9-55 変身はヒロインの嗜み
アルテミシアは宙に浮いていた。
眼下には闇に沈んだハルシェの街並み。そしてその闇に隠された、闇の発生源たる『獣』の巨体。
泉のように闇が噴出する広場に、闇を流れ伝わせる巨大な何かが鎮座している。
『獣』がアルテミシアに気が付いた様子は無い。
アルテミシアは『獣』に認識されないという謎の特性を持っているし、『秘宝』を『変成服』で隠蔽するという作戦も上手く機能しているようだ。
しかしそれはあくまでも前提条件だ。これからアルテミシアがしようとしていることの成功を約束するものではない。
周囲の建物の屋根に立つ者達……領兵団の生き残りのプリースト達、そしてエルフ兵達、それを率いるヘルトエイザ。彼らもまた固唾を飲んで見守り、そして支援を行うべく身構えている。アルテミシアがしくじれば彼らとて一巻の終わりなのだ。
ヘルトエイザが頷くのをアルテミシアは見た。準備はいい、という事だ。
アルテミシアは平べったい胸に手を当てて深呼吸した。
これまでの試行錯誤からするに、『獣』は粉末にした『秘宝』に対しては反応が鈍いようだが、念のため『秘宝』を持つサフィルアーナは少し離れた場所に居た。『獣』に『秘宝』を探知されぬためだ。
サフィルアーナの手に残った『秘宝』はおよそ1.5個分。『獣』の守りを剥がすために1個で十分なのは先刻確認済みなので、残りの0.5個分は不測の事態に備えて彼女の判断に任せた。一度に使いすぎても反撃を誘発するかも知れない。
魔法によってそれを放つべくサフィルアーナも身構えている。
彼女に向かってアルテミシアは片手を上げ、合図を出した。
浮遊感。さっきから浮いているのに今さら浮遊感と言うのもおかしいのだが、地に向かっての加速は奇妙な感覚をもたらす。アルテミシアを空中に繋ぎ止めていた魔法の力が途絶えたのだ。
あの霧に近づけば並大抵の魔法は殺される。勢いを付けて放り投げるか、真上から自由落下で襲いかかるしかない。
落下した距離は5mほど。1秒もあっただろうか。
全てはその僅かな時間での出来事だった。
黒い霧の流れ出す源泉に向けて、アルテミシアは落下する。
その前方に割り込むように、鮮烈に輝く碧の流星が飛来した。
パシュッ、と風の弾ける音がして、辺りの霧が、『獣』の体表を流れていた霧が消し飛んだ。
蛍火のような碧の光が余韻を残すように辺りに漂う。
アルテミシアは、溶けかけた蝋細工のような姿になった闇色の巨人を、はっきりと捉えた。
降下する。耳元で風が唸る。ふわふわの髪が風圧に煽られてバタつく。
アルテミシアは膝を抱え込んで丸まった姿勢になっていた。別にスカートがまくれ上がることを防ぐためだけではない。本能的に体を縮めたのだ。
心臓がひとつ脈を打つ。
『獣』の巨体が近付く。
袖口の感触がカサ付いたものになり、やがて袖が丸ごと吹き飛ぶ。……吹き飛ぶ?
何かがおかしい。
――届かない!?
霧は確かに払われている。
だが、視覚的に見える部分だけが効果範囲とは限らなかったわけだ。
『獣』の体表から、再びじわりと死の霧がにじむ。
それが一塊の霧として見えるより外側にも、宙に浮いたホコリのように、死の物質化たる闇色の微細な粒子が散っていた。
もちろんアルテミシアとて、ある程度のダメージを受けることは予想済みだ。
だが……
フリルエプロンが、ウサギの耳のようなリボンが、ゆったりとしたワンピースが。燃えるよりも速い速度で朽ち果てて散り砕け、その下のドロワーズすら乾いた落ち葉のようにひび割れていく。服が殺されているのだ。
『変成服』の残骸を抱え、裸身を丸めてアルテミシアは落下する。
目が乾いたように痛い。心臓の鼓動が痛い。腕が、足が、引きちぎられるように、痛い、痛い、痛い……
――回復が追いつかない……!
体の芯から光が湧き起こるかのような気配。これは回復魔法だ。ヘルトエイザの指揮の下、領兵団とエルフ達が回復を行っている。
しかしそれは、死の浸食に抗し切れていない。回復が押し負ける。つまり、その先にあるのは……
恐怖からアルテミシアは薬染爪剣を出してしまいそうになった。そうすれば装填した『秘宝』の力で死を免れる。だがそれで一瞬命を永らえたとして何になる?
