10-4 未来のカケラ
リムルセイラはほとんど八つ当たりでマーレシャルンを恨んだ。
客用の領域はみだりに立ち入る場所でこそないが、出入りが禁止されているわけではない。
滞在先の部屋が分かれば、そこか、その付近を探して会えるはず……
そこまでは確かにもくろみ通りだったはずなのだ。
――なんで、なんでなんでなんで族長様が居るのよぉおおおお!?
供の者すら付けず客人と向かい合っているのは、誰あろう族長のザンガディファではないか。
ほとんどのエルフ達にとって……ましてや一介の巫女見習いでしかなく、半人前扱いの未成年者であるリムルセイラにとって、族長は雲の上の人だった。人間社会で例えるなら王や領主に対する感覚に近い。恭しく頭を垂れてお言葉を聞くだけの相手だ。
まさかその相手とこんな場所で鉢合わせしようとは!
逃げ出したかった。
かと言って、ここできびすを返して逃げたらそれこそ失礼だ。
『訓練生か。どうした、何故ここに?』
訝しげなザンガディファからの質問に、リムルセイラは冷や汗を掻いていた。
『あ、あ、あの……私、リムルセイラと言いまして……ええと、ポーションの話を……
母が助かったと……だからその、聞きたくて……つ、作った人に』
しどろもどろの答えだったが、言いたい事は伝わったようで、ザンガディファは隣の少女を見る。
『リムルセイラ……そうか、ニエラシャーンの……』
「■■■■■■■■■■■■。
■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
「■■■■? ■■■■。■■■■■■■■。
■■■■■■■■■■■■■■■」
人間語で二言三言会話をすると、ザンガディファは席を立った。
どうやら帰っていくらしいというのはリムルセイラも雰囲気で察したが、それはつまりテラス状の広場にひとつしか無い出入り口を、つまりリムルセイラの隣を通ると言う事で……
――ひええええええ……
生きた心地がしないとはこの事だ。
礼をした姿勢のまま、リムルセイラは凍り付いていた。
『……ニエラシャーンの事は、済まないな。
ある程度落ち着いたらお前にも会わせられるだろう』
『はひっ!』
声を掛けてもらえるなんて思っていなかったリムルセイラは上擦った返事になってしまった。
『あの! ……母を助けていただきましてありがとうございました』
取り繕うようにリムルセイラは言った。そして、欺瞞だ、と思った。
ありがたいだなんて思っていない。どう受け止めればいいかも分からないまま事態の推移に流されているだけ。
しかし、親を助けられて礼を言わないというのはあり得ない。さもなくば不孝であり、それは道から外れる振る舞いだ。
『礼には及ばない。彼女は里のために、森のために尽くした巫女。我らはそれに報いねばならぬ』
リムルセイラは頭を下げたままだったが、ザンガディファは微笑んでいたような気がした。
足音が背後に遠ざかって行き、ようやく頭を上げる。
ほっと胸をなで下ろして、それからようやくリムルセイラはアルテミシアを観察することができた。
――この子が……?
信じられなかった。
未知のポーションを作ったというのも、『獣』を倒したというのも。
エルフで言うなら20前後だろうか。
『可憐』と言うよりも『可愛い』と形容する方がまだ似合う。だがそれをどんな言葉で表現しようと、彼女の美しさは揺るがぬ事実だ。
身長はリムルセイラの胸くらいまで。綿毛のようにふわりとした髪は、エルフでも嫉妬するような鮮やかな緑。ハルシェーナ湖の湖面のように美しい青目。桜色のほっぺ。そこに居るだけで花が咲いたように錯覚し、微笑めば夜空の星が落ちてきたかのように目映い。
細く小さな体は作り物めいて見えるほど完璧に形作られ、触れれば雪のように融けてしまいそうな儚さと、幻獣のような冒しがたい高貴さを感じさせる。
息を呑むほどに美しい大人の女性というのは何人か知っているが、明らかに年下の少女を相手に美しいと感じたのはこれが初めてだった。普段目にしている里の子ども達とは何かが違う。……アルテミシアには、子どもらしい泥臭さが無い。絵に描いたような非現実的美少女だった。
見とれてしまったリムルセイラだが、まだ挨拶さえしていないことを思い出して我に返った。
『あの、リムルセイラと言います。この里の巫女訓練生で、ニエラシャーンという巫女の娘です』
リムルセイラは指でぎこちなく印を切り、拝礼をする。
