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9-56 再会

 背中に触れる地面の感触が冷たかった。

 元は石畳か何かだったのであろうそれは、死の嵐によって『殺され』た結果、ただの灰色をした砂と化していた。


「成功…………したのね」


 体の感覚を確かめるようにしながら、アルテミシアはゆっくりと起き上がった。


「生きてる……」


 顔に当たる髪の感触が妙に刺々しい。

 おそるおそる手で触れてみると、針金に触れたような奇妙な手触りだった。死の嵐に晒されたせいだ。


「うわー、髪がひどい。みっともなくなっちゃうけど、半分くらい切らないと……」


 しばらくフード付きの服にしようかな、とか思いつつ。


 目が刺すように痛み、明るい方を見ようとするとぼろぼろと涙がこぼれた。何故だか光が目にしみる。

 手でひさしを作り目を細めると、どうにか周囲を見ることができた。


 太古に滅びた古代文明の廃墟都市のように風化したハルシェの街。

 そこにはもう、死をもたらす闇色の霧は存在しなかった。

 例えば『獣』から切り落とした腕なども、本体を封印できれば霧散する。それと同じ事が起こったのだ。


 周囲の建物の上に陣取った兵達が、まだ何が起こったのか理解し切れていない驚いた顔でこちらを見ていた。


「よくやった、アルテミシア!」


 ヘルトエイザが拳で天を突き、快哉を上げた。

 ……しかし彼はすぐ、何か妙な物を見たように訝しげな顔になる。


 その視線を追ってみると……奇妙なものが広場に存在した。


 小さくわだかまる闇。いや、ジェットブラック一色で人型をした物体が横たわっている。

 手足と頭があることで辛うじて人型に見えているが、それは末端から順にひび割れて崩れつつあった。


「まさか、これって……」


 その時、無人の大通りを、砂と化した石畳を巻き上げて何かが突っ走ってきた。

 精悍な顔立ちの巨狼二頭が牽引する浮遊狼ゾリだ。途中で高いところから緑髪をたなびかせと飛び降り、サフィルアーナも乗った。

 軽く手を振ると、泣き笑いの様子で身を乗り出しているアリアンナが顔を輝かせる。


「アルテミシア!」

「やりおった! やりやがったよ! あっはっはっは! 最高だ!」


 御者席のフィルロームは心底愉快そうに腹を抱えて笑っていた。興奮した彼女が御者台を叩く度、指示かと一瞬勘違いした狼たちが迷惑そうな顔をしていた。


 宙を滑るように走ってきたソリは、がらんとした広場の真ん中でドリフトをするように止まる。石畳の残骸が吹き上げられた。


『エウグバルド!』


 ()()が何なのか一瞬で理解したらしいエルマシャリスが転がり落ちるように狼ゾリを飛び出した。這いずるように黒い塊に近寄る彼女を、途中からはレベッカとアリアンナが支えた。


「ま、待ってください。近づいたら危ないかも……」

『……エルマ…………』

「喋った!?」


 黒い塊がかすれた声で呟いて、アルテミシアは思わず飛び上がった。

 それはもはや、名状しがたき解読不能の声ではなく、エルフ語だった。


 エウグバルドの傍らにエルマシャリスが跪き、上体を抱き上げた。だがその時、自らの重さに負けたようにしてエウグバルドの片腕が崩れ落ちた。


『腕が……! か、回復を……』

『落ち着け。治すも何も、こいつはもう魂だけのはずだろ。……ちと見せてみな』


 大儀そうに御者席から降りてきたフィルロームは、例の酷いニオイの粉末をエウグバルドに振りかけ、二言三言の呪文を唱えた。

 杖の先に光がスパークし、それで幾度かエウグバルドを突き……そして、フィルロームは首を振った。


『ダメだね、こりゃもう。引き剥がせない。『獣』と一体になってる。

 時間が経ちすぎたし、暴れすぎたんだ。今こうして意識が戻ってるのすら奇跡だよ』

『そんな!』


 無情な宣告だった。

 『獣』の消滅に伴い、その残滓たるエウグバルドも消えつつあった。それが何を意味するのかはエルフの巫女達ですら分からない。封じられた『獣』がどこへ行くのかすら分かってはいないのだ。