次の瞬間にはそれを検知した『獣』が反撃を行い、死の嵐に吹き飛ばされたアルテミシアはその時こそ絶命するだろう。
残りの『秘宝』をサフィルアーナに投げさせる? 否、不可能だ。
指示を出している間に死ぬ。よしんば何らかの超常的感覚やチートスキルによる高速思考で彼女が異変を察知して、今残りの『秘宝』を発射したとしても着弾までに死ぬ。仮にそれが間に合っていたとしても、こんな舞い飛ぶハウスダストのような細かい粒子にどれほど効果がある? 霧が広がる末端であった先ほどと、発生源を目の前にした今は事情が違うのだ。
何かできるだろうか。考えるまでもなく何もできない。
魔力は無く、力も無く、頼みの綱のポーションも持ってきていない。いや、持ち込んだところで使えなかっただろう。それに身体能力を高めるポーションは既にしこたま飲んである。
これ以上何ができると……
――………………!!
ひとつだけ、アルテミシアは閃いた。
それが失敗したら今度こそ自分は為す術を無くして死ぬのだと理解した。
――『白衣の女帝』!
もはや言葉に出しているような猶予は無い。
心の中で、思考の早さで叫び、アルテミシアは『変成服』に記録されたコスプレナース服(としか言いようがない)を喚び出した。
白衣の天使の装束は、その輝きを急速に失いボロ切れと化していく。
だがそれでいい。
――『綺羅星真鍮』! 『家事妖精』! 『徒花禿』! 『南瓜夜行』! 『夜降ち令嬢』……は薄すぎてダメっ!
自分の声を心の中に思い浮かべていては喋る速さでしか思考できない。
アルテミシアはパソコンの画面を、最小限の指の動きによって高速でタイプされる文字列を思い浮かべた。
真鍮装飾満載のスチームパンク服が、メイド服が、鮮やかな真紅の着物が、ハロウィンの仮装めいた魔女服が生み出され、膝を抱えた姿勢のアルテミシアの内側からあふれ出すように体をまとい、一瞬の後には朽ち果てて散る。だがその一瞬、アルテミシアの体は守られた。
流動し脈打つ布の塊のようになりながら、アルテミシアは降下する!
――『秘跡探検隊』! 『絢爛撫子』! 『ゆるガチ体操着』! 『純白の太陽』! 『郵便人形』! 『神薙舞姫』! 『銀河航海士』! 『清流の晴れ着』……って、これもダメ!
とっかえひっかえ服を着替えて生み出す、一瞬の追加装甲。それはコップの水で山火事を消そうとするような絶望的な試みだ。
だが、その僅かな猶予によって……ダメージと回復は拮抗した!
――『宙猫の聖夜』!
いかにも丈夫そうな赤いツナギが、僅かな間を置いて崩壊する。
『獣』の巨体が迫る!
――『十二の試練』!
ズン、とアルテミシアの体が重くなった。重厚に何枚もの衣を重ね合わせた日本の伝統衣装。十二単だ。
五衣の袖口で生身の顔を覆い、身を守る!
――『誓いの白百合』!
ヴェールが崩れ散り、純白の花嫁衣装は急速に白茶けたボロクズと化していく。
もはや目の前に『獣』の体が、にじみ出た死の霧が!
「『静穏の…………善萌草』あああああああっ!!!!」
ブラウスは白く、ジャケットは不思議な金属で装飾されたパステルブルー。胸下から腰までの幅広なコルセットベルトは本来なら胸を際立たせるものだろうが無いものは際立たない! ケープとマントの中間のような白い織物がたなびき、風に翻って舞い上がる。
薄緑から白へとグラデーションがかかる、逆さまにしたチューリップの花みたいなフレアスカートは、空中戦闘を行うには短すぎるがこの際それはしょうがない。そして細い足を纏う編み上げニーハイブーツ。
着慣れたいつもの服がアルテミシアの総身を包んだ。
その手には『秘宝』を装填した薬染爪剣。
プレート状の籠手は手元の操作によって、うねるスライムのように形を変え、グリップを形成。飛び出した刃には碧の閃光が奔った!
【 ―― Countermeasure det … … … …