9-54 戦略爆撃エルフ
黒い霧に沈むハルシェの街の中。ふたりは、一際高く突き出した鐘撞き堂の上に着地した。
吹き抜ける風は乾ききった土のニオイ。崩れゆく古塔、不毛の荒野、生きる者無き世界のニオイ。人間の街のニオイではなかった。
眼下にはのたうつ虫の群れのように黒い霧が流れている。もし足を滑らせて転落したら酷たらしく死ぬ以外の結末は無い。アルテミシアは思わず身震いした。
黒い霧は街の中心から外に向かって流れを作っていた。その源には当然、『獣』の巨体がある。
だが……
「さっきより小さい……?」
見間違いかも知れないと思ったが間違いない。全身から流れ出す黒い霧のヴェールに隠されてしまって視認しがたいが、もはや『獣』の胴体の上に影の粒子でできたエウグバルドの体はひとつも無い。それどころか『獣』の体すら、ほんの一回りだが縮んでいるように見えた。
「そっか、さすがにこんな大技をノーコストで使えるわけない。火を吐いたときと一緒で体を削ってるんだ」
「見たとこ、あいつはもう保って半日ってとこだろうね。だがこの速度で霧が広がり続けるなら、あと数分で避難民が追いつかれる。外で待機してるお仲間のみんなもアウトだな。
そんで、1時間もあればハルシェーナの森は死に絶えるだろう。あいつが消える頃には……どうなってるか想像したくねぇな。当然アタイらもどこかで飲み込まれる」
サフィルアーナの冷徹な分析にアルテミシアは沈黙で同意した。
あれがいつ自己崩壊するか試してみるわけにはいかない。一刻も早く対処しなければならないのだ。
『獣』の周囲では断続的に光が迸る。高所に居たことで難を逃れたプリースト達の神聖魔法だ。だがそれは『獣』になんらダメージを与えていなかった。表面を流れる黒い霧を揺らがせるだけだ。既に魔力が尽きたらしいほとんどのプリーストは、絶望的な様子でへたり込んでいる。
「神聖魔法でも、この霧には対処できない……か」
もし一瞬でも魔法で霧を吹き飛ばせれば、『獣』に直接攻撃するチャンスは大きくなる。だがそれは望み薄に見えた。
「この霧の滝に魔法で穴を開けて、『秘宝』を撃ち込める?」
アルテミシアは気が付いていた。この状態になってから『獣』は炎を吐いていない。
似たようなものを全身から垂れ流している状態だから、わざわざブレスまで吐く気になれないという事だろうか。
だとしたらやりようがあるかも知れない。
「もう一発を露払いに使っていいならできなくもない。表面の霧を払って、それが戻る前に次をぶち込むだけだから簡単……と、言いたいとこだが上手く行くか分からん。失敗すりゃまた『秘宝』が減っちまう」
「…………お願い」
少しだけ悩んでアルテミシアは決断した。
先ほど霧を払った威力を目の当たりにしている。あれを再現できるのなら十分に有効なはずだ。
もし上手く行かなかったとしたら、その時はその時だ。予想を修正しなければならない。
「分かった。……≪粉砕≫」
呪文を唱えたサフィルアーナの手の中で鮮烈な緑の光が散った。石や岩などを砕く、下級の地属性精霊魔法だ。
その間にアルテミシアは『変成服』からいつもの服と薬染爪剣を呼び出し、装填してあった『秘宝』入りポーションを取り外す。距離を取っているせいか『獣』がこちらに反応した様子は無かった。
「……なんだい、その妙にキレイなポーションは」
「『秘宝』を粉にして混ぜたやつ。こうして消しておけば探知されないみたいだから、わたしが近づいて直接流し込む予定だったの」
「なんてこった。クレイジーだ」
サフィルアーナは呆れたように頭を振った。
「これは『秘宝』3つ分入ってるから。もし最初に試したのが効いたら、これも続けて打ち込んで欲しいの」
「了解した。なら行くぞ……≪風爆≫!」
サフィルアーナの手の上で輝く碧の砂山が、キュッと団子状に丸まった。手のひらの上に圧縮されて渦巻く風が碧玉色の砂を巻き上げているのだ。
そして、飛翔。美しい碧色の残光を描き宙を舞う彗星が『獣』へと襲いかかった。『獣』は、動かない。
「そこだ!」
パシュッ……