 少なくとも、エウグバルドという存在に別れを告げなければならないことだけは確かだった。


『そんな……あぁ、どうして、どうして……』


 エウグバルドだったモノに縋り、エルマシャリスはむせぶように泣いた。

 こぼれ落ちた涙は、雨だれが地を穿つように、エウグバルドの体に刻まれていく。


『エルマ……なぜ、君が……戻ってきたのに、俺、は……もう、ここに……居られないのだろう、な……』

『おばかさん。私はずっと、あなたの傍に居たじゃない。あなたがずっと、私の傍に居てくれたんじゃない……』


 エルマシャリスはエウグバルドの崩れゆく体を抱き、エウグバルドは輪郭が朧になっていく手でエルマシャリスに触れた。

 ふたりは共に、多くを語ろうとしなかった。短すぎる再会を無粋な言葉で穢したくないとでも言うように。


 鎧の鳴る音と共にヘルトエイザが着地する。

 彼は少しだけためらい、それからエウグバルドに声を掛けた。


『メチャクチャしやがって』

『あぁ……お前のことも散々利用し……て、これから、また……苦労させ……る』

『言い残すことはあるか、エウグバルド』

『……無いな』


 ほぼ即答だった。


 いろいろな意味がありそうな言葉だ。アルテミシアはなんとなく彼の考えを察した。

 里やエルフ達……すなわちエルマシャリスの今後の見通しについて言うなら、懸念すべき事はそうそう無い。

 ザンガディファとヘルトエイザはともに健在であり、今後のレンダール王国との政治交渉は乗り切れる。

 エルマシャリスは快癒した。彼女が巫女に戻るのかどうかアルテミシアには分からないが、彼女が部族において尊重される地位である事に変わりはない。

 後のことをよろしくなんてわざわざ言い残すまでもないのだ。


『いや、ひとつだけ……』

『何だ』

『お前じゃない……そこ……居るんだろう、アルテミシア……』


 会話に加われない雰囲気でやじ馬モードだったアルテミシアが急に呼ばれた。

 あちこちが軋むように痛む体を引きずって、アルテミシアは黒い人影を覗き込む。


『ありがとう。エルマを……救ってくれて』


 黒一色の顔からまっすぐに見つめられ、思わずアルテミシアはたじろいだ。


『お礼には及びません。もっと早く助けられていれば……』

『たられば論は不要。君の行動は全てが何らかの必然だ……そうだろう?

 エルフ達は……君という光を得た……それは、福音……だ』


 心底感謝の念を述べているらしいエウグバルドに、アルテミシアは胸が張り裂けそうで何も言えなかった。

 それは例えば『申し訳なさ』とか、あるいは『肩に感じる重圧』みたいに一言で言い表せる感情ではなく、どうしようもなくて呆然とした時のような、渾然とした気持ちだった。


『言う事はそれだけか?』

『お前こそ、俺に……言いたい事の、ひとつくらい…………』

『ふん』


 水を向けられたヘルトエイザは痛々しく失笑する。


『お前は馬鹿だ。自分てめぇが掴めたはずのものを、何もかも自分てめぇで台無しにしちまった』


 ヘルトエイザは辛そうだった。振り絞るような声でエウグバルドを責めた。しかしそれは騙されたことや命を狙われた事への恨み言ではなかった。


 エウグバルドは表情などろくにわからない黒一色の体だったが、その時アルテミシアは何故か、エウグバルドが末期の一笑を浮かべたような気がした。エウグバルドが辛うじて救われたように感じた。


 崩壊は進んでいた。

 散りゆくエウグバルドの体は、崩れた端から空気に溶けるように消えていき、もはや上半身が辛うじて残っているような状態だ。

 

『そろそろ限界かね』


 フィルロームがエルマシャリスに杖を放って渡した。

 短い杖はエルマシャリスに当たって砂の上に落ち、彼女はそれを震える手で拾い上げた。


『…………すまない、エルマ……俺は、愚かだった』

『エウグバルド……』

『ひとつだけ我が侭を言わせて欲しい……どうか、君の手で』


 最初はゆっくりと、途切れがちに、やがてはっきりと。

 嗚咽の中でエルマシャリスは、一言一言呪文を唱えた。

 それはまるで真摯な読経のようでもあり、神に赦しを請う祈りの言葉のようでもあった。


『≪死門ステュクス≫』


 呪文が結ばれ、地に落ちていたエルマシャリスの影が躍動する。

 崩れゆくエウグバルドの体を取り囲み、そして、影のアギトが食らいつく。


 パァン! という残酷なほど軽やかな破裂音と共に、『獣』の最後の残滓は消し飛んだ。


『私を……純潔のままにしてくれたのね、エウグバルド。可愛いひと……』


 エルマシャリスはさめざめと泣きながら、もうそこには居ないエウグバルドを抱きしめた。

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