これは祖霊に向かい合う巫女の仕草であり、転じて、巫女が他部族や他種属の相手に対して行う礼ともなったものだ。
これまで正式にやった事は一度もなく、完全に見よう見まねだが。
リムルセイラの緊張をほぐすように、アルテミシアは柔らかく微笑んだ。
『はじめまして。わたしはアルテミシア。
立ち話もなんですから座ってください。出がらしで申し訳ないですが、薬草茶をお出ししますよ』
さえずる小鳥のような美しい声だった。
テーブルの上にはティーセットが出しっぱなしだ。アルテミシアはザンガディファが使ったカップをよけて、予備のものに茶を注ぎ始める。
小川に遊ぶ稚魚のような手がテキパキと動き薬草茶をこしらえる様を、リムルセイラはほとんど陶然と見ていた。
『はい、どうぞ』
『ありがとうございます……』
温かいお茶をリムルセイラが一口飲んだところで、アルテミシアの方から切り出した。
『わたしに聞きたい話って、何ですか?』
『えっと…………全部?』
疑問系で首をかしげながらリムルセイラは答えた。
『あなたが……あなた達がなんで森へ来たのかとか、噂は聞いてますけど……本当か分からないし。
誰も作れなかったポーションをどうして作れたのかとか、なんで作ったのかとか……
それに、どうやって『獣』を倒したのか……』
『なるほど、わかりました。じゃあ最初から』
アルテミシアはちょっと苦笑した。困ったような表情も可愛いなあ、とか、リムルセイラは半分上の空で考えていた。
お茶菓子の代わりに、胃もたれするような冒険譚をアルテミシアは語って聞かせた。
暗殺者から逃げてきたサフィルアーナ。巻き込まれたアルテミシア。サフィルアーナを利用しようとするレンダール王国。里へ乗り込むという解決策。かつての巫女フィルロームの協力。『改革派』の協力。エウグバルドの企み。エウグバルドを止めるためにエルマシャリスを治療したこと。そのためのポーション。『獣』の暴走。そして、『森の秘宝』を使っての背水の攻撃……
夢中で聞き入りながら、リムルセイラは感心していた。
――やっぱりこの子、すごく頭良い。
垢抜けない子どもらしい雰囲気の語り口なのに、ややこしい事態を高度にダイジェスト化して、1から話を聞くリムルセイラにも順を追って理解できるよう整理している。
『……かくしてエルフの里とカイリ領は救われたのでしたー。めでたしめでたし』
ひょうきんな言い回しでアルテミシアは締めくくる。
話を聞き終わった時、リムルセイラは、自分もアルテミシアの一ヶ月ばかりの冒険に付き従ってきたかのように心地よい疲労と達成感を感じていた。
『すごい……ですね』
そう言うしかなかった。
アルテミシアはその容姿の美しさだけでも十分に非現実的な少女だが、その彼女の偉業は、さらに現実離れしているのだ。
『なにかまだ聞きたいところ、ありますか?』
『ええと、今の話ですけど……アルテミシアさんは、星詠草をちょっと潰しただけで精神修復ポーションが作れることが分かったそうですけど、どうしてですか?』
全く未知の効果のポーションを作るというのは山師のような行為だということくらい、リムルセイラだって知っている。
何しろ作り方以前に、目的としているポーションが本当に存在するかどうかがそもそも分からないのだから。
『うーん……わたしはそういう人だから、としか言えないですね』
苦笑しながらアルテミシアは答えた。
答えになっていない答えだが、もはやアルテミシアに関してはどんな理不尽な奇跡でも許されるような気がしていた。
『あと、もうひとつ! おいくつなんですか!?』
『11……って言っていいのかな』
『ウソ!? 私の半分もないの!?』
リムルセイラは急に、恥ずかしいくらい自分が子どもっぽく思えて赤面した。
いくら人間がエルフより短命だと言っても、おそらくアルテミシアはエルフ換算してもリムルセイラより年下だ。
エルフはおよそ40歳ほどで成長が止まるのだが、それまでは未成年者・半人前として扱われる。一人前に行動させてはもらえないが、逆に言えば責任を負うこともない。働くことも戦うこともない。モラトリアムである。
そんなリムルセイラにアルテミシアの存在は眩しすぎた。ポーションの調合で身を立てているという身の上、そして自らの命を賭けて戦ったこと。
エルフのように部族の庇護がない人間でも、彼女ぐらいの歳なら普通は親が……
――あっ!?
