでもリムルセイラはちょっと感心していた。
アルテミシアと礼を交わすと、カリンシーレはきびすを返す。
『族長様、どうか今一度お考えください。そしてこの里のためを思ってのご決断を』
捨て台詞のようにそう言って、彼女は去って行った。
『……リムルセイラさん。今の人、何か魔法を使ってました?』
アルテミシアが囁きかけるように聞く。
いきなり思いも寄らないことを聞かれたリムルセイラは、疑問符を頭に浮かべながらも、自分が何か感じなかったか必死で思い返そうとした。
『そんな事は無かった……と思います、けど……』
『そっか……』
はっきり言って自信は無かった。リムルセイラは修行中の身なのだから。
もしカリンシーレが密かに何かの魔法を使っていたとしても、気づけるかどうか。もっとも、本当にカリンシーレが何か妙なことをしていたなら、まずザンガディファが気づいていただろうとも思うが……
見間違いかな、とアルテミシアが呟いたような気がした。
*
『族長さん、今のは……』
『なんでもない、気にするな』
アルテミシアが曖昧に問うと、ザンガディファは苦い表情で溜息をつきながら首を振った。
「もしかしてエウグバルドさんの研究の話もしましたか?」
ふと、人間語に切り替えてアルテミシアがそう言うと、ザンガディファは声を詰まらせた。
「……聞こえていたのか?」
「いえ、でも予想はできました」
「まあな、そうだろう……実際彼女の話はそっちが主題だった。いろいろと文句を言ってきたよ。
私も目下のところ、あれが一番頭の痛い問題なのだ」
ザンガディファは努めて感情を抑えているように見える。
ただ事ならざる重い雰囲気なのに会話の内容が分からないらしいリムルセイラは、うろたえていた。
エウグバルドは『歪みの獣』に関する独自の研究を残していた。
だがその内容は、エルフ達の神話と整合しない。
『獣』に関してはまだいい。あれが何なのかは憶測が代々伝えられているだけだったのだから、『死の具現化』とかいうわけのわからない正体が判明してもあまり変わらないだろう。
まずいのは『森の秘宝』に関しての記述だ。あれは祖霊の祈りの結晶であり、森を守護する者に褒美であり加護としてもたらされるものと言われていた。『秘宝』が現れることは祖霊の加護を何より身近に感じる出来事であり、戦いの責務と引き替えに『秘宝』を独占することは『湖畔にて瞑想する蔓草』の部族にとって大いなる名誉だった。
それがまさか『獣』と双子の兄弟(どこかの脳天気な幽霊曰く『獣』のウンコ)であることは彼らの過去の営みすら否定しかねない破壊的な仮説だった。
「確かに受け容れがたいだろう。どう伝えるか迷っていたのだが、その前にどこからか話が漏れた」
ザンガディファは、わざと誰かが面倒なところにリークしたのだろうと言わんばかりの忌々しげな口調だった。
「『獣』を呼び起こし破壊を振りまいた大罪人の研究。しかも奴はかつて長老会議と対立していた。余計に反発もあるだろう。
……だからと言って、目の前の事実を認めないのは論外だ。先の戦いでは我らの神話よりも、あの文書の方が正しかった。全て正しいとは限らずとも、認識を改めねばならぬ部分はあるだろう」
ザンガディファは件の研究をある程度信用しているようだ。心情的にはザンガディファ自身も受け容れられない側だろうに、彼は自分自身に対しても冷徹なのだ。
しかし、もしザンガディファがあの研究に『理あり』と認めたらどうなるだろう? 『森の秘宝』の扱いはどう変わる? 当然ながら、それを危惧する向きもある。
ヘルトエイザに移ろうとしている権力。里の常識を覆す研究。
このふたつを結びつけて考えるのは簡単だ。特に、反発する人々にとっては。
軟着陸は難しくなったのかも知れない。
「……ともすれば、また物騒なことになるかも知れない。
もし妙なことを考える連中が出てきたらと考えると、君には早めに帰ってもらう方がいいやもな……」
「一応、そのつもりで備えてはおきます」
既にアルテミシアは出発を早める具体的算段を立て始めていた。
人間語の会話が理解できずにいるリムルセイラは、ひたすらに所在なさげであった。
* * *
翌朝。
リムルセイラはいつも通り、川縁の食堂まで朝食を取りに行った。
人間達からは何故か菜食主義のように思われることが多いエルフだが、実はその食文化は狩猟を中心とした肉食および昆虫食が主軸である。