流れ落ちる闇色の瀑布に触れる寸前、風の爆弾は弾けた。すなわち、巻き込んであった『秘宝』の粉末は一気に解放され、吹き付けられる。
『獣』を覆う黒い霧のほぼ全てが吹き飛んだ。再び見えた『獣』の本体は、表面から徐々に溶け崩れたようになっていて、無理やり人間の姿を取ったスライムにも見えた。
そこへ次なる一撃が飛来する。
碧の彗星を追うように、もうひとつ。砕いていない『秘宝』の塊が、サフィルアーナの魔法に運ばれて矢のように飛んでいった。
「行っっっけぇー!!」
喉も裂けよとばかりにサフィルアーナは絶叫し、さらに速度を増すべく魔力を込めた。
……だが。
【 ―― Countermeasure detected ―― 】
丸見えになった『獣』の全身から、もはや爆発としか言いようが無い勢いで闇色の霧が吹き出した。
「ああっ!?」
アルテミシアは心臓を冷たい手で掴まれたような心地だった。
――感知された!
失敗だ。碧色に光る塊が吹き飛ばされ、コントロールを失って墜落した。
『獣』の体が二倍に膨らんだかのようだった。垂れ流すだけだった霧の出力が、ほんの一瞬高められたのだ。
「くそ、戻れ!」
地に落ちた『秘宝』は、まるで河のど真ん中に透明な杭を突き刺したように、周囲の霧を浄化して流れを割っていた。サフィルアーナが即座に魔力を練り直し、落下した『秘宝』を捉え、引き戻す。
サフィルアーナの手の中に戻ってきたそれは、二回りほど小さなものになっていた。
「裂け蔓め、霧に溶かされて縮んじまったか。また無駄に……」
「ううん無駄じゃないよ」
悔しげなサフィルアーナの言葉をアルテミシアは遮った。
痛い失敗だ。だが無駄な消費ではなかった。
「最後の手段を使うしかないって事と、それが上手く行くかもって事は分かった」
「おいまさか、アレに斬りかかるってのか?」
サフィルアーナは信じられない様子だが、アルテミシアだって自分の導き出した結論を信じたくなかった。
足が縮んでいるかのように頼りなく、ともすればふらつきそうになる。いつの間にか鼓動が早い。じりじりと追い詰められていく感覚。これから自分が命を張らなければならないという残酷な事実。
緊張しきった体を置き去りにするように、思考だけが冴え渡って明瞭だった。
「霧を吹き飛ばせるのは分かった。
それにたぶん……たぶんだけど、さっきアリアが矢で撃ち込んだ時の反応からすると、『秘宝』に一瞬触れるだけで『獣』は対消滅するはず。薬染爪剣が届く距離まで近付ければいいんだ。それが一番やりやすいのは……」
ちょっとだけ震える手で、アルテミシアは、憎たらしいほど青い空を指さした。
『獣』の上空、何も無い虚空を。
「真上」
「は……?」
「あの霧、空気より重いのか何なのか、今のところ重力に従って流れてるでしょ。つまり頭の上が一番手薄なはず。そこまでわたしを魔法で運んで、投げ落として欲しいの。
それでわたしが『獣』にぶつかる瞬間に、残った『秘宝』で霧を吹き飛ばしてくれれば……」
「無茶苦茶だ……」
もはやサフィルアーナは、アルテミシアが指さしたよりもさらに上、天を仰いでいた。
「……でも、他にいい手も思いつかねーな」
「当然、死にに行く気はないからね。だから、ちょっと向こうの人達にお手伝いして貰おうかなーって……」
その時、鐘撞き堂がぐらりと揺れた。
「きゃっ!」
よろめいたアルテミシアは踏みとどまったが、足下から嫌な振動が伝わってくる。
「建物が死に始めてる……ここももうすぐ崩れそう」
「迷ってるヒマは無ぇか」
「拡声お願い!」
「あっちに声掛けんのか。あいよ、了解」
サフィルアーナが手短に呪文を唱えると、アルテミシアの口元に一瞬光が閃く。
「ヘルトエイザさん、聞こえますか!?」
「アルテミシア! 無事だったか! 今どういう状況だ?」
風化しかけた廃墟都市にアルテミシアの声がこだまするなり、即座に同じく拡声されたヘルトエイザの声が返る。
「周りの人達……領兵の皆さんと、エルフの皆さんも聞いてください」
アルテミシアはそう言った後、エルフ語で同じ事をもう一回言ってセルフ通訳した。
「さっきの光、見ましたよね!?
