10-2 ボールハンドボックス
病室からは長老会議のお偉方も野次馬も去って、静穏を取り戻していた。
入れ替わるようにやってきたのは族長たるザンガディファと、今回の件に深く噛んでいるヘルトエイザ。そして、ポーションの提供者であるにもかかわらず治療には立ち会いを許されなかったアルテミシア。後はアルテミシアが行くところどこにでも付いてくるレベッカだった。
そして部屋の主であるニエラシャーンは、ベッドの上で頭を抱えていた。
『80年……』
うめくように彼女は呟いた。
それは長い時を生きるエルフにとっても決して短い時間ではない。
『何も、覚えておらんのか』
ザンガディファが問うと、ニエラシャーンは頭を振った。
『覚えていません。フワフワして、でたらめに楽しくて、何も分からなくて……
それが……気が付けば80年……』
80年の空白を突きつけられて、あまりの事態に混乱しているようだった。
ザンガディファが発言を促すようにアルテミシアの方を見る。
所見を求められているようだが、医師でも魔術師でもなくあくまで調合師であるアルテミシアに分かることは少ない。
『……エルマシャリスさんの場合とは違いますね。
死霊魔法の失敗で精神にダメージを負うことを、エルフの言い回しでは『心を亡くす』と言いますけれど、エルマシャリスさんはその言葉通りで、ちゃんと見えるものや聞こえるものを認識し後から思い出すこともできたのに、何も考えず何もしようとしないという状態がずっと続いていました。
ニエラシャーンさんの場合は、お酒を飲み過ぎたみたいに理性と意識のスイッチが切れて、何も分からなくなってた……』
『何故だろうな?』
『その違いは、どっちかって言うと死霊魔法の領分じゃないかと思います。
幸いなのは、症状が違ってもわたしのポーションはちゃんと効いたって事です』
『そうだな……』
魔法の薬は理不尽に便利だった。
『教えてください。私に何があったのですか?
さっきの子は、いったい……?』
『ああ、お前は……知らないだろう。最初のひとりだったから』
ザンガディファは沈痛な表情で目を閉じていた。シワ深い顔がさらにシワ深くなる。
『お前が巫女だった時代……つまり、『獣』との戦いで心を亡くした頃、巫女殺しは既に内外から疑問を持たれていた』
『その因習を今になって復活させようとした奴がよく言うぜ』
ヘルトエイザの容赦無い追及に、ザンガディファの表情は苦い。
だがヘルトエイザの言い方はそれほど辛辣でもなく、それ以上ザンガディファを責めもしなかった。
『……その頃、里を治めていたのは先代のグィンフューラだが、彼はお前を哀れみ、命を救えないかと考えた。
しかし心を亡くした巫女を殺さずにおく道は本来、無かった。
巫女は死ぬか、婚姻を行った場合にのみ巫女の座を明け渡すことになる。それが『掟』だ』
前例を曲げられなかったのにはふたつの理由がある。
第一には、部族の威信を保つため。
これは内部の者のこだわりに限った話でなく、周囲の部族から尊崇の念を得続けなければならないという事情があったからだ。
この『湖畔にて瞑想する蔓草』の部族は、森の長としての立場がある。『獣』との戦いを引き受け、さらに己を厳しく律する姿勢を見せることで、他部族からの全面的な支援を取り付けている。自ら威信を傷つけるような態度を見せることは森全体の混乱を招く、政治的に極めてまずい振る舞いだった。
第二には……アルテミシアの語彙によって表現するなら……里のガバナンスの問題だ。
巫女の退位に関する制度は、慣例ではなく『掟』だった。
『掟』と言うと野卑なイメージもあるが、要はこれがエルフ達にとっての法律だ。
良い目的のためであれば法を破ってもいいのだろうか? 個々人のすることならいざ知らず、統治者の理論で言うなら答えはノーだ。
良い目的のために法を破れば、やがてその穴は悪事のためにも使われる。法の権威が失墜すれば、罪人を裁く法すら毀損される。統治する側が法を破るというのはコミュニティを無法へと貶める行為だ。
正面からニエラシャーンの命を救おうとすれば多くの混乱を招く。
だが、その衝撃を緩和するちょうどいい抜け道があった。
『グィンフューラは一計を案じた。
心を亡くした巫女を名目上結婚させ、巫女の地位を退かせ……
たとえ心が戻らぬまでも、里の片隅で静かに余生を送らせることはできないものか、とな』
『それで……私は、生きているのですか……』
『そうだ。我が部族の戦士、鷲の羽に祝福を受けし者、ゲザデューラとイルニィルの子、レイジャンダがお前を娶った。
彼は……お前との間に一子をもうけ、11年前に現れた『獣』と勇敢に戦った末、死んだ』
ニエラシャーンは息を呑む。
ニエラシャーンの視点からすれば、人事不省状態の間に勝手に結婚させられて、さらにその夫が事に及んでいたという事を意味する。
おぞましいことに、それは暗黙のうちに推奨されてすらいた。魔法の失敗による精神異常など遺伝しない。そして、巫女にまでなった優秀な血が絶えることは部族の損害だと考えられてきたのだ。