森と自然に関して人間とは違う観念を持つために、エルフ達は農業をしない。自然の植生が豊かになり獣が増えるよう森に手を入れているので、それは広義の農業とも言えるかも知れないが。
小川の近くに設けられた調理場からは、今日も肉を焼く煙が上がる。そしてすぐ近くの食堂では、調理係のエルフ達が配膳を行っていた。
火を使える場所が限られているため、エルフ達は必然的にその近くに食堂を作り、ほとんどの者は食事を取るために集まることになる。もちろん一族の全員が入りきるわけはないので、所属や年齢によって時間を区切ることになる。
今はちょうど、未成年のエルフ達が集まる時間だった。
『ねぇリムル。お客さんと話をしたって本当?』
長机で食事を取っていたリムルセイラはいきなり背後から声を掛けられ、川魚の塩焼きを吹きだしてしまいそうになった。
同じく訓練生である数人の同僚達がそこに居た。みんな好奇心に目を輝かせている。
『マーレ……』
『ち、違うから! 今回は私じゃないから!』
隣に座るマーレシャルンを睨み付けると、前科のある彼女は必死で手と首を振って否認する。
アルテミシアの所へ行く時、誰かに見られた記憶は無いのに、どこから知られたのだろう。
朝食の盆を持ってやって来た野次馬達は、リムルセイラ達の両脇のスペースに無理やり体をねじ込んで座り、何が何でも話を聞く構え。
どうせもうマーレシャルンに根掘り葉掘り聞かれていること、リムルセイラは観念して、この朝食の時間を彼女たちとのお喋りに使うことにした。
それにリムルセイラ自身、あの衝撃的な出会いを多くの人に話したいと思っていた。
蝶のように美しく、フクロウのように思慮深く、狼のように毅然とした不思議な少女のことを。
『夢みたいに綺麗な子だった』
『私より?』
『もちろん』
『ひっどーい』
茶々を入れるマーレシャルンに、リムルセイラは容赦無く切り返す。
マーレシャルンは大げさに傷ついたアピールをした。
『もし一目見たら、誰だってあの子と自分を比べようなんて思わないわよ』
リムルセイラは確信を持って言った。
まさか自分より年下の、それも人間の子を美しいなんて感じるとは思わなかったけれど、もはやアルテミシアという存在は美しさの暴力だ。あの現実離れした美貌だけで10人中9人は黙らせられるに違いない。
『まだ子どもだって聞いたけど、本当なの?』
『うん……エルフ換算で19くらい? に見えたかな。11歳だって言ってた』
『うっそー!』
『本当に『獣』と戦ったの?』
『どうやって倒したの?』
『ああ、それはね……』
気がつけば直接話をしている者だけでなく、周囲で食事を取っているほとんどが盗み聞くようにリムルセイラの話に耳を傾けていた。
リムルセイラは、こんな所でさらし者みたいにアルテミシアの話をすることをちょっと後ろめたく思う反面、みんなが自分に注目しているというのは快感でもあった。
リムルセイラはアルテミシアから聞いた冒険譚を、そのまま話す。
……話そうとした。その時だ。
『傾聴――――っ!!』
食堂のざわめき全てが切り裂かれ、リムルセイラは心臓が口から飛び出すかと思うくらい驚いた。
張りのある声で注目を集めたのは、今し方入り口から入ってきたひとりの兵士だ。
ぞろぞろと数人の大人達が、未成年者だらけの食堂に乗り込んでくる。
食事時の、皆が集まる時間に連絡があることは珍しくない。
その類いだろうとリムルセイラは思った。さあこれから気合いを入れて語るぞ、と思っていたところで出鼻をくじかれた格好。少しばかり残念だと思うだけだった。
ところが、どうも様子が違う。
物々しい雰囲気で踏み込んできた連中は、いくつかの出入り口や大窓を塞いで立つ。まるで通せんぼするように。
突然の闖入者を呆然と見ていた調理係にはマンツーマンで武装した兵士が付き、見張るような位置に陣取る。……そもそも彼らの食事の時間でもないのに、こんな場所に武装した兵士が入ってくることがおかしい。彼らは皆、仮面のように固く動かない表情だった。
不安げなざわめきが食堂には満ちた。
そしてリムルセイラは見た。
お膳立てを整えて満を持して、と言う風に入ってくるカリンシーレの姿を。
巫女装束はいつも以上に気合いの入った着こなし。
しかし彼女は仮面のような顔をした他の者達と違い、深く思い悩み苦しみ、一歩足を踏み出すことにさえ迷いがあるような様子だった。
小さく深呼吸して、彼女は気合いを入れる。
『里の未来を担う若人達よ! 話がある!』