わたしは今、あの『獣』を消滅させうる手段と、それを隠して『獣』に近づく手段を持っています。
そして今からそれを使います!」
建物の屋根などに登っている領兵、そしてエルフ兵達は表情すら分からない距離だが、動揺している様子なのは分かった。
彼らは『獣』の絶望的な力と手の付けようの無さを目の当たりにしたばかりなのだ。アルテミシアの言葉を聞いて、期待と疑念の大きさはいかばかりか。
「そのためにこれからわたしは、魔法で飛ばしてもらって、あれに突っ込みます」
「はぁっ!?」
全員の戸惑いをヘルトエイザが代弁した。
アルテミシアを知らぬ者(エルフ兵の僅かと領兵全員だ)は、絶望的な状況に堪えかねて気の触れた子どもがデタラメを言っているのだとでも思ったかも知れない。
仮にそうでないとしても、今の『獣』に近付こうなんて言うのが正気の沙汰でないことはアルテミシア自身がよく分かっている。
沈黙は短かった。
「勝算はあるんだな? 俺に……いや、俺たちにできる事はあるか!?」
いち早く気を取り直したヘルトエイザの声音は、もはや腹をくくった様子だった。
「回復魔法が使える人は、全力で私を回復してください! わたしが死んだら終わりです!
プリーストの方々と、あと、エルフ兵の中でも使える人は!」
「了解した、指揮を執る!」
状況判断も決断も早かった。ヘルトエイザの自信に満ちた言葉に、アルテミシアは少しだけ落ち着いた。
アルテミシアはポーション鞄を下ろすと、その中に2本だけ入っていた魔力補給ポーションを抜き出してサフィルアーナに手渡した。
「……これ、向こうに運んで。それとも必要?」
「アタイはまだ元気だぜ。向こうの連中はへばってる。飲ませとくべきだろ」
サフィルアーナが言うや、彼女の手を離れたポーションはヘルトエイザの所へ飛んでいった。
それから先ほど取り外した『秘宝』入りのポーションを薬染爪剣に再装填し
「『夢路の迷子』!」
服ごと消して隠す。再びのアリスルックだ。
治癒ポーションも持って行くか迷ったが、おそらくこんなものを飲んでいる暇など無い僅かな時間で勝負は付くだろうと思い直した。どのみち空中で落下しつつポーションを飲むのは難しい。
後は身一つでぶつかるしかないのだ。
「本当に行くのか?」
「行かなきゃ……どのみち死ぬ!」
「……だな」
サフィルアーナは色々な意味に取れそうな溜め息をついた。
「無事で帰れよ。まだあんたとは話したいことが山ほどあんだ」
「うん……!」
唇を噛んでアルテミシアは頷く。
その足が床を離れ、ふわりと浮いた。