殺されはしなかったとしても、それが救いとなるかどうかは個々人の感性によるだろう。
『では、あの子は……!』
『リムルセイラは正真正銘、お前の子だ。今年……ええと』
『26だ』
『うむ。今は訓練生として巫女の修行をしている』
『ああっ……!』
ニエラシャーンは震える手で顔を覆った。
自分の扱いに絶望している、という風にはあまり見えない。純粋に混乱している様子だ。
彼女がされたことは少なくとも21世紀の日本の倫理観で言えばアウトだが、そもそもエルフ達は結婚の相手すら長老会議によって定められる社会。そこへの抵抗感はあまり無いのかも知れない。
……だとしても、目覚めれば80年の時が経っていてさらにその間に娘まで産んでいたとあれば、頭の処理能力をオーバーフローする事態には違いないだろうが。
『あの、これを。悪い薬ですけど心が落ち着きます』
アルテミシアは薬鞄から沈静ポーションの水割りを取り出してニエラシャーンに差しだした。
もうマナには必要無いが、有用性がある事は分かったのでストックしておいたのだ。早速役に立った。
『ありがとうございます……』
ニエラシャーンは縋るように一気飲みをした。
そしてそれを飲み終わって一息ついたところで、ようやくアルテミシアという存在の不自然さに気が付いた様子だった。
『……あの、あなたは?』
『彼女は里の客人だ。
彼女が精神修復ポーションの製法を発見したことで、我々は心を亡くした巫女を救う手段を手に入れた』
ヘルトエイザが代わって説明すると、ポーションの小瓶を両手で持ったまま、ニエラシャーンは翡翠のような目を瞬かせた。
『人間……? よね? その、人間って事は、見たままの歳の……
女ドワーフとか妖精族の老賢者とかではなく』
『正真正銘な……いささか信じがたいことではあるが事実だ』
ふたりの会話を聞いてレベッカは偽乳アーマーの胸を張っていた。
当のアルテミシアはこういう時、自分よりレベッカが先に、しかも大げさに喜んでくれるので、苦笑めいた乾いた笑いが浮かんでくるばかり。
ニエラシャーンは思い出したようにアルテミシアに礼をした。
『本当に、ありがとうございました。あなたのお陰で私は助かりました』
まだ助かって良かったかどうか自分で分かっていないような様子だった。
ただ、『状況的にお礼を言うべきだ』という理性からの発言であるように思えた。
『どういたしまして、お大事に』
努めて明るくアルテミシアは言った。
* * *
ザンガディファを病室に残し、三人は一足先に引き上げていた。
戦いから数日経過した今も里の中は慌ただしい。
壊滅した『太陽に向かう燕』の里の後始末や避難民の受け入れ、そして何よりもハルシェの街への人道支援のため人や物が動き回っているからだ。
「浦島太郎よねー……」
ゆらゆらと揺れる蔓草の吊り橋の上で飛び跳ねて、意味も無く揺れを作りながらアルテミシアは呟いた。
「なにそれ」
「遠い国のおとぎ話」
長生きするエルフだから、80年経ってもかつての知り合いは大部分が存命だろう。それは幸いと言えるのかも知れないが、断絶は深い。
まして、初めて会った娘になどどう接すれば良いのか。
「狂っていた間、『楽しかった』って言ってたけど、それは幸いだったのかしら」
「不幸中の幸い、じゃないかな……
聞いたんだけど、ずっと薬で眠らされてる人も居るんだって。風が吹いても鳥が鳴いてもこの世の終わりみたいに怖がるんで、これじゃ心臓に悪いからって。
そういう人に比べればずっと良い。でも、いざ目が醒めれば同じ事、だよね」
「元に戻らないよりは良かったはずだ……と、思いたいがな」
ヘルトエイザも重い溜息をつく。
「せっかく助かったんだ、悪いように思わせないのが俺達の仕事だ。
今、心を亡くしてあそこに収容されているのは、皆かつて巫女として里に貢献した大恩ある方々だ」
「アフターフォローはお願いします。部外者のわたしはポーションを作るまでしかできませんから」
「ああ。
だが、もうこんな事はこれっきりだ。誰かさんが便利なポーションを発明してくれたからな。
何しろ、目の前で奇跡のように治った奴が居る。長老会議の連中も認めざるを得ないぜ」
ヘルトエイザは鳥のクチバシのような形を手で作って笑った。たぶんサムズアップのような『いいね!』のサインなのだろう。
ニエラシャーンの治療にアルテミシアは立ち会えなかった。お偉方から同席を拒む理由が色々と出て来たが、端的に言えばメンツの問題だろうとアルテミシアは思っていた。
あの強大な『獣』を倒したばかりか、不可能と思われていた心を亡くした巫女の治療までアルテミシアはやってのけた。里の者ではなく、外から来た彼女が。
ほとんどの者達は小さな英雄を無邪気に褒め称えているが、アルテミシアという未知にして制御不能な異分子が里に対して政治的影響力を強めることを危惧する向きもある。