リムルセイラはそこでようやく思い至った。アルテミシアは自立しているのでなく、自立せざるを得なかったのだという可能性に。
親の居ないエルフは部族が育てる。だが人間の場合、それはどうなるのか? 少なくともアルテミシアの話の中に、義姉のレベッカを除けば家族の話は全く出てこなかった。
アルテミシアの家族の事情について質問するような無粋な真似は、さすがにしなかった。
だが、ふと、リムルセイラは思った。もしかしたら彼女なら自分の気持ちを分かってくれるかも知れないと。
『……アルテミシアさん。少し、込み入った相談が、あるんですけれど……』
『なんですか?』
『お母さんのことです』
自分より小さな……否、自分より幼い少女にこんな相談をするのは、本当なら憚られることかも知れない。
それでもリムルセイラは誰かにこの話を聞いてほしかった。こんな話ができるのは客人である彼女くらいしか居ないのだ。
そして、母を助けたアルテミシアなら娘である自分も助けられるのではないかという根拠の無い期待もあった。
『お母さんを助けてくれたあなたに言うことじゃないのは、分かってます。
でも私、どうすればいいか分からないんです。
まともに喋った事も無いし……』
『お母さんを他人のようにしか思えない……みたいな事ですか?』
『確かに、他人みたいなものです。
でも実際は他人じゃない……それが、すごく気持ち悪い。
大切な人なんて気は全然しないんです』
言ってしまった、とリムルセイラは思った。
モヤモヤと心の中にわだかまっていた気持ち。
言葉にしてしまえば、自分でも『なるほどそういう事か』と思う。
腐った食べ物を土に埋めるように、リムルセイラは自分の人生から『母親』という存在を切り離していた。
だが今、リムルセイラの心の中に、『母親』という巨大な異物が入り込もうとしている。
リムルセイラに何のことわりも無く、『やめて』も『ちょっと待って』も言いようがないままに。
思い出したように茶を飲むと、それはとっくに冷めていた。
『お湯、もらえますか? 入れ直しますよ』
『あ、はい、ありがとうございます。……≪水作成≫、≪沸騰≫』
ポットを満たした水は即座に沸騰。これくらい、エルフなら子どもでもできるのだ。人間であるアルテミシアは、それをリムルセイラに任せた。
ふとリムルセイラは、痩身に緑の髪というエルフ的な容姿であっても、あくまでアルテミシアは耳の丸い人間だという事を思い出した。これほど完璧なエルフ語をどうやって身につけたのだろう。
薬草茶をつぎ直すと、アルテミシアは手を組んで何事か考え込む。
入れ直された茶はリムルセイラの胸にしみた。
『気になっていることは分かりました。
どんな風にしたい、どんな風になりたい、とか……そういうのはあるんですか?』
『えっと……やっぱりお母さんをなんとも思えないのは、よくないと思うんです。でもそれをどうしようもなくて』
『……それは、それでいいんじゃないですか?』
思いもよらない言葉に、リムルセイラはあっけにとられた。
しかしアルテミシアがいい加減に答えているようには見えない。
『問題は心理的な距離感と社会的な距離感のズレ、みたいな感じかな。
子どもは親を愛して当たり前、親は子どもを愛して当たり前なんて、そんな事はないですよ。
親を愛せない子どもも居る。でもそれは、良い悪いの前に、そういうものじゃないのかな。だからその事で気に病んだりする必要は無いと思うんです。ましてリムルセイラさんは、これまでお母さんと一緒じゃなかったんですから』
アルテミシアの言葉は、リムルセイラにとってすら大きなショックだった。
祖霊を崇めるエルフは、祖先だけでなく年長者・親・兄姉に対する敬意を重要視する。親を愛せなくてもいいなんて言葉は天地がひっくり返るようなものだ。
『そ、それは……それでいいんですか!?』
『わたしがそう思うってだけです。でも、人と人の関係に絶対の答えも、定型も無いはずです。だから、これが正しくてそこから外れたら不正義なんて考え方は……違うかなって』
感動を通り越してリムルセイラは戦慄した。
種族差による価値観の違いでは説明できない。アルテミシアの中には理論がある。もはや哲学の領域に思えた。この小さな人間の少女には何が見えているのだろう。彼女の視点は既に、どれほど離れているかも分からない高みにある。
いいや、高さではない。これは進歩だ。
里にも変化の兆しがある。因習を否定する『改革派』が台頭した。だがそれよりも遙かに先をアルテミシアは歩んでいるという気がした。
『関わり合うのが辛いなら、遠ざけたっていいんですよ。でもそれが気持ち悪いなら、とりあえず『はじめまして』でいいじゃないですか。お友達になれるかも知れません』
『お友……達?』
『一般論ですけど、血が繋がってるだけで親子になれるなら苦労は無いと思うんです。
長い時間一緒に生活して、お互いに得るものがあって、それで始めて親子って言えるんじゃないかなって思います。
会ったばっかりで親子って言われてもピンと来ないでしょうから、まずはお友達から始めましょうってことで』
快刀乱麻とはこのことだ。絡み合った蔓草のような想いを、アルテミシアは一太刀ですっきりと整理してしまった。
自分は何を悩んでいたのだろうかと不思議に思うほどだった。ちょっと視点を変えただけで、悩みだと思っていたものはなんでもなくなってしまった。
『は、話を聞いてくれてありがとうございます……! やってみます!』
『どういたしまして。
……ニエラシャーンさんにも、きっと、少しずつの方が良いと思うんです。大事なのは……』
『納得できませんッ!!』
ほとんど絶叫と言ってもいい誰かの声が聞こえて、ふたりは仲良く飛び上がった。
一瞬、誰かに叱られたのかと思ったが、リムルセイラ達に向けられた言葉ではない。そう遠くないところで誰かが言い争っている。
それは広場の出口の方、つまりザンガディファが立ち去った方からだった。