今回はアルテミシアが勝手にドサクサ紛れに治療したエルマシャリスと異なり、正式に里として行う初めての治療。そこにアルテミシアを立ち会わせないのは、長老達のささやかな抵抗だった。
もっとも、魔術師でも医師でもない自分が立ち会ったところで何ができるわけでもないのだからと、アルテミシアはそれを甘んじて受けた。
過程はどうあれ、精神修復ポーションの有用性が実証されたことには違いない。これから先、他の巫女達にも投与されることになるだろう。
「魔法の失敗で心を亡くすのは、当代の巫女達にとっても、やがて巫女となる者達にとっても身近で大きな恐怖だ。
そこから解放されるってのは……未来が明るくなるんだぜ。
もちろん当事者だけじゃなく、周りの奴らにとってもな……」
ヘルトエイザは遠いところを見ながら言った。
彼が誰のことを考えているのか、アルテミシアは分かるような気がした。
* * *
リムルセイラはこっぴどく叱られた。お偉方が集まるような場で勝手な事をしたのだから当然だ。
しかし叱られただけだった。森の中を一晩中歩いて木々の声を聞く荒行をしろと命じられもしなかったし、定番のメシ抜きも免れた。それは彼女の行動に情状酌量の余地があると誰もが考えたからだった。
実際のところ、それはリムルセイラにとって少し的外れな気遣いだった。
……子どもが親を心配して当然などという理は無いのだ。親に会いたいと焦がれているとは限らないのだ。特に生まれてから一度もまともに言葉を交わしたことが無いような親であれば。
ただ、どうしても心の整理が付かないことに何かの答えが出はしないかと思って駆けつけただけだった。
『はぁ……』
枝葉の隙間から月を見上げて、リムルセイラは嘆息した。
結局、あれ以上言葉を交わせずにニエラシャーンとは引き離されてしまった。
夜半の部屋から見上げた月は、いつもと変わらぬ厳かな輝きだ。
『……リムル?』
ふと、声を掛けられて振り向けば、隣のベッドで芋虫のように毛布にくるまっていたマーレシャルンが身を起こしていた。
『ごめん、起こしちゃった?』
『いいよ、いいけど……寝れないの?』
『うん』
次から次にいろんな考えが浮かんで、とても眠る気になれなかった。
普段ならこんな時間に起きているのが見つかると当然怒られるのだが、なにしろ今は巡回すら来ない。
『早く寝ないと……って、明日も多分何も無いか』
『うん……』
考え事をする時間だけは、憎たらしいくらいたくさんある。
上の空で返事をしながら月を見ていたリムルセイラだが、ふと、ある事に気が付き、野ネズミを見つけたヘビのように振り返った。
『聞いたのね?』
リムルセイラとニエラシャーンの事情を。
マーレシャルンは気まずげに目を逸らした。
『えいや!』
『わっ!』
マーレシャルンのベッドに飛び込んだリムルセイラは、そのまま毛布ごと彼女に抱きついた。
『普段なら何でもかんでも根掘り葉掘り聞きたがるのに。あんた、気の遣い方が分かりやすすぎ』
『リムルには敵わないなあ』
ふたりはくすくすと笑い合う。
『……しばらくは面会謝絶よね。絶対に』
『お母さんに会いたいの?』
『会いたいって言うのも違うかな……』
なにしろ、この歳まで全く関わり合いが無かったと言ってもいいような親だ。今更会ったところでどうするのかという気もする。
だがそれはそれとして、無視はできなかった。
『私の知らないところで何もかも動いてるような気がする。ちゃんと何が起きているのか、何があったのか知って……モヤモヤした気持ちにけりを付けたい。って感じ』
自分がどうやって生まれたのかを知ってから、そして母親であるニエラシャーンに一度会ってからずっと抱えてきた、何か落ち着かないようなモヤモヤした気持ち。
もしかしたらそれをどうにかできる機会なのかも知れない。
マーレシャルンは山猫のように目を光らせた。
『そんなリムルちゃんに朗報。お母さんには会えなくても、会えそうな人が他に居るのよ』
『誰それ? 勿体ぶらないでよぉ』
『話題のお客人、例の人間の女の子よ。なんでもあなたのお母さんを治したポーション、あの子が作ったんだって』
『え……えぇ?』
リムルセイラは理解できなかった。
彼女が『獣』を仕留めたという話は聞いていたが、そのせいで彼女を天才的な戦士か何かだと思っていたのだ。それが、不治の病を癒すポーションまで作り出したと?
『それホント?』
『ホントよホント。今なら滞在先の情報も付けとくよ。
大人達はみんな忙しくてガードも緩そうだし、今行けば会えるんじゃない?』
『ありがとマーレ! あなたの早いだけの情報が初めて役に立った気がする!』
『リムル、あんた結構酷いよね?』
その後何か話をしたはずなのだけれど、押し寄せる眠気の波に記憶は洗い流されてしまったようで、気が付けば朝だった。
ふたりでシェアしていたはずの毛布はいつの間にかマーレシャルンが独り占めしていたが、暑い季節なので風邪は引かずに済